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秋風の払ひし宿は野となりてくずのうら葉ぞ庭に残れる 土御門帝
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歌碑は土成町吉田の御所神社跡(写真右)にある。昭和5年板野郡の教員有志と御所神社奉賛会が土御門上皇七百年祭を記念して建立した。歌は上皇がこの地で詠んだ五首のうちの一首で「あわのくに」の五字をそれぞれの句頭に詠み込んでいる。なお歌碑周辺のバスやがらくたは放擲されたものである。
御所神社跡は高井の里とよばれかつては数本の老松がそびえて往時の名残を留めていた。今はすべて枯れて小公園になっている。ここにはもう一つ歌碑がある。
郭公ふりむく空は朝ぼらけ高井の松に残る月かも 土御門帝
土御門上皇(1195〜1231)
後鳥羽天皇の第一皇子。1198年即位、1210年父後鳥羽上皇の命で弟の順徳天皇に譲位。承久の乱には積極的に関与せず、後鳥羽・順徳両上皇は配流となったが、鎌倉幕府の追及はなかった。しかし同年みずから土佐に移り、のち阿波に移って同国で没した。土佐院・阿波院ともよばれた。
土御門帝の悲愁
「百人一首」は鎌倉前期の歌人藤原定家が古来の人の歌を百首選び出したものである。この中には後鳥羽帝の歌が99番目、順徳帝の歌が100番目に採択されているが、土御門帝の歌は採択されていない。
人もをし人もうらめしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は 後鳥羽院
[人がいとおしく思われ、あるいは人が恨めしくも思われる。面白くないとこの世を思うところから、さまざまな思いをするこの私は]
ももしきやふるき軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり 順徳院
[宮中の、古い軒端にはえているしのぶ草を見るにつけても、いくら偲んでも偲びつくせない恋しい昔の御代であることよ]
後鳥羽帝と順徳帝は鎌倉幕府を倒し、天皇中心の世を再興しようとして承久の乱で敗れた、いわば平安朝の終焉を象徴する存在である。貴族から武士へと政権が移る激動の時代にあって、定家は平安文化の輝きを後世に残そうとしたのかもしれない。そうであるなら承久の乱にかかわらなかった土御門帝の歌をあえて採択する必要はなかった。
もともと土御門帝は気が弱くて幕府に対抗できないとして、父の後鳥羽帝が弟の順徳帝に譲位させた経緯があった。承久の乱に敗れ後鳥羽帝と順徳帝が隠岐島と佐渡島に配流されたとき、みずから望んで土佐に流された土御門帝の心情は如何なるものであったのか。肉親を失う喪失感であったのか、それとも父からも弟からも除け者にされた寂寥感、絶望感であったのか。土御門帝はいつだって味噌っかすである。
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土成町宮川内には上皇終焉地の伝説がある。御所神社跡から白鳥方面に向うと御所温泉、さらに進むと道の左に御所神社(写真左)がある。御所神社横の谷川の岩の上に碑があり、ここで上皇が自害したという伝説がある。(写真右)
土御門帝の御所神社跡へ来たのは5年ぶりであった。歌碑の横に放擲されたバスは相変わらずそのままで、むしろ捨てられたがらくたが少し増えていた。五色台の白峰陵など崇徳帝の遺跡を見ているので、その差異に唖然としてしまう。これは一部の心ない人の仕業なのであろうが、関係者がこういう状態を放擲しているのはどうしたことであろうか。歌碑横に「御所神社清掃のため百万円寄付」の碑があるところをみれば、すでに百万円分は使われてしまったとでも言いたいのであろうか。
崇徳帝と土御門帝の碑が辿った運命をみて悟ったことは、人間はハッタリをかまして生きなければ損をするということである。もっとも死後の冥利についていずれの上皇が幸せであるかは判断の分かれるところである。
上の写真の御所神社と川を挟んでもう一つ別の御所神社がある。どういう経緯で建てられたのか分からないが鳥居まである。その鳥居の前に乗用車が駐車してあって写真を撮るのが難しい。あちこち移動しているうちに落葉の蔭の糞を踏んでしまった。糞を踏んだときの感覚には柔らかい軟体生物を踏んだときのように独特のものがある。それにしても上皇の神社に糞をすることもないだろうと憤ったが仕方がない。そこが丁度道から隠れて糞ができる場所になっているのである。糞を踏んだショックが去ったとき、これは上皇が、神社でも寺院でも墓地でも賽銭もあげずお祈りするでもなく、ひたすら碑を写すことに執着している自分をたしなめているに違いないと思った。これからはせめて心の中では手を合わせようと反省した。こうして人間は成長するのである。