雨がやんだら

薄く目を開けて、花形はぼんやりと空を見上げた。
梅雨に入ってからずっとぐずついた天気が続いていたが、今日になってようやく雨があがった。梅雨の中休みとはいえ、すっかり夏らしい鮮やかな夕日が、暗い雨雲を払うようにオレンジ色の光を放っている。
体育館の入口近く、風通しの良い涼しい場所に、花形は寝かされていた。濡らしたタオルと氷の入ったビニール袋が額の上に載せられている。
インターハイ神奈川県予選の決勝リーグを3日後に控えて、翔陽高校バスケットボール部では、練習に一層熱が入っていた。
その練習中、スタメンのAチームと控えのBチームとでゲーム形式の5対5を行っているときに、花形はAチームの選手にぶつかって転倒し、軽い脳震盪を起こしてしまった。
回復するまで休むにしても、蒸し暑い体育館の中では良くないだろうというマネージャーの判断で、外の風に当たれるところへと運ばれたのである。
コートではそのまま5対5が続けられていた。
「翔陽! 翔陽、ファイト!」
「速攻止めろ!」
床を蹴るバッシュが軋んだ音を立てる。様々な掛け声が交錯する。
そこに、ひときわよく通る凛とした声が飛んだ。
「インサイド気を付けて! ディナイしっかり!」
藤真の声だった。
スタメン唯一の2年生でありながら、藤真はチームの中心的存在である。
ポイントガードという、ゲームをコントロールする重要なポジションを担って、藤真の出す指示はいつも冷静で的確だった。優れた技量もさることながら、1年の夏からスタメンとなり数々の試合を戦い抜いてきた経験が、彼のプレイをより際立たせている。
それに比べて、
――俺は、いったい何してるんだろう。
花形は歯噛みした。
新人戦で初めてユニフォームをもらってから約半年。このインターハイ予選でも、花形は選手登録されてベンチに入っている。大所帯で選手層が厚く、試合に出られない部員も多くいる翔陽高校において、2年生でベンチ入りしているからには、花形も水準以上の実力を有しているということだが――。
先日の試合を苦く思い返して、花形はため息を付いた。
インターハイ予選のブロック決勝。シード校である翔陽にとっては緒戦にあたる試合だった。
ブロックを勝ち上がってきたチームを相手に、翔陽は圧倒的な強さを見せた。そして、後半5分で30点差が付いたこともあり、花形たちベンチメンバーにも試合に出る機会が与えられたのだ。
しかし花形は、練習のときの力をほとんど出せなかった。シュートが決まらず、リバウンドも思うようにポジションが取れない。そのせいで、翔陽ペースだった試合の流れを壊してしまった。
チャンスを生かせなかった花形は、5分も経たないうちにベンチに下げられた。既に大差のあった試合だから勝敗には影響がなかったものの、これが接戦ならば、間違いなく勝機を逃してしまうような大失態だった。
それからというもの、どんなに練習を頑張っていても調子が全く上がらない。
5対5の最中に転倒したのも、焦り過ぎてバランスの悪いままリバウンドに飛び込んだからだ。以前ならこんなことは決してなかった。
リーグ決勝まであと3日しかない。
こんなときだというのに、脳震盪なんか起こして、ただ寝そべっていることしかできないなんて――。
堅く目をつぶって、花形は腕で顔を覆った。

