一昨年の夏のだったか、私は平山先生とルリ子さんが御覧になられる或
るドキュメンタリーの映画鑑賞にお供させて頂いたことがある。
都内のほんとうに小さな映画館で私たちは最前列の席に坐ったが、仮面ラ
イダーのアフレコってこんな感じでしたよね、ルリ子さんがそう仰ったのだっ た。
私はてっきり「雨が降ったら雨休憩」の生田スタジオの話だと思ったがそうで
はなくて、平山先生によると既に旧1号編の途中から新宿にあったアフレコ スタジオを使うようになっていたそうである。
「雨が降ったら雨休憩」もルリ子さんから教えて頂いたエピソードで、トタン屋
根だった生田では雨音がうるさいからアフレコ中に雨が振り出すと中断され て、休憩になったそうである。
そんな生田スタジオで、或るとき藤岡さんがお脱ぎになった仮面ライダーの
衣裳がハンガーに吊されて壁に掛けてあった。傍らには正真正銘ホンモノ の旧1号のマスク。
それを見つけたルリ子さん、なんとなく手に取って被ってみたそうなのだ!
どんなカンジでしたか?
そう伺ってみると、息苦しかった、と笑って仰っていた。
私は一瞬、あの大きな旧1号のマスクを被っていらっしゃるショコタンのよう
なルリ子さんを想像してしまったが、同じ話を扶桑社での対談の折りになさ った時には藤岡さんも、そう、君もかぶったの!と笑っていらっしゃった。
そんな当時の生田スタジオの雰囲気を記録した貴重なモノクロのスチール
がある。制作第4話撮影時に、プレハブ2階にあったスタッフルームで本郷 猛と緑川ルリ子、野原ひろみの三人がMBSの取材を受けている様子を記 録したものである(この時、同じ室内で撮影された島田陽子さんお一人のス ナップが残されていることから当然、他のお二人も同様のスチールが撮影 されていたものと思われる)。
藤岡氏は仮面こそ外しているもののライダーの衣裳のままで私などつい、
はっ、としてしまうのだが、いつもそうだった、とルリ子さんは珍しくもないとい うふうに仰る。
『クロスファイヤー』の企画書は、昭和45年9月には脱稿されて毎日放送
へ提出されている。
執筆されたのは平山亨先生と伊上勝氏。
10月には伊上氏によって『マスクライダーX』と作品タイトルを改めての脚
本も仕上げられている。
おそらく、上原・市川氏が仮面ライダーから抜けたのがこの時期であり、以
後は伊上氏がメインライターとして脚本の執筆にあたる事となったのだ。
ところで、『クロスファイヤー』以降もスカルマン→ホッパーキングと企画内容
は変遷を辿るのだが、このふたつのタイトルでの企画書は東映サイドでも作 られていない。
何故か?それはつまり『クロスファイヤー』で毎日放送に企画が一旦受け入
れられたからであり、それを覆したのが石ノ森章太郎氏だったである。
クロスファイヤーのデザインは石ノ森氏御自身によってキャンセルされ、代
わって提出されたのがスカルマンだった。
これがまたMBSからNGとされて最終的にホッパーキングのバッタのデザ
インに落ち着いた訳である。
しかし、この辺りの経緯で更にもうひとつ非常に紛らわしいのが作品タイト
ルとキャラクター名の変遷と不一致であり、作品タイトルが『仮面ライダー (仮)』となっている企画書の中にも登場人物名がクロスファイヤーのままだ ったりするものがある。
そうした中で『仮面ライダー ホッパーキング』の作品名は比較的知られてい
るが、これは例えば『仮面ライダー ディケイド』と同じ命名法であり、本来な らば最初の仮面ライダーの名はホッパーキングとされる筈だったのだ。
しかし作品タイトルとして長いという判断から『仮面ライダー』とされ、主人公
の名も同じものとなった。
ホッパーキングの名は劇中では一度も使用される事はなかったのである。
講談社から仮面ライダーのオフィシャル・ファイル・マガジンが発行されて
いた頃、私も毎号を購読していたがVol.7掲載の記事を読み???と思っ たのだった。
それは「毎日放送スタッフ」という特集の中にあったスカルマンに関しての部
分である。
これについては、Vol.11でも再度取り上げられていて、要約されている文
章があるので、そちらから引用させて頂く。
(前略)今回の取材において、まず最初に立てられた企画は『スカルマン』で
あること、(中略)。
ちなみに『仮面ライダーホッパーキング』の直前に『スカルマン』の企画が立
てられたという誤解は、本文中でも触れたように、その時期に石ノ森が番組 タイトルを『スカルマン』に戻したいと主張したことから来ているのではない かと、推察される。
以上、引用したが、この時期にカルビーから発売されていた仮面ライダー・
チップスRの菓子袋の裏にも、このオーダーを採用しての記事が掲載され ているのを読んだ。
問題はスカルマンである。
仮面ライダーの企画段階において、石ノ森章太郎氏がデザインしたスカル
マンの提出時期が問題となっている。
執筆者は故・石ノ森章太郎氏の生前の説を否定してオーダーを差し替えて
いるのだが、根拠は庄野至氏へのインタヴューらしいのだ。
詳細は第7号のP.31をお読み頂くとして、私がまず疑問に思ったのは、平
山亨先生が『仮面天使』の企画書を提出なさったのと同じ席で石ノ森氏が 「スカルマン」=「ドクロ仮面」のデザイン画を提示したという解説である。
これでは同企画書の内容と照らし合わせても、余りに不自然ではないか?
