油売りから身を立てた戦国大名 斎藤道三 (さいとうどうさん) |
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● 活やくした時代 1494年〜1556年 戦国(室町)時代 ● 活やくしたこと 1494年 京都の近くに住む浪人(ろうにん)の松波基宗(まつなみもとむね)の子 として生まれたとされる? 1504年 このころ妙覚寺(みょうかくじ)に入り、修行をしたとされる? 法蓮坊(ほうれんぼう)と名のる。 ↓ 奈良屋という油屋の養子(ようし)になり、山崎屋庄五郎(やまざきやしょうごろう) と名のる。 1521年 美濃(みの 岐阜県)の守護(しゅご)の土岐氏(ときし)の老臣の長井長弘 (ながいながひろ)の家臣となる。 ↓ 長井長弘(ながいながひろ)の家老であった西村家のあとをついで、西村勘九郎 (にしむらかんくろう)を名のる。 1530年 自分を取り立ててくれた長井利安(ながいとしやす)を殺し、長井家を乗っ取る。 長井新九郎規秀(ながいしんくろうのりひで)と名のる。 1538年 主君の土岐頼芸(ときよりなり)に取り入って、守護代(しゅごだい)の斎藤家 (さいとうけ)を乗っ取り、後をつぐ。 斎藤山城守秀竜(さいとうやましろのかみひでたつ)を名のる。 ↓ 土岐家の家臣がおこって攻撃をしてくるが、越前(えちぜん 福井県)の大名の 朝倉氏(あさくらし)に助けを求め、斎藤家の家臣と仲直りをし、出家 (しゅっけ 僧になること)する。この時、斎藤道三を名のる。 ↓ 1542年 油断した土岐家の家臣をだまし、主君の土岐頼芸(ときよりなり)を追い出し、 自分が主君となる。 1544年 尾張(おわり 愛知県)の織田信秀(おだのぶひで)と越前(えちぜん 福井県)の 朝倉氏(あさくらし)の連合軍に攻められる。 ↓ 織田氏、朝倉氏と仲直りする。 1548年 斎藤道三の娘の濃姫(のうひめ)を織田信秀の息子の織田信長(おだなぶなが)と 結婚させる。→ 織田氏と同盟する。 1553年 斎藤道三が織田信長とはじめて会う。 斎藤道三は、うつけ者(大バカ者)と呼ばれていた織田信長 (おだのぶなが)に会い、「残念ながら、このうつけ者に、将来、 私の子どもたちは、ほろぼされるであろう。」と早くも織田信長の 才能を見ぬき、将来を見通したという。 ↓ 予測通り、斎藤道三の孫にあたる斎藤竜興(さいとうたつおき) の時に、斎藤家は織田信長にほろぼされることになる。 斎藤道三の息子の斎藤義竜(さいとうよしたつ)と仲が悪い。 ↓ 1556年 斎藤道三が息子の斎藤義竜と戦いとなり、長良川(ながらがわ)で 破れ戦死する。(63才) ● 人 物 評 斎藤道三は、自分が使えた家を乗っ取ったり、追い出したりすることで、自分の勢力を広げてきた。西村家、長井家、斎藤家、そして主君の土岐家(ときけ)。下剋上(げこくじょう)の戦国時代では、それが当たり前であり、斎藤道三はそれを実行したまでであるとも言える。ただ、そのやり方の汚さ(きたなさ)から、斎藤道三は、「美濃(みの)のまむし」と呼ばれることになる。だが、皮肉にも、斎藤道三は自分の身にも下剋上(げこくじょう)がおこることになる。よりによって、息子の斎藤義竜(さいとうよしたつ)によって討たれるのである。自分が今までしてきたことが、身にふり返ってきたとも言えるかもしれない。運命とは本当に皮肉である。 |