桜活けた花屑の中から一枝拾ふ  碧梧桐

松山二番町堀端にある碧梧桐の句碑はもともと松山刑務所内にあった。昭和6年当時の松山刑務所長が入所者の情操教育のため虚子と碧梧桐の句を得て刑務所内に二基たてた句碑のうちの一つである。昭和28年8月碧梧桐の十七回忌を記念して碧梧桐の生家近くの二番町堀端に移された。碧梧桐の流麗な筆が窺える。一方、虚子の句碑は48年刑務所と共に見奈良へ移された。
   春水や矗々(ちくちく)として菖蒲の芽  虚子
河東碧梧桐(1873〜1937)
明治・大正期の俳人。愛媛県出身。松山中学時代に正岡子規から俳句の手ほどきをうけた。二高中退後上京し、子規の俳句革新運動に参加し、「ホトトギス」の中心的存在となる。1902年の子規没後は新聞「日本」の俳句選者。06年から国内各地を旅し俳句の近代化のため新傾向俳句を広めた。のち自由律をも作句。与謝蕪村の著述も多い。紀行文集「三千里」。

 

春風や闘志いだきて丘に立つ  虚子

句碑は松山市二番町番町小学校にある。昭和53年3月建立された。
子規の日本派俳句結社「松風会」は明治27年松山において発足したが、会員は全て松山高等小学校の教員であった。番町小学校はその高等小学校の跡で子規、虚子とも番町小学校の前身、勝山学校の卒業生である。
子規の没後、虚子は小説に関心を深め俳句から遠ざかっていた。その間俳壇をリードしていた碧梧桐の提唱する新傾向俳句は、さらなる新しさを模索し季語や定型までも否定する方向へ進んだ。この危機にあたり虚子は俳壇に復帰することを決意した。この句はそのときの虚子の心境をよく現している。
高浜虚子(1874〜1959)
明治〜昭和期の俳人。松山市出身。河東碧梧桐とともに正岡子規門下の双璧。1898年「ホトトギス」を松山から東京に移し、発行の中心となる。写生を生かした文章表現の開拓にも尽力。夏目漱石の「吾輩は猫である」を「ホトトギス」に連載。みずからも小説を執筆。子規没後に独自の道を歩みはじめた碧梧桐らの新傾向俳句に対しては守旧派を宣言。客観写生と花鳥諷詠を説き、俳壇に君臨するとともに多くの俊才を育成した。句集「五百句」。

 

2006年10月
碧梧桐はリーダーとなる資質に欠けるところがあったのであろうか。いつでも他人においしいところを持って行かれた生涯のような気がする。三千里の行脚に見られるように、俳句への思い入れは誰よりも強いことが窺えるだけになおさら気の毒な気がするのである。それに比べると虚子は全くいい加減な取り組み姿勢でありながら、ちゃっかりおいしいところだけを持ってゆく。世渡り上手というのであろうか、どうにも好きになれないのである。しかし碧梧桐と虚子とをそういう視点だけで評価してはいけない。虚子がいたからこそ今日の俳句の隆盛があるのだから。