大和朝廷の基礎をつくった皇子(おうじ) 聖徳太子 (しょうとくたいし) ※ 幼名 厩戸皇子 (うまやどのおうじ) |
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● 活やくした時代 574年〜622年 飛鳥(あすか)時代 ● 活やくしたこと 574年 用明天皇(ようめいてんのう)の子として生まれる。 宮殿の馬小屋の近くで聖徳太子が生まれそうになったので、子どものころは、 厩戸皇子(うまやどのおうじ)と言われた。 子どもころに、10人の話を聞き分けたという伝説もある。 587年 神道派の物部氏(もののべし)と仏教派の蘇我氏(そがし)が対立する。 物部守屋(もののべの もりや)と蘇我馬子(そがの うまこ)との戦争が起こる。 ↓ 物部守屋をほろぼす。 592年 蘇我馬子が崇峻天皇(すしゅんてんのう)を殺す。 593年 推古天皇(すいこてんのう 女性)の摂政(せっしょう)(天皇を助けて政治をする 最高の官職)になる。 601年 斑鳩宮(いかるがのみや)をつくる。 603年 官位12階(かんい12かい)をきめる。 身分ではなく、個人の才能で役人を登用する制度 604年 17条の憲法(17じょうのけんぽう)をきめる。 役人の政治をする上でのルール ↓ 蘇我馬子の権力をおさえる。 天皇中心の政治の基礎固めをする。 607年 小野妹子(おのの いもこ)を中国(隋)(ずい)におくる。(遣隋使 けんずいし) ↓ 中国(隋)の文化がつたわる。 法隆寺(ほうりゅうじ)ができる 620年 日本の歴史書の「天皇記」(てんのうき)と「国記」(こっき)をつくる。 (現在は残っていない。) 622年 死 去(49才) ↓ 蘇我馬子が権力をにぎる。 643年 蘇我馬子の子の蘇我蝦夷(そがの えみし)、孫の蘇我入鹿(そがの いるか)が、 聖徳太子の子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)と一族をほろぼす。 ● 人 物 評 それまで、大和朝廷は豪族(ごうぞく)の勢力が強い豪族連合の国家であった。そのため、崇峻天皇(すしゅんてんのう)の暗殺という事件さえおこった。そのため、聖徳太子は、豪族の上に天皇がたつ天皇中心の国家づくりをはじめた。官位12階(かんい12かい)も17条の憲法(17じょうのけんぽう)も、天皇中心の政治を行うための手段であった。蘇我馬子(そがのうまこ)のじゃまもあったが、聖徳太子は天皇中心の政治を着実に進めていった。聖徳太子の功績は、天皇の確固たる地位をかためた点であろう。聖徳太子のめざした天皇中心の政治は、死後に実現することになる。 |