日本海海戦の勝利の立役者

  東郷平八郎 (とうごう へいはちろう)
● 活やくした時代   1847年〜1934年
                江戸〜昭和時代

● 活やくしたこと


  1847年 薩摩藩(さつまはん 鹿児島県)の藩士の東郷吉左衛門(とうごう きちざえもん)
         の四男として生まれる。名前は中五郎。

  1863年 東郷平八郎が薩英戦争に参加する。
           薩英戦争(さつえいせんそう)…薩摩藩とイギリスとの間におきた戦争

  1867年 大政奉還(たいせいほうかん)
            江戸幕府が政権を朝廷にかえす。
         王政復古を宣言する。
            天皇中心の政治を行う。

  1868年 戊辰戦争(ぼしんせんそう)がおこる。
         東郷平八郎は軍艦にのり、幕府軍と戦う。

  1871年 東郷平八郎がイギリスに7年間留学し、イギリスの海軍について学ぶ。
       
  1877年 西南戦争(せんなんせんそう)がおこる。
         東郷平八郎の兄二人は西郷隆盛軍について戦い戦死する。

  1878年 東郷平八郎がイギリスから帰国する。
         東郷平八郎が、いろいろな戦艦の艦長を務める。

  1890年 東郷平八郎が呉鎮守府参謀長(くれちんじゅふさんぼうちょう)になる。

  1894年 東郷平八郎が大佐として
日清戦争(にっしんせんそう)に参加する。
        
黄海海戦(こうかいかいせん)や威海衛(いかいえい)攻略で手がらを立てる。
         東郷平八郎が少将になる。

  1896年 東郷平八郎が海軍大学校の校長になる。

  1898年 東郷平八郎が中将になる。 

  1903年 東郷平八郎が連合艦隊司令長官になる。

  1904年 
日露戦争(にちろせんそう)が始まる。
         東郷平八郎は連合艦隊を指揮して、旅順港(りょじゅんこう)の出口をふさぎ、
         ロシア艦隊を港から出られなくする。
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         港から出ようとしたロシア艦隊に大きな被害を与える。 
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  1905年 東郷平八郎が
日本海海戦の指揮をする。
         対馬(つしま)沖で、ロシアのバルチック艦隊を連合艦隊がむかえうち、全滅させる。
         この時、「皇国の興廃(こうはい)此一戦(このいっせん)にあり、各員一層(いっそう)
         奮励努力(ふんれいどりょく)せよ」という意味のZ旗をかかげたことは有名。  
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         38隻のバルチック艦隊のうち、19隻を沈め、5隻を捕らえるという大戦果をおさめる。

  1913年 元帥になる。
         海軍の長老として、国民から尊敬される。

  1934年 病死する。(88才)


● 人 物 評

  東郷平八郎の活躍は、日露戦争(にちろせんそう)を通して、日本よりも圧倒的に強大なロシア帝国のバルチック艦隊を打ち破り、日本を勝利へと導いたことであろう。圧倒的な力を持つ、バルチック艦隊を相手にする時に、東郷平八郎は細かい作戦(T字戦法)をたて、戦闘の訓練を徹底して行った。これによって、なんとか、日本はロシアに勝つことができたのである。東郷平八郎は、日本が戦争へと突き進んでいく1914年の第1世界大戦、1931年の満州事変を自分の目で見ることになるが、どんな気持ちで、この戦争を見ていたのであろうか?東郷平八郎の功績は明治政府の近代化(軍事力)を世界に認めさせた点であろう。



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