光放つ神に守られもろともにあはれひとつの息を息づく   茂吉・ふさ子

    白玉のにほふ処女をあまのはらいくへのおくにおくぞかなしき  茂吉

昭和9年9月正岡子規三十三回忌歌会が東京向島百花園で催された。そのとき茂吉とふさ子との出逢いがあった。茂吉53歳、ふさ子26歳であった。
二度ばかり逢瀬を重ねふさ子は茂吉の家庭生活が幸せでないことを知った。同情が恋情へ移り行くのを感じながらふさ子は松山へ帰った。日を置かず茂吉の手紙が届いた。
昭和11年1月ふさ子は上京、浅草観音に詣でた日の夜、茂吉に唇を奪われた。
ふさ子は上京して渋谷のアパートに妹と同居し、以来二人は人目を忍ぶ逢引を続けた。

    光放つ神に守られもろともにあはれひとつの息を息づく  茂吉・ふさ子

「“光放つ神に守られもろともに”の先生の上句に下句をつける様にと言われたので、最初『相寄りし身はうたがはなくに』と詠んだところ、『弱い』と言われ、作り直して、『あはれひとつの息を息づく』としたら、『今度は大変いい、人麿以上だ』と機嫌のいい冗談が出るほどのよろこびようであった」

    まをとめと寝覚めのとこに老の身はとどまるすべのつひになかりし  茂吉

「堪えられるものではないです、こんなに年をとってから、どうなってもいい何処へでも行こう」
「ふさ子さん! ふさ子さんはなぜこんなにいい女体なのですか。何ともいへない、いい女体なのですか。どうか大切にして、無理してはいけないと思ひます。玉を大切にするようにしたいのです。ふさ子さん。なぜそんなにいいのですか」
「ふさ子さん、何といふなつかしい御手紙でせう。実際たましひはぬけてしまいます。
ああ恋しくてもう駄目です。しかし老境は静寂を要求します。忍辱は多力也です。忍耐と恋とめちゃくちゃです」

    ほのぼのと清き眉根も嘆きつつわれに言問ふとはの言問ふ  茂吉
    悲しさを訴ふるともやすらひて吾によれとふ君ならなくに  ふさ子

ふさ子はこの中途半端な関係に終止符を打ってくれと訴えた。茂吉は煮え切らなかった。茂吉には養子先の斉藤家とアララギの宗匠としての面目のほうが恋より大切であった。
12年1月ふさ子は悩んだあげく松山に帰省した。4月には父の勧めで見合いをし結納まで交わした。結婚準備のため上京したふさ子は茂吉と再会した。再会は抑圧された反動となって二人を激しく燃え立たせた。ふさ子は婚約を解消した。
「もはや私にとって他の人の愛情を受けることは苦痛でしかなかった。婚約解消を決意すると同時に、先生との恋愛を続けることも自分にゆるせなかった。私は東京を去った。西に向う汽車の中で窓に顔をおしつけていたが泪があとからあとから流れてきた。」

ふさ子は茂吉との関係を解消し、歌からも離れた。ふさ子には寂寥の日々、茂吉には栄光の日々が流れていった。昭和28年茂吉が死んだ。享年七十であった。ふさ子はこの大歌人の死をラジオのニュースで始めて知った。

茂吉から送られた手紙は150余通あった。生前茂吉から焼き捨てるよう頼まれていたがふさ子は30通余を焼いて残りを保存していた。
「先生からはいつもこれ等の書簡を焼却する様にと言われていたが、最初の30通余りを焼いたあとの言いようのない寂しさを思うと、先生との恋愛を絶った今となっては、とても焼き捨てることが出来ずこれだけは自分の生のある限り持っていようと思った。」
茂吉の死後10年が過ぎたとき、茂吉研究のためと周りの人たちに説得され、書簡を公開したため秘めた恋が明るみにでた。

    過ぎにけるひとつ嘆きもおくつきになに愬(うった)へむ淡き秋の日
    遺されし背広の前に息をのむその腕に胸にし甦るもの(茂吉記念館)
    最上川の瀬音昏れゆく彼の岸に背を丸め歩む君のまぼろし

ふさ子の唯一の歌集「あんずの花」に60歳後半の歌が記されている。茂吉の死から20年後、茂吉の故郷山形県上山市を訪ねた折の歌である。
平成4年ふさ子は永眠した。享年八十三であった。ふさ子は生涯嫁ぐことはなかった。