この件について私が平山先生に照会したところ、平山先生は怪訝なお顔を され、しばし黙ってお考えになっていた。
そしてもちろん、否定なさったのである。さらに驚いたことに、この記事の執
筆者はこの件を「重要な事項」と記しながらも、もう一方の当事者の一人で いらっしゃる平山先生にはこの件についてまったく取材していないのだ。
いずれにせよ、石ノ森章太郎氏亡き今となってしまっては決着は困難かもし
れない。
『仮面ライダー』に関しての謎が、またひとつ増えてしまった。
追記
スカルマンにはいくつものスカルマンがあって混乱を招くのが常である。
そもそもの『スカルマン』は『仮面ライダー』の放送が始まる1年以上も前に
講談社の週刊少年マガジン(1970年第3号)に掲載された石ノ森章太郎 氏による読み切りの漫画作品である。
これは『仮面ライダー』の企画段階で提出されたドクロ仮面の『スカルマン
(仮面ライダー スカルマン)』ともまったくの別物である。
『仮面ライダー スカルマン』には平山先生の手書きによる『仮面ライダー ス
カルマン 設定覚え書き』という書類があって、ここで初めて主人公が「サイ ボーグ」であるという設定が文書化されている。
また、エキスプロが仮面ライダーに関しての造形物の発注を受けた当初も、
この『仮面ライダー スカルマン』なる名称が使われていたそうである。
さらに数年前に、CX系列の深夜番組として放映された『スカルマン』があ
る。
そういえば最近の仮面ライダー関連書籍から企画段階のスカルマンに関し
ての記述が消えている事にお気づきだろうか?
その理由に関しては、差し控えるが、・・・・
『仮面ライダー スカルマン 設定覚え書き』は注目される機会が少ないが、
これこそ『仮面ライダー』の企画最終案であり非常に重要なものである。
それが何故、正式な印刷物として残されていないのか?
年が明けた昭和46年1月、おそらくそんな事をしている余裕がない程に現
場は差し迫った状況であったのだろう。
この『設定覚え書き』に記されている内容は極めて具体的かつ緻密であり、
撮影における小さな演出上のポイントや効果音までもが指示されていたりし て驚かされる。
そして、それらが如何にも平山先生らしい言葉遣いで丁寧に記録されてい
るのだ。
この文書を読むと『仮面ライダー』の旧1号編(特にその前半)はこの『設定
覚え書き』に極めて忠実に作られている事がよく解る(但し、本郷猛が緑川 ルリ子のマンションの隣のマンションに居住するという部分は変更された)。 さらにテレビの本編では充分に説明されなかった部分までその理由が考え られていて興味深い(例えば、緑川ルリ子が立花藤兵衛の経営するスナッ クでアルバイトをしていたという設定は余りにも都合がよすぎないか?
そんな疑問を抱いたりしなかっただろうか。
これについても、藤兵衛がルリ子を保護する為に友人(ひろみ)を介してル
リ子をアルバイトに雇ったとの説明が書かれている)。
こうして『仮面ライダー』の番組制作プロジェクトは半年間に及ぶ企画段階
から抜け出して、実作業へと移ることになる。
平山亨プロデューサーはその制作スケジュールを次のように予定した。
2月1日 美術さん ロケイン キャスト
2月2日、3日 ロケハン
2月4日、5日 衣裳合わせ
2月6日 顔合わせ
2月7日 クランクイン
『仮面ライダー』のクランクインを目前にした時期、エキスプロでは生田スタ
ジオでのセットの設営と造形物の製作に余念がなかった。
第1ステージにはショッカー・アジトとアミーゴのパーマネント・セット、第2ス
テージには樹木を描いた回転バックが設置された。
造形物に関しては、レポート用紙に個別の完成期日を記入したリストがエ
キスプロに残されている(『仮面ライダー=本郷猛』藤岡弘、著/扶桑社刊 のP.66に写真を掲載)。
この紙に記されている日付についてはそれなりに納得がいくが、ただ、実際
にこのスケジュール通りに作業が完了されたかは定かでない。
もう一点、、「オートバイ(完成品)」=旧サイクロン号の完成予定日が9日を
改めて11日と記載されているのだが、これは高橋章氏の次の証言と矛盾 する。
「最初、別件でエキスに行ったとき、チャチャッと描いたのが立花レーシング
クラブのマーク。で、クランクインの2日前だったかな?サイクロン号が出来 上がってきた時に、なんとなくライトの間が淋しかったんだよね。それでその マークを紙に描いて貼ったんだよ。本当にその場しのぎで(笑)」(講談社オ フィシャル・ファイル・マガジン第6号)
つまり、高橋氏の証言によると旧サイクロン号は2月5日頃に出来上がって
いた事になり、リストにある11日と大きく矛盾する。
これはどう考えればいいのか?
ひとつの考え方として、例の変身シーンのバンク・フィルムに使用されてい
るカウル・フロント部のアップのカットに思い当たらないだろうか?
即ち、あのサイクロン号は2月5日頃に出来上がっていた、と。
しかし、高橋氏は出来上がっていると思ったが、それはまだヘッドライトの部
分に関しては実はまだ未完成だったのだ、と。
したがって、小河内ダムよりも先だったという考え方が成立する訳である。
さらに興味深いのは、第4話の怪人が蜂女となっている点である。第3話の
怪人も「植物人間(デザイン未定)」となっており、このリストが記された時期 を推定する手がかりとなっている(その後、植物人間はサラセニアンと命名 されて高橋氏によるデザイン画が描かれた。制作第4話の登場怪人は、蜂 女からさそり男に差し替えられている)。
|