江戸幕府最後の将軍

  徳川慶喜 (とくがわ よしのぶ)
 
● 活やくした時代   1837年〜1913年
                江戸〜大正(たいしょう)時代

● 活やくしたこと

  1837年 水戸藩主(みとはんしゅ)の徳川斉昭(とくがわ なりあき)の7男として生まれる。

  1847年 一橋家(ひとつばしけ)をつぐ。一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)をなのる。


  1854年 幕府が
日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)を結ぶ。

  1858年 徳川家茂(とくがわ いえもち)が14代将軍なる。
         
井伊直弼(いい なおすけ)が大老(たいろう 将軍を助ける最高臨時職)になる
         幕府が
日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)を結ぶ。
        
安政の大獄(あんせいのたいごく)で徳川慶喜は隠居(いんきょ)させられる。

  1860年 
桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)がおこる。
            大老の井伊直弼が桜田門(さくらだもん)で暗殺される。

  
1862年 再び一橋家の当主になる。
         14代将軍の徳川家茂の後見人(こうけんにん)になる。

  1866年 14代将軍の徳川家茂がなくなる。
         徳川慶喜が15代将軍になる。

  1867年 徳川慶喜が
大政奉還(たいせいほうかん)をする。
         
王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)が出る

  1868年 
戊辰戦争(ぼうしんせんそう)が始まる。
         鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)で幕府軍がやぶれる。
                ↓
         勝海舟(かつかいしゅう)の働きで、江戸城を無血開城する。

                ↓
         徳川慶喜が水戸(みと)、のちに駿府(すんぷ)に謹慎
         (きんしん やしきから一歩も出ない)する。

                ↓
  1869年 謹慎(きんしん)を許される。

  1899年 徳川慶喜が明治維新(めいじいしん)以来、はじめて明治天皇に会う。

  1903年 徳川慶喜が公爵(こうしゃく)になる。
           政治に参加せず、カメラでの撮影(さつえい)や狩りなどの生活を送る。 

  1913年 東京で死ぬ(77才)


● 人 物 評

  15代将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が、14代で将軍になっていれば、江戸幕府は政治形態をかえて存続していたかもしれないとよく言われる。確かにそうかもしれない。だが、15代で将軍になった時、江戸幕府には延命(えんめい)させるだけの余力すら残っていなかった。徳川慶喜にとって、とるべき道は限られていた。江戸幕府を衰弱死(すいじゃくし)させるという手しかなかったのである。だが、徳川慶喜は江戸幕府はここで死ぬが、その死に日本国の存亡を巻きこんではならいと考えたのであろう。この当時、アメリカやイギリスが日本を植民地にしようとねらっていた。ここで、徳川慶喜が幕府にこだわって、明治政府との戦争を長期化させていれば、日本はアメリカやイギリスの植民地になっていたかもしれない。徳川慶喜の功績は、幕府の意地にこだわることなく、明治政府に政権をゆずった点であろう。



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