民衆を救うために反乱を起こした役人

  大塩平八郎 (おおしお へいはちろう)
● 活やくした時代   1793年〜1837年
                江戸時代

● 活やくしたこと

  1793年 与力(よりき)の大塩敬高(おおしおよしたか)の長男として、大阪で生まれる。

  1813年 大塩平八郎が林述斎(はやしじゅつさい)に朱子学(しゅしがく)を学ぶ。
         後に陽明学(ようめいがく)を学ぶ。

  1818年 大塩平八郎が与力番代(よりきばんだい)になる。

  1824年 大塩平八郎が儒学者(じゅがくしゃ)の頼山陽(らいさんよう)を知り、交流を
        深める。

  1825年 大塩平八郎が自宅に洗心洞(せんしんどう)を開く。
          洗心洞(せんしんどう)
             大塩平八郎が陽明学(ようめいがく)を教えるために開いた塾(じゅく)

  1829年 大塩平八郎が役人の汚職(おしょく)を取り調べる。

  1830年 大塩平八郎が与力をやめ、陽明学(ようめいがく)の研究に専念(せんねん)する。

  1832年 日本の各地でききんが起こり、米不足になる。
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  1833年 大塩平八郎が「洗心洞剳記(せんしんどうさっき)」を刊行する。
        
大商人が米を買いしめたため、米の値段が上がり、民衆の生活が苦しくなる。
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         大阪で打ちこわしが激しくなる。天保の大ききんとなる。
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  1836年 大塩平八郎がききんの対策をするように奉行所(ぶぎょうしょ)に願い出るが、
        無視される。
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  1837年 大塩平八郎が自分の持っていた5万冊の本を売りはらってお金をつくり、貧しい民衆
        に分け与える。
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         2月19日の朝 大塩平八郎が大阪で反乱を起こす。
         大塩平八郎が放った火は大阪の町の5分の1を焼きはらう大火事となった。
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大塩平八郎の乱は半日で鎮圧される。
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         大塩平八郎は40日間、大阪の民家に隠れていたが、役人に取り囲まれて、自害
        (じがい)する。(45才)


● 人 物 評

  大塩平八郎は正義感の強い人物であった。米を買いしめて米の値段をあげて大もうけする商人やその商人からお金をもらって不正をする役人。大塩平八郎にとっては見ているだけでもがまんができないことであったであろう。折しも、天保の大ききんで苦しい生活を送る民衆。民衆を救おうという正しいことが通らないことに対する不満も大きかったことだろう。大塩平八郎にとって、もはや正義をつらぬくには反乱を起こすしか方法がなかったのかもしれない。頭では、力にうったえても何の解決にもならないことを、おそらく、大塩平八郎自身はよく分かっていたのではないだろうか。



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