顔の上に置いた腕に、突然冷たい何かが載せられた。
「――うわっ」
花形が驚いて手を上げると、それは氷の入ったビニール袋で、中の氷がぶつかり合ってカラカラと涼しい音を立てた。同時に目を開けると、眉を寄せた藤真の顔が視界に飛び込んできた。
「何だ、藤真か……。びっくりさせないでくれよ」
「何だ、はないだろう? 差し入れ持ってきたのに」
少し口を尖らせて、藤真が氷の入った袋とスポーツドリンクのボトルを差し出す。
「――起き上がれそうか?」
そっけないようでいても、その言葉には気遣いが充分感じられた。
「ああ、もうだいぶ良くなったから……」
花形は身体を起こし、スポーツドリンクに口を付けた。冷えた液体が心地好い。思っていたよりもずっと喉が渇いていたようだった。
自分の物思いに沈んでいるうちに、いつのまにか体育館から聞こえていたボールとバッシュの音がやんでいる。
「――練習は?」
「休憩だよ。5対5が終わったから。あとはシュート練習だけ」
「そうか……」
答えた声は、自分でも情けないほど弱々しいものだった。藤真がちらりと花形の顔を見たが、何も言わないまま、隣に腰を下ろした。
「夕日が眩しいな。もう7時過ぎてるっていうのに」
藤真が暮れ始めた空を見上げて呟いた。雨上がりの夕日は沈むまでが長い。やっと夜になろうとする中で、まだ西の地平だけが名残惜しそうに夕焼けに染まっている。
「――また、夏が来るんだな」
藤真のその言葉が、静かなのに何かしら強い意志を感じさせて、花形は思わず振り返った。
夏はインターハイの季節である。
昨年の夏もバスケット一色だったことを、花形は思い出した。
もっとも昨年はベンチにも入れず、観客席からチームの応援をしているだけの立場だった。それを思えば、今、選手としてコートに立てるということは、少なくともあの頃よりは上達しているということなのだろうか。
それでも、藤真たちスタメンの足を引っ張ってしまっているのがまだ現実である。
わずかに顔を曇らせた花形を、藤真は見逃さなかったようだった。
花形が手に持ったままだった氷の入った袋をひったくると、そのまま花形の額に勢いよく押し付けた。
「痛っ……」
何するんだ、と声を上げかけたのを遮るように、藤真がきつい口調で言い渡した。
「まだ頭を冷やし足りないんじゃないのか。センターが迷っていてどうする」
澄んだ色の瞳が、峻烈な光を放って、真っ直ぐに花形を射抜いている。
「迷いながら打つシュートが入ると思うか? 弱気なリバウンドでボールが取れると思うか? 尻込みしてるセンターなんて、相手からすれば全然怖くないんだぞ」
「――そんなこと分かってるよ!」
花形は声を荒らげた。
分かってるのに思うようにならないから悩んでいるんじゃないか――そう叫ぼうとして、だが、次の言葉を飲み込んだ。
藤真が花形の腕を強くつかんだからだった。間近に迫ったその顔があまりにも思い詰めた様子で、驚いた花形は呆然と見つめることしかできない。
「毎日一緒に練習してきたんだ。花形の実力は、誰よりも俺が知ってる」
藤真は断言した。
「力を出し切れていないんだ。お前ほどのセンターなら、もっと自信を持っていいはずなのに……」
「……自信なんて」
絶句して目を伏せてしまった花形を見て、その腕をつかむ藤真の指に、更に力がこもった。
「もし、どうしても自分が信じられないのなら――最後は俺を信じろ」
「藤真……」
「いいか、一緒にコートに立っている俺が、お前の本当の実力を信じている。だから、試合に出ているときは、俺のことを信じていろ」
コートの上でしか見せない、挑むような真剣な表情をして、藤真は強く言った。
藤真の頬に夕日が差している。生き生きと輝くその瞳は、どんなものよりも強く花形の心を捕らえた。
自分自身に対する不甲斐なさと、ずっと持ち続けていた屈託と、胸を満たす温かい嬉しさと――あらゆる感情がいっぺんに溢れてきて、花形は結局、すぐには何にも答えられなかった。

一言でも声を出したら、この均衡が破られてしまいそうだった。

体育館から二人を呼ぶ声が掛かったのは、そのときだった。
「おーい、藤真! シュート練習始めるぞ」
――花形ももう平気なら戻ってこい、と更に声が続く。
藤真が花形の脇を軽やかにすり抜けて、鮮やかな笑みを浮かべた。

「さあ――練習だ。行こう」

(2005.06.19)