仮面ライダー・クロニクルズ(2)
昨年の事だが、緑川ルリ子=真樹千恵子さんとお会いした際に、その日は
『仮面ライダー』の取材とは関係なく代々木上原でお会いしたのだが、駅前 を歩いていたとき不意に、ここで初めて藤岡さんと会ったのよ、と聞いて驚 いたことがある。ビルには〈東京衣裳〉の看板があった。私は、おふたりの初 対面は東京衣裳の分室があった生田スタジオだと思い込んでいたのだが、 そうではなかった。本郷猛と緑川ルリ子の初対面の地は代々木上原の〈東 京衣裳〉だったのである。
平山亨プロデューサーの記録によると、〈衣裳合わせ〉が行なわれたのは1
971年2月4・5日の両日となっている。初対面のときに藤岡さんは縞模様 のこんなに長いマフラーをしていたと、ルリ子さんはそう仰ってよく憶えてい らっしゃるようだった。私は以前、藤岡弘、氏にも取材のさいに確認をしたの だが、藤岡氏も『仮面ライダー』で共演する以前からエメロン・シャンプーの CMを御覧になって真樹さんのことをご存じであったそうである。「真樹ちゃ んに最初に会ったときに印象深かったのが目と髪の毛、瞳が大きくてね。そ れに髪の毛が綺麗だった」(藤岡弘、氏・談)
こうして『仮面ライダー』史における最も重要な出来事のひとつ、本郷猛と緑
川ルリ子の邂逅が果たされたのである。
1971年1月13日、毎日放送の社内会議において番組名が正式に『仮面
ライダー』と決定される。
内田有作氏が東京映像企画を設立。山田稔監督が代表取締役社長に就
任。
山本修右氏を社長とするS.K.プロ(後のプロダクション・ショット)が設立さ
れ、元大映の撮影・照明スタッフ(篠原征夫氏、川崎龍治氏、太田耕治氏、 他)が『仮面ライダー』に参加することになる(前年12月に大映は倒産)。
伊上勝氏によって第1話「怪奇蜘蛛男」と第2話「恐怖蝙蝠男」の脚本が脱
稿される。
平山亨プロデューサーの要請で、パイロットフィルムとしての第1話「怪奇蜘
蛛男」を竹本弘一氏が監督することが決まる。その一方で、平山氏は東映 の社員監督であった折田至氏に『仮面ライダー』の〈総合監督〉を依頼した (ただし、総合監督という正式なクレジットはない)。折田監督がオープニン グとエンディングを演出する事になったのは、この事情による。
生田スタジオではエキス・プロダクションの三上陸男氏を中心に、〈ショッカ
ー基地〉と〈アミーゴ店内〉のセットの設営が進められていた。
エキス・プロダクションの工房では三上氏によって彫塑された〈仮面ライダ
ー〉の粘土原型を元に、造型チーフの藤崎幸雄氏によってFRP製のマスク の作成が行なわれる事になった。
オートバイ・スタントを担当することに決まった室町レーシンググループ代表
の室町健三氏が旧サイクロン号のベース車にするべく見つけてきた中古の スズキT20に、佐々木明氏作成のカウルが取り付けられる。たまたま訪れ た高橋章氏が立花レーシングクラブのエンブレムを即興で描き、サイクロン 号は完成となった。
1971年2月。平山亨プロデューサーによってメモされた以下の記録が残さ
れている。
1日 美術さん ロケイン キャスト
2・3日 ロケハン
4・5日 衣裳合わせ
6日 顔合わせ
7日 クランクイン
『仮面ライダー』は1971年2月7日に東映生田スタジオにおいて撮影が開
始された。かつては、小河内ダムでの仮面ライダーと蜘蛛男の対決シーン からクランクインした、というのが定説となっていたが事実ではない。ファー スト・カットはショッカー基地の改造手術台において、本郷猛がショッカー科 学者たちと対話する場面だと思われる。
1971年2月7日(日)、この日付を『仮面ライダー』史に大文字で記録した
い。
画像は毎日放送作成のセールスシート『仮面ライダー』にも掲載されている
真樹千恵子さんのスチール。同冊子から引用する。
緑川ルリ子 真樹千恵子
東京・阿佐ケ谷生まれの19才
現在も同所で父・母・祖母・弟の5人で住んでいる。立正大学・英文科1年
在学中。
5才の時から日舞・西川流を習い、西川沙織の名を持っている程だが、高
校時代は体操の選手をしていたというから面白い。
雑誌・セブンティーンのモデルをしていた事からエメロン・シャンプーのCM
ガールとなったが、より動きのある、自分でセリフを云いたいという欲望が女 優志願のきっかけとなった。
理想の男性 黒沢年男
理想の女性 森光子
読書(ミステリー)・音楽(ジャズ)がお好きなお嬢さん。
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