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昨夜、近所のスーパーへ買い物に行ったときの話だが、二人の子供が売
場の階段で仮面ライダーのソフビの人形(バンダイ)を闘わせて遊んでいた のだった。
一方はディケイドでもう一方はクウガ。
どちらが勝ったのかは知らないが、『ディケイド』もライダー同士が争う話らし
いので無理もない、私はそう考えた。考えたのだった。
数年前だが、私は平山亨先生にお供して、或る仮面ライダー関係者がご出
演になっていた芝居を観劇しに行ったことがある。その帰り道、街中で擦れ 違った一人の子供が仮面ライダーのイラストがプリントされたTシャツを着て いたので、「平山先生、今の子供、仮面ライダーのTシャツを着ていました ね」私はそう言ったのだった。
「えっ、そうかい?」と仰って、平山先生はわざわざ来た道を後戻りして子供
と母親のもとへ行き、その子が来ていたTシャツの仮面ライダーをお確かめ になられたのだ。
残念ながら、それは平山先生がお作りになった仮面ライダーではなかった
(ブレイドだった。すると、もう5年も前の出来事ということになるのか!) が、
「ぼく、仮面ライダーが好きなのかい?」
平山先生はたいへんにこやかに仰って、その子に話しかけられたのだ。
もちろんその子には平山先生が、仮面ライダーの生みの親とも言える平山
亨プロデューサーでいらっしゃるとは知る由もない。
私自身がその子供のような年齢であった頃、テレビで見ていた『仮面ライダ
ー』のエンディング・クレジットの筆頭には決まって平山亨先生と阿部征司 プロデューサーのお名前が並んであった。
子供ながらに『仮面ライダー』をつくっている人たちの中でも、このお二人は
偉い人なんだと、そう理解していた。
38年が経った現在、私は9歳だった自分の認識は間違っていなかったと思
うのだ。 ![]()
先月ムスタング代表と狭山へ平山亨先生をお訪ねしたときに、平山先生
から『仮面ライダー』の登場人物の名前の由来について興味深いお話を伺 うことができた。
即ち、本郷猛、緑川ルリ子、立花藤兵衛という姓・名には各々、平山先生な
らではのこだわりがあったのだ。
その詳細については、会報Amigoの次号にてムスタング代表がレポートを
書いてくださるそうなので、TRCメンバーの皆さんは楽しみにお待ちいただ きたい(端的に申し上げるならば、幼少の頃から文学少年であられた平山 先生の当時の愛読書からの引用であり、オマージュであったのだ)。
『仮面ライダー』の企画の発端については、昭和45年6月に行なわれた毎
日放送・庄野至氏と東映・渡邊亮徳氏による会談から語られる場合が多 い。ただ、具体的に作品内容について文書として残されているものとしては 平山先生がお書きになられたマスクマンKから始まる。
『連続テレビ映画企画書 仮題 マスクマンK』である。
この最初の企画書は前述した毎日放送と東映による仮面モノの企画がスタ
ートした後の昭和45年秋までには書かれていたと思われるが、この段階で はまだ東映の内部資料に留まっていたらしい。
ストーリーや設定を読むとアニメ作品の『タイガーマスク』を強く意識したもの
となっており、主人公は中学校の体育教師、仮面はまだプロレスラーの覆 面のようなものである。
つまり、改造人間や超能力者のようなSF的ファクターはなく、主人公の能
力は特訓によって自らの肉体を強化したというレベルにとどまっている。
ただ、注目すべきは既に敵である組織の名称として「ショッカー」の名が登
場し、「その構成員のスタイルは怪獣的にユニークなもの」と記されているこ とだ。
平山先生がお考えになっていたのは、おそらく『悪魔くん』に登場した妖怪
のようなものであったのだろう。
また、主人公の名前は九条「剛」となっている。
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『仮面ライダー』の放送が開始された昭和46年4月3日の前日、TBS系
列で金曜夜7時のゴールデンタイムの新番組として始まっていたのが『帰っ てきたウルトラマン』である。
その企画は早く、昭和44年春の時点での企画書『続ウルトラマン』では第1
話に元科学特捜隊キャップのムラマツ(=小林昭二氏=立花藤兵衛)が登 場することになっていた。
『帰ってきたウルトラマン』のメインライターとなった上原正三氏と市川森一
氏が『仮面ライダー』の企画に参画していた事実は知られているが、その具 体的な成果についてはほとんど何も知られていない。
平山先生によると当初は上原、市川のお二人と伊上勝氏との三人に脚本
を依頼するつもりだったのが、『帰りマン』のせいでそうは行かなくなってしま った。
「上原さんと市川さんはウルトラマンの方をやりたくなってね、逃げられちゃ
ったんだ(笑)」(平山亨先生・談)
しかし『仮面ライダー』企画の或る時点で、上原・市川氏が参加してのブレー
