「先輩たち、もう向こうに着いた頃だろうな……」
体育館の床をモップで拭きながら、永野が呟いた。
夏の強い日差しを受けて、昼過ぎの体育館にはうだるような熱気が立ち込めている。後片付けをしていた他の1年生部員たちが、流れ落ちる汗をTシャツの袖で拭って永野の方を振り返った。
明日からいよいよインターハイが始まる。
神奈川県予選で準優勝し、インターハイへの出場権を得た翔陽高校バスケットボール部では、ベンチ入りしているメンバーが監督らと共に一足早く開催地へ向かっている。それ以外の部員は、明日行われる1回戦の応援に間に合うよう、翌朝早くに大型バスで出発する予定になっていた。
「集合って、朝5時に校門のところでいいんだよな?」
「俺、S市に行くの初めてなんだよ。お土産でうまいものって何?」
今日は午前中だけ通常の基礎練習を行ったが、下級生ばかりで主力選手のいない状態では、いささか集中力に欠けた内容になってしまうのも無理からぬことだった。まして練習の終わったこの時間、1年生たちの関心もすっかり明日の日程に関する事柄に移っている。
そわそわと楽しそうに言葉を交わす同級生の中にあって、花形だけが浮かない顔で足下を見つめていた。
「藤真、大丈夫かな……」
ベンチ入りしている選手の中で唯一の1年生。のみならず、翔陽高校バスケットボール部の歴史上、初めて1年でスターティングメンバーとなった、藤真健司。
ほとんどが3年生であるベンチメンバーに囲まれて、開催地までの長い旅程を、果たして藤真は無事に過ごせているのだろうか。
もちろん、前例のない1年生スタメンに対しては監督や主将が常に注意を払っているし、他のレギュラーたちにしても、県予選を共に勝ち抜いてきた藤真の実力はよく分かっているわけだから、今さらつまらない嫌がらせなどはしないだろう。
ただ、新入生にいきなりスタメンを奪われてしまった上級生たちが、当の藤真に対して本心から友好的な態度を取るのは、やはり簡単なことではない。
インターハイという全国の大きな舞台に立つことだけでも極度の緊張を強いられるというのに、長時間の移動中、居心地が良いとはいえない人間関係にずっと神経を使っていなければならないとしたら、その消耗の度合いは計り知れないほど大きなものになってしまうのではないか。
そんな不安を感じて、花形が息を吐いたときだった。
「――大丈夫って、いったい何が?」
そばにいた1年生部員一人が、突然、冷ややかな声で言った。花形の先程の呟きを耳聡く聞き付けたようだった。
「藤真はさ、俺たちなんかとは違って、雲の上の存在じゃないか。監督だって特別扱いしてくれてるし、花形が心配する必要なんて、はっきり言って全然ないだろ?」
頬を歪ませて吐き捨てたあと、彼はことさら乱暴な拭き方でモップを動かした。
同じ一年生の中にも、藤真に対して反感を抱く者がいる――花形にはそれが納得できなかった。
相手のひがんだような口調が余計に苛立ちを誘う。言われたままでいるのが悔しくて、思わず反論しようと振り返ったが、花形が口を開く前に、長谷川が無言でその肩に手を置き、小さく首を振って見せた。
「花形、向こうでボール片付けるのを手伝ってくれないか」
長谷川はそう告げると、何事もなかったように高野や永野のいる方へと花形を促した。
「――すまん、長谷川」
並んで歩きながら、花形は申し訳なさに首を竦めた。
長谷川は、藤真とは幼稚園の頃からの幼馴染みである。藤真のことを悪く言われれば花形以上に悔しいと思う気持ちが強いはずだ。その彼が、くだらない言い合いを避けるために感情を抑えて受け流している。
「ああいうのを相手にしても、まともな話にはならないぞ」
淡々と諌める長谷川に、
「そうだな。分かってはいるんだけど……」
花形は肩を落として呟いた。
あまりに圧倒的な実力の差と、それに伴う立場の違いは、藤真と他の1年生との間にいつの間にか見えない壁を作ってしまっていた。
レギュラーとして厳しい練習を課せられながらも、藤真は下級生がしなければならない雑用の数々もきちんとこなしている。そういう点では何ら特別扱いを受けているわけではないのだが、歪んだ気持ちで藤真を捕らえる者にはそれが分からないらしい。
高校に入学してからの、まだ4か月程度しかない付き合いだが、藤真の真っ直ぐな気性や努力を惜しまない真摯な姿勢は、花形には確実に見て取れる。藤真の実力が傑出しているのは、優れた才能に見合うだけの努力を常に積み重ねているからだ。嫉妬や偏見に惑わされなければ誰にでも分かることなのに。
腹立たしさがまた込み上げてきて、再び拳を握り締めると、長谷川がかすかに目元を和ませて振り向いた。
「藤真のこと、公平に見てくれているんだな、花形は」
「――だって、そんなの、当たり前だろう?」
「まあな。本当ならそれが当たり前なんだけど……」
長谷川が苦笑交じりに答えたとき、ボールを集めていた高野が大股で花形たちに近寄ってきた。
「なあ、花形。一言くらい言い返してやれば良かったんだよ。あいつの態度、最低だぜ」
「高野――」
「分かってるよ、こんなことでケンカしたってしようがないのは。だけど、インターハイはもう明日なんだぞ。同じ学校の人間が藤真を応援しないでどうするんだよ」
憤慨する高野を、あとから歩いてきた永野が宥めた。
「やめておけ、高野。言っても分からないんだから」
そうして永野は花形の方を向いた。
「1年でさえあんなこと言う奴がいるんだから、花形の心配ももっともだと思うよ。でもまあ、何といっても藤真のことだ。うまくやっているはずさ、きっと」
花形の不安を少しでも和らげようとしてくれているのか、永野は力強い声で続けた。
「それにほら、藤真は全中に出たことあるだろう? 中学のときに一度は全国の舞台を経験してるわけだから、全く初めての選手に比べたら緊張も少ないんじゃないか?」
確かに藤真には全国中学校大会の出場経験がある。中学の3年間を、藤真は父親の転勤に伴い福岡で過ごし、3年生のときに福岡県代表として全中に行っているのだ。
「まあ、全中とインターハイでは同じとはいえないかもしれないけど、試合の雰囲気とか、ある程度は慣れているだろうし。だからさ、あまり深刻になり過ぎないで、