藤原氏と対立した学者政治家 菅原道真 (すがわらのみちざね) |
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● 活やくした時代 845年~903年 平安時代 ● 活やくしたこと 845年 菅原是善(すがわらこれよし)の子として生まれる。 855年 菅原道真が作詩を始める。 862年 菅原道真が文章生(もんじょうのしょう)の試験に合格する。 870年 菅原道真が役人になるための最高試験である方略試(ほうりゃくためし)に 合格する。 874年 菅原道真が兵部少輔(ひょうぶのしょう)になる。ついで、民部少輔(みんぶのしょう) になる。 877年 菅原道真が式部少輔(しきぶのしょう)になる。 文章博士(もんじょうはかせ)も兼ねる。 886年 菅原道真が讃岐守(さぬきのかみ 香川県)となる。 887年 「阿衡(あこう)」という職をめぐって論議が起こる。 ![]() 【阿衡(あこう)の論議】 宇多天皇(うだてんのう)が藤原基経(ふじわらのもとつね)を関白(かんぱく)に 任命しようとしたときに中国の阿衡(あこう)という官職を例にして説明しようとした。 (関白という官職は藤原基経が日本で初めてついた官職で、このとき、どのような 役目をするのか理解できなかったため、中国の阿衡(あこう)という官職を例に 説明をしようとした。) ところが、阿衡(あこう)という官職は地位こそ高いが、何の政治的な権限もない もので、藤原基経は宇多天皇が「自分に政治から身を引け。」と言っているとして 怒ってしまった。宇多天皇は困ってしまい、信頼していた貴族の橘広相(たちばなの ひろみ)をやめさせて藤原基経の機嫌(きげん)をとらなければならなかった。 このとき、菅原道真は、藤原基経の横暴を批判し、橘広相を弁護したため、以後、 宇多天皇は菅原道真をたいへん信頼するようになったという。 ![]() 890年 菅原道真が任期を終え、京都へ帰る。 891年 菅原道真が蔵人頭(くらんどのとう)になる。 894年 菅原道真が遣唐大使(けんとうたいし)に任命される。 ↓ 菅原道真が遣唐使の廃止(はいし)を申し出る ↓ 遣唐使が廃止される。 ![]() 【遣唐使の廃止(はいし)】 表向きの理由 ① 日本の文化が向上し、中国の唐(とう)から学ぶべきものがなくなった。 ② 唐(とう)で内乱が発生し、旅が危険になった。 裏の理由 唐(とう)に行っている間に、菅原道真がせっかくつかんだ高い官職を 失いかねない。 ![]() 899年 菅原道真が右大臣になる。 左大臣となった藤原時平(ふじわらのときひら)と対立するようになる。 ↓ 醍醐天皇(だいごてんのう)を退け、斉世親王(ときよしんのう)を天皇にしようと していると告げ口をされ、謀反(むほん)を疑われる。 (藤原時平の陰謀(いんぼう)であると考えられている) ↓ 901年 菅原道真が太宰権帥(だざいのごんのそつ)に落とされ、九州へ追放される。 903年 太宰府(だざいふ)で死ぬ(59才) ![]() 【菅原道真のたたり】 菅原道真の死後、京都では災害が続いたため、菅原道真が雷神になって、 道真をおとしいれた人々をたたっているとうわさをしあった。朝廷は、たたりを おそれ、神社を建てて菅原道真をまつった。これが後に天満宮(てんまんぐう) となる。 ![]() ● 人 物 評 菅原道真は学問の神様として信仰(しんこう)されている。受験や試験などでは、そのお守りでお世話になった人も多いのではないだろうか。確かに方略試(ほうりゃくためし)が行われた230年間の間に合格した人数は菅原道真を含めて65人しかいないとされているため、たいへんな頭脳の持ち主であったのであろう。ただ、菅原道真が不幸だったのは、藤原氏全盛(ぜんせい)の時代に入りつつあったということである。もう少し、菅原道真が早く生まれていたならば、違った人生を送っていたかもしれない。 |