ンストーミングが繰り返し行なわれていたのも事実である。
それは阿部征司プロデューサーが『仮面ライダー』に参加する以前、おそら
く昭和45年の9月頃までである。
その時期、平山亨プロデューサーによって『仮面天使(マスクエンジェル)』
の企画書(企画案)が書かれているが、これは『マスクマンK』を発展進化さ せたものではなく、寧ろまったくの別物と言っていいような内容のものであ る。
もしかしたら、ここに上原・市川氏によるアイディアが反映されているのかも
しれないが、注目すべきは主人公として初めて「本郷猛」の名前が登場し、 その大学の恩師としての「緑川教授」や、猛が緑川教授殺害の嫌疑をかけ られ逃亡するなど、この企画案から直接『仮面ライダー』へ継承された部分 が少なくないという点だ。
しかし、「主人公の力」の源が感電による筋肉の特殊化に留まっており、肝
心の仮面にも未だメカニカルな設定は加えられてない。つまり、「仮面天使」 は筋力が超人的に強くはあるが、未だ普通の人間なのである。 ![]()
阿部征司氏が『仮面ライダー』に参画されたのは昭和45年10月頃のこと
である。
その時点では上原氏も市川氏も未だ仮面ライダーのプロジェクトに留まって
おり、『クロスファイヤー』としての企画が進められていた時期だった。
その『クロスファイヤー』の企画書(企画案)にはそれまでの二つの案からの
決定的な跳躍がある。
それは主人公をオートバイに乗せるという設定が初めて盛り込まれたことで
あり、即ち、主人公がライダーとなったのだ。
ここに仮面ライダーの重要な二つの要素、仮面とバイクが結合した訳であ
る。
この、主人公をバイク乗りにするというアイディアは大阪毎日放送の廣瀬隆
一編成局長(当時)によってもたらされたものだった。
日中戦争の折り、満州で旧日本軍の軍用バイク・陸王を駆っていらっしゃっ
た廣瀬氏ならではの発案だろう。
その陸王とは、正式には九七式側車附二輪車陸王という名称で、戦前から
国内でライセンス生産されていた米国ハーレーダビッドソン社製のオートバ イ・ハーレーダビッドソンVL(V型2気筒1208cc)にサイドカーを取り附けた ものだった。
その側車輪駆動二輪車仕様陸王号が旧日本陸軍に正式採用されたのが
昭和12年のことである。
さらに戦後になっても陸王の生産は続けられ、日本人向けに開発された75
0ccモデルは白バイとしても採用されていた。
その後、昭和35年に至って生産中止となっている。
この九七式陸王の側車附という部分からは当然、キカイダーのサイドマシ
ーンが連想されるだろうが、仮に旧サイクロン号にサイドカーが附けられて いたならばと想像してみない訳ではない。
それはそれはカッコイイ劇用車となっただろうが、大橋さんが何とおっしゃる
か、だいたい私には想像がつく(笑)。 ![]()
最初に訂正をさせて頂きたい。43で、上原氏と市川氏が仮面ライダーの
企画に参画していた時期を阿部プロデューサーの参加以前と書いたのは 誤りである。
阿部氏も一度だけだが、お二人と打ち合せをなさった事がおありでいらっし
ゃるそうだ。
『クロスファイヤー』の注目点はオートバイの使用だけに留まらない。
最大の発展としては、何より石ノ森章太郎氏の仮面ライダーへの具体的な
参画にあるだろう。
『クロスファイヤー』の企画書は『十字仮面』とタイトルを改められて毎日放
送でも製本されているが、そこには石ノ森氏によるクロスファイヤーと蜘蛛 男のイラストが掲載されている。
内容を見ても、クロスファイヤー=本郷猛と緑川ルリ子、藤堂権兵衛(立花
藤兵衛のプロトタイプ的人物)、さらには秘密結社ショッカーの改造人間・蜘 蛛男も登場するなど『仮面ライダー』の世界観は確立されつつある。
しかし、まだ肝心の主人公が改造人間ではないのだ。
ところでMBSの企画書『十字仮面』には本郷猛役として近藤正臣氏、緑川
ルリ子役として島田陽子さんがキャストとして載せられている。
私にはよく解らないのだが、二人は揃ってスチール撮りまで済ませており、
この時点ではこの二人でキャストは決定していたと考えて差し支えないだろ う。
その後の近藤氏の出演キャンセルは当時の氏の多忙なスケジュールから
理解できるとしても、島田陽子さんのキャンセルは腑に落ちない。
それでいて、同じ平田プロ在籍の藤岡弘、氏が新たに本郷猛役として決定
されるのである。
この辺りの事情は平山先生もなかなかお話になってくださらないが、緑川ル
リ子役に真樹千恵子さんが抜擢された時点で、島田陽子さんが緑川ルリ子 を演じる可能性はなくなった訳である。
最後に蛇足だが、当時の平田プロダクションに在籍していた俳優は藤岡弘
氏と島田陽子さんの二人だけだった。
その二人が後年になって二人共アメリカで成功するとは、実にまったく驚く
べき事である。
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