明治政府の基礎をきづいた政治家

  大久保利通 (おおくぼ としみち)
● 活やくした時代   1830年〜1878年
                江戸〜明治時代

● 活やくしたこと

  1830年 薩摩藩(さつまはん 鹿児島県)の下級武士の大久保利世(おおくぼ としよ)の
         長男として生まれる。

  1850年 藩主(はんしゅ)のあとつぎ問題で父の大久保利世が島流しになる。

         大久保利通は謹慎(きんしん 家から出られない)になる。
         大久保利通は貧乏のどん底で勉強にはげむ。
         西郷隆盛(さいごう たかもり)とも勉強にはげむ。

  1853年 大久保利通の謹慎(きんしん)がゆるされる。

  1862年 生麦事件(なまむぎじけん)がおこる。
          薩摩藩主の前を横切ったイギリス人を切り殺した事件
             ↓
  1863年 イギリスはそのほうふくをするために、薩英戦争(さつえいせんそう)がおこす。   
          薩摩藩とイギリスの戦争がおこる。 → その解決に大久保利通があたる。

  1866年 薩長同盟が結ばれる。
         江戸幕府をたおすため、薩摩藩(さつまはん)と長州藩(ちょうしゅうはん)が同盟する。

  1867年 大政奉還(たいせいほうかん)
            江戸幕府が政権を朝廷にかえす。
         王政復古を宣言する。
            天皇中心の政治を行う。

  1869年 版籍奉還(はんせきほうかん)を行う。
             藩が支配してきた土地と人民を天皇にかえす。
         大久保利通が参議(さんぎ 政治を行う役職)になる。


  1871年 廃藩置県(はいはんちけん)を行う。
             藩をやめ、県をおき、明治政府が任命した県令(けんれい)が
             県の政治を行う。

         大久保利通が大蔵卿(おおくらきょう 財政を管理する役職)になる。
               ↓
  1873年 大久保利通が地租改正(ちそかいせい)を行う。
            藩に米を納めるのをやめて、土地所有者が明治政府に税金を納めるしくみ
            にかえる。
      
         西郷隆盛(さいごう たかもり)が征韓論(せいかんろん)をとなえる。
         大久保利通は征韓論に反対する。 
         大久保利通が内務卿(ないむきょう 国内の政治を担当する役職)になる。

  1877年 西郷隆盛(さいごう たかもり)が西南戦争(せいなんせいそう)をおこす。

  1878年 不平士族に暗殺される。(49才)


● 人 物 評

  維新の三傑(さんけつ)と呼ばれる西郷隆盛(さいごう たかもり)、大久保利通(おおくぼ としみち)、木戸孝允(きど たかよし)のうち、大久保利通が明治政府の道しるべを作ったといえるだろう。この道しるべにそって、伊藤博文(いとう ひろぶみ)が明治政府の土台を確立していったといえるだろう。
廃藩置県にしても、地租改正にしても、その制度は日本が近代国家になるためには、どうしても必要な制度であった。親友であった西郷隆盛(さいごう たかもり)が征韓論(せいかんろん)をとなえたときも、今は明治政府の制度を確立する必要があるとして反対した。大久保利通は「情」よりも「理性」を優先したとも言えるだろう。親友の西郷隆盛が反乱(西南戦争 せいなんせんそう)をおこし、死んだときの大久保利通の気持ちはいかばかりであったろう。大久保利通の非情な判断のおかげで、明治政府は道をあやまることなく近代国家への道を歩むことができたのである。


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