平家が最も栄えた時代を作った武将 平清盛 (たいらの きよもり) |
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● 活やくした時代 1118年〜1181年 平安時代 ● 活やくしたこと 1118年 平忠盛(たいらの ただもり)の長男として生まれる。 1153年 平忠盛(たいらの ただもり)が死に、平清盛があとをつぐ 1156年 保元の乱がおこる。 【保元の乱(ほうげんのらん)】 天皇の地位をめぐるあらそいに武士がまきこまれた戦争 [ 天皇家 ] 後白河天皇 対 崇徳上皇 [ 摂関家 ] 藤原忠通 対 藤原頼長 [ 武 士 ] 源 義朝 対 源 為義 平 清盛 対 平 忠正 ↓ 勝利 天皇と上皇の権力あらそいに平清盛と源義朝(みなもとの よしとも)がまきこまれる。 平清盛と源義朝が協力して天皇方が勝利する。 ↓ 武士である源氏と平氏が貴族にかわって政治に参加するようになる。 1159年 平治の乱がおこる。 【平治の乱(へいじのらん)】 源氏と平氏のあらそいに貴族がまきこまれた戦争 [ 摂関家 ] 藤原道憲 対 藤原信頼 [ 武 士 ] 平 清盛 対 源 義朝 ↓ 勝利 平清盛と源義朝(みなもとの よしとも)の権力争い。 平清盛が勝利し、源義朝を討ち取る。 ↓ 平氏が政治の中心になる。 ↓ 1167年 太政大臣(だいじょうだいじん)になる。 「平家にあらずんば、人にあらず」 平清盛が思うがままの政治を行う。平氏の世の中になる。 1177年 鹿ヶ谷の事件(ししがたにのじけん)がおこる。 僧の俊寛(しゅんかん)らが平氏を討つ計画を立てるが、平氏に逆に討たれる。 平清盛の娘の徳子が高倉天皇(たかくらてんのう)の中宮(ちゅうぐう 天皇の妻)になる。 ↓ 1178年 平清盛の娘の徳子が高倉天皇の皇子 安徳天皇を生む。 1179年 平清盛の長男の平重盛(たいらの しげもり)が病死する。 後白河法皇(ごしらかわほうおう)を閉じこめる。 後白河法皇が平氏の勢力をへらそうとしたため、やしきに閉じこめる。 1180年 安徳天皇が天皇になる。平清盛が安徳天皇の祖父になる。 以仁王(もちひとおう)が「平氏をうて」の命令を全国に出す。 ↓ 源頼政(みなもとの よりまさ)と以仁王(もちひとおう)が平氏にやぶれ、討ちとられる。 ↓ 源頼朝(みなもとの よりとも)が伊豆(いず)で反乱をおこす。 ↓ 富士川の戦いで平氏が源氏にやぶれる。 平氏が東大寺と大仏を焼く。 1181年 熱病で病死する(64才) 1185年 壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)で平氏がほろびる。 ● 人 物 評 平清盛(たいらの きよもり)の功績は、それまでの藤原氏(貴族)が中心の政治から武士が中心の政治へと変化させたことにあるであろう。貴族にはない圧倒的な武力に経済力が加われば、貴族などひとたまりもない。これ以後、天皇や貴族は形ばかりの存在となり、政治権力は武士へとうつっていく。ただ、皮肉なことに平清盛は、武士でありながら貴族化していく。このことが、武士たちの大きな反感を買うことになる。貴族をやぶった武士の平清盛が、その貴族になっていく。なんとも皮肉な結果である。平清盛にとって、最大の不幸は長男で優秀と言われた平重盛(たいらの しげもり)の若すぎる死であった。平清盛も平重盛の助言には耳をかした。だが、その平重盛の死で平清盛の暴走を止める者がいなくなってしまった。平清盛の暴走に対する反感は、やがて源氏の反乱、平氏の滅亡(めつぼう)へとつながるのである。 |