ディケイドの劇場版が公開されてテレ朝でもPRに余念がないが、昨夜も
確か2時頃だったか、チャンネルをいじっていたら仮面ライダークイズという のをやっていた。
回答者らしい女子校生に扮した制服姿の4人のタレントが、本郷猛の変身
ポーズでビキニの水着姿に変身するという深夜番組らしい演出があり、バ カバカシイと思いながらも見ていたのだが出題されたクイズの内容に驚い た!
「1971年に放送が始まった仮面ライダーは変身が大ブームとなり、1袋2
0円で売られていた仮面ライダースナックも大ヒット商品となりました。
さて、仮面ライダースナックはいったいどのくらい売れたでしょう?」
いきなりこんな超難問が出題されたのである。
正解は「4億袋以上、87億円!!」というものだった。
カルビーは公式に数字を公表していたのだろうか?
それにしても当時の87億円である。私も数万円分は売り上げに貢献した覚
えがあるが、これほど莫大な利益をもたらしていたとは知らなかった。
水着のお嬢ちゃん達の仮面ライダークイズも馬鹿にしたものではない。
2008年6月に扶桑社から刊行された『仮面ライダー=本郷猛』(藤岡弘、
著)の取材では、藤岡氏に2日間延べ10時間のインタヴューを行なわせて 頂いた。
勿論、出版された書籍には、そのすべてが収録されている訳ではない。
取捨選択は私ではなく編集担当者の判断によるが、収録されなかった部分
にも非常に興味深い内容がいくつもあった(オフレコを含め)。
インタヴュアーとしては事前にDVDで2号編を除く『仮面ライダー』の全エピ
ソードを見直して、藤岡さんにあれを聞こう、これを聞こうと準備をしていた のだが、さすがに聞きたくても聞くのを躊躇させられる話題というものがあっ た。
そのひとつが、死神博士の正体である怪人がギリザメスではなくイカデビル
と変更されてしまった直接の原因の、藤岡氏の失踪問題である。
周知の事実だが、制作第66・67話には本郷猛=藤岡弘、氏が登場しな
い。
仮面ライダーは登場するが、アフレコを担当したのは藤岡氏ではなく市川治
氏である。
この辺りの事の経緯は既に関連書籍にも概要が書かれているし、熱心なフ
ァンならば、ご存じの方も多いだろう。
私も迷ったが、特段に作品内容に関わる事項でもないと判断し省くことにし
た(というか、直接御本人には聞けなかった!)。
ところがである。
同席していらっしゃった平山亨先生が、「そういえば藤岡くん、君が行方不
明になったことがあったよねぇ、」そう言って、口を開かれたのだった。
私は内心、えっ、と思ったが、さすがは平山先生である。
ひょうひょうとして仰られたのだった。
藤岡氏も苦笑なさっていたが、事の次第はこうであったらしい。
当時、NHKでは昭和47年10月6日から1年間に渡り放送予定だったドラ
マ『赤ひげ』(原作・山本周五郎)の出演俳優(保本登役)を募集してオーデ ィションを行なうことになった。
藤岡氏サイドは『仮面ライダー』の出演契約が少なくともその時点では9月
いっぱいであったため、問題なしと判断してこれに応募したのである。
結果、藤岡氏は見事にオーディションに合格し、『赤ひげ』に出演できるもの
と考えていた。
ところが、この一件は事前に東映・毎日放送に知らされていなかったのであ
る。
毎日放送は10月以降も『仮面ライダー』の放送延長を決定し、当然、藤岡
氏の出演続行を求めた。
さらに毎日放送はNHKに対し、放送中の番組の主演俳優を使うことは認め
られないとして抗議。
一方のNHKでは、本人とマネージャーから仮面ライダーは9月で終了する
ので赤ひげ一本で出演できると聞いていた、と反論。
結局はNHK側が毎日放送に譲歩して、藤岡氏の『赤ひげ』出演は幻となっ
たのである。
因みに、この『赤ひげ』のオーディションには仮面ライダーXの神敬介=速
水亮氏も応募なさっていて、最終選考の5人にまで残っていらっしゃったそ うである。
37年前の今頃、『仮面ライダー』では和歌山県・南紀を舞台にした前後編
が放映され、正月以来のダブルライダー編として大きな話題となっていた。
制作第72・73話であるこの2作は山田稔監督による2本撮りであり実際に
撮影が行なわれたのは7月下旬だが、この南紀でのロケをセットしたのは 阿部征司プロデューサーだった。
勝浦や那智の景勝地を舞台とした二人の仮面ライダーの活躍は当時の児
童の目を釘づけにしたが、那智大社の鳥居の陰から佐々木さんが姿を現し たときの感激は、リアルタイムでオンエアーを見ていたファンならば誰しもが 記憶するところだろう。
この紀州での再登場から2号ライダーのブーツと手袋の色が赤色となり、新
2号として定着することになるのだが、この衣裳のマイナーチェンジに関す る経緯が判然としないのだ。
制作会議の議事録などにも記載がなく、平山亨先生の発案でもない。
私は佐々木剛氏にも伺ってみたのだが、「現場で赤の塗料しかないって言
うから、だったら赤でもいいじゃねぇかって言って、赤にした」このように仰っ ていた。
ただし、酒宴の席での話である(笑)。
新2号の赤い手袋やブーツについて本編やスチールで検証すると、第72
話での方が第73話よりも塗料の剥がれ等の傷みがひどい。
これは那智での対モスキラス戦よりも勝浦での対シオマネキング戦の方が
撮影が先に行なわれたためである。
ところで、この南紀ロケには朝日ソノラマも同行して本編ならびに特写スチ
ール多数の撮影が行なわれている。
添付画像は第72話のラストシーンの撮影を待つ藤岡弘、氏と佐々木剛氏
のスナップ写真。
朝日ソノラマのスチールである。
明日は終戦記念日である。時節柄、本項も太平洋戦争を扱わせていただ
く。
仮面ライダーの生みの親である平山亨先生の御証言である。
平山「あれは僕が中学3年の時に空襲が酣(たけなわ)になって、その頃は
学徒動員といって男子学生も女子学生もみんな工場へ駆り出されたんだよ ね、僕は大崎の鋳物工場へ行かされた。
今でもあるのかなぁ、今は見違えるくらい綺麗になってしまったから・・・、大
崎に高砂重機という大きな会社の工場があって、普通なら旋盤工とかをや るんだけど僕は何故か鋳物工をやった。
珍しい事なんだけどね、皆さん、鋳物なんて知らないでしょう?
木枠に砂を入れて圧縮して砂型を造ってね、そこへ鉄を溶かして流す訳
だ、廃材を溶かした鉄が僕の造った砂型に流れ込むとき危ないからあっち へ行けって言われてね、火花が散って洋服に穴が空いたりもしたなぁ、その 時は何を造っていたのか全然分からなかったんだけど、終戦後に聞いたら 軍用トラックターのフレームだった。大きいのは2〜3メートルもあって、何だ か分からなかったけど物凄い事をやっていたんだね。それを軍に納めるん だけど、僕は見習いで職工の親方に言われる通りにやっていたんだけど、 今になって考えると戦争協力だったんだなぁ、これが・・・。
ある時、昼休みに裏庭で日向ぼっこをしていたら、裏庭には供出された鉄
材が山積みになっていてね、僕たちは娯楽がないから歌をうたっていた。
あの頃は軍歌ばかりでうんざりしていてね、そうじゃないのを歌いたかった。
誰ががどこかから新しい歌を仕込んで来ると、その歌詞をみんなが手帳に 書き写して憶える訳、それで歌って息抜きをしていたなぁ、・・・その裏庭に は高いコンクリートの壁があってね、壁の向こうは余所の会社なんだけど、 ある時、壁の向こうから女学生の、女学生かどうかは分からないけど、とに かく女の子たちの歌が聞こえて来てね、命短し恋せよ乙女、あれはもともと 宝塚の歌だったんだね。
一般にレコードなんかは出ていなかったんだけど、いい歌でしょう、それを
可愛い女性コーラスで歌うんだよね。
たぶん僕達と同い年くらいだと思うんだ。僕たちは出来たばかりの府立二十
二中でいつもこれも出来たばかりの第六高女といっしょにされていたからそ うだったのかもしれない。
でもナンパしようなんて気にはならなかった。たぶん彼女たちも意識はして
いたんだろうけどね。あぁ、男の子たちが歌っているなぁって、毎日歌ってた からね、向こうも毎日歌い返してくれる、それを僕たちも憶えて歌う。でも、あ る晩の空襲でやられてこの工場も駄目になった。女の子たちも何処へ行っ たか分からなくなった。
・・・それから今度は大井町のニコン、日本光学へ移ったんだ。大崎から京
浜東北線の線路を歩いてね、その頃はもう電車は走っていなかったから。 当時は転進するって言うんだよね、軍隊用語なんだけど、転進。退却すると は言わないんだ。だから大井町へ移る時も転進するって言って線路を歩い て行った。それが最短距離だったんだね。
僕の親父は鉄道省に勤めていたけど、東京鉄道局って東京駅の処にあっ
た。
でも考えてみたら戦争中、空襲が始まってからは親父は一度も家に帰って
来なかった。軍用列車だけは止めるなってガンバッてたんだって。
ずっと泊まり込みで生死も不明だった。生きているのか死んでいるのか分
からないけど死んだら誰かが知らせてくれるだろうと、そう思っていたんだ ね。
とにかく電車が走ってないからみんなが線路を歩いていたね。それで大井
町へ行って、一人乗りの特殊潜航艇の潜望鏡の鏡胴を削った。
そこで終戦を迎えた。・・・空襲は毎晩あったね。
毎日どこかがやられていたからね。空襲の翌朝工場へ行って誰かが来な
いと、あぁ、あいつやられたなって。
でも不思議な事に涙が出ない、同級生が死んでるのにね。俺もすぐ行くみ
たいな、よく言うじゃない、あの世で逢おうぜって、そんな感じだったね。
どうせ戦争は殺し合いだから、こっちでも殺されてあっちでも殺されて、・・・
そんなふうに考えて処理してたねぇ、・・・」
今年、傘寿をお迎えになられた平山亨先生は軍国少年であったと御自身で
仰って憚らない。
特攻隊に志願したものの身体検査で不合格となり、悔しくて泣いたのだとお
話をして下さった。あの温厚で優しくていらっしゃる平山亨先生が、である。 そして終戦から四半世紀が経ち、平山先生は『仮面ライダー』をおつくりに なった。
私は平山先生に、もっともっとお話を聞かせて頂きたいと、切にそう考えて
いる。
1972年の週間少年チャンピオン第17号に、ちょっと興味深い記事の掲
載があった。
制作第72・73話の南紀ロケに関する特集記事なのだが、その中で3体の
ショッカー怪人の衣裳の製作費が明かされているのだ。
それによるとアブゴメスが30万円、モスキラスが31万円、シオマネキング
が37万円となっている。
これは驚くべき高額な数字である。
ニュースソースは不明だが、当時の『仮面ライダー』の製作費を勘案しても
事実でないことは明らかだ。
何しろ主演俳優の出演料が1本○万円だったのだから、怪人1体の製作費
が30万円以上など有り得ない額である(これらの数字なら平成シリーズの 怪人の製作費の相場であり、実際には当時のショッカー怪人の予算として は1体につき8万円ほどだったそうである)。
それでは、そうした怪人達の衣裳は撮影終了後、最終的にどうなってしまっ
たのだろうか?
『仮面ライダー』放映当時のアトラクション・ショーにおいては、本編の撮影
で使用されたオリジナルの仮面ライダーや怪人の衣裳が着用されていた (一部、アトラク用に新造された怪人やライダーの衣裳もあるが、)事はよく 知られている。
これらは後楽園遊園地で土・日・祝日に行なわれていた仮面ライダー・ショ
ーだけではなく、東映芸能による地方公演にも数多く出張していたのであ る。
怪人達の衣裳は観光ホテルやデパート、遊戯施設において酷使され、最終
的にはそのまま廃棄されてしまった(因みに、1972年当時の東映芸能の ショーの単価は、仮面ライダー1体とショッカー怪人4体の編成で司会者も 同行して1回30分のショーが20万円だった)。
また、中にはプレゼントの景品として一般のファンに贈答された怪人もあっ
た(現在ではとても考えられないが事実である)。
例えば当時のテレビマガジンの読者プレゼントに何体かが使用されたし(具
体的にどの怪人であったかは不明。
ただ、ザンジオーは当時の副編集長の加賀氏が御自身でお持ち帰りになっ
たそうである)、また、或る仮面ライダーのイベントでも怪人の衣裳(例えばド リルモグラ)がクイズの景品となっていた。
さらに、某コレクター氏の元にはカメレオン男他のショッカー怪人の衣裳が
現在も保管されているそうである。
しかし、何れにしても40年近い昔のラテックスである。
現状がどのようになっているかは、だいたい察しがつくが・・・
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