統一の夢をはたした天下人 豊臣秀吉 (とよとみ ひでよし) ※ 羽柴秀吉 (はしば ひでよし) ともいう |
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● 活やくした時代 1536年〜1598年 室町〜安土桃山時代 ● 活やくしたこと 1536年 愛知県の農民の子として生まれる。16才で武士になろうとして家出する。 しばらく、旅をしたのち、織田信長(おだ のぶなが)の家臣となる。 1560年 桶狭間(おけはざま)の戦い 織田信長が今川義元(いまがわ よしもと)を戦死させる。 秀吉もこの戦争に参加する。 1572年 墨俣城(すのまたじょう)を短期間で完成させたり、敵の家臣を味方にしたりと、持ち前の ちえで多くのてがらをたてる。 羽柴秀吉(はしば ひでよし)をなのり、織田信長の有力な家臣となる。 1574年 滋賀県の長浜城(ながはまじょう)の大名となる。 1576年 織田信長の命令で、大将として中国地方の大名の毛利氏(もうりし)と戦争を始める。 ↓ 1582年 毛利氏の高松城(岡山県)を水攻めで包囲(ほうい)する。 ↓ その最中に・・・・ ↓ 本能寺(ほんのうじ)の変 織田信長が家臣の明智光秀(あけち みつひで)の反乱で暗殺されると、豊臣秀吉 は毛利氏(もうりし)となかなおりして、京都にとって返し、明智光秀をやぶる。 (山崎の戦い) 1582年 検地(けんち)(田の広さを調べ、米のしゅうかく量を決める)を始める。 → 全国の検地を行う 1583年 織田信長の有力な家臣だった柴田勝家(しばた かついえ)をやぶる。 (賤ヶ岳の戦い)(しずがたけのたたかい) 大阪城(おおさかじょう)をつくりはじめる。 1584年 織田信長の同めい者の徳川家康を家臣とする。 (小牧・長久手の戦い)(こまきながくてのたたかい) 織田信長の後けい者となる。 1585年 朝廷から関白(かんぱく)(朝廷の位の最高位)に任命される。 豊臣秀吉をなのる。 1585〜1587年 山口県の大名の毛利氏(もうりし)、四国の大名の長曽我部氏(ちょうそがべし)や九州 の大名の島津氏(しまづし)を家臣にする。 1588年 刀狩り(農民から刀をとりあげる)を行う。 1590年 関東の大名の北条氏(ほうじょうし)をほろぼす。 豊臣秀吉が全国を統一する。 1592年 朝鮮出兵(文禄の役)(ぶんろく の えき) 中国(明)を征服しようと、朝鮮に攻めこむ。 1597年 朝鮮出兵(慶長の役)(けいちょう の えき) 思うような成果があがらなかったため、もう一度、朝鮮に攻めこむ。 1598年 死 去(秀吉の死後、朝鮮から兵をひきあげる)(63才) ● 人 物 評 農民から朝廷の最高位の関白にまでなった豊臣秀吉はすごい。その出世欲はなみなみならぬものを感じる。現代風にいえば、アメリカン・ドリームというところか。自分のちえと努力でここまでできるという見本であろう。だが、全国を統一したころから秀吉は少し変わった。自分の親せきや家臣を殺したり、何の利益もない朝鮮へ攻めこんだりとちえ者 秀吉らしからぬ行動が目立つ。関白になり、得意なり、調子にのりすぎたのであろうか? ちなみに豊臣秀吉は、今でも朝鮮の人から「おに」としてにくまれている。秀吉の死後、豊臣氏は徳川家康(とくがわ いえやす)にほろぼされることになる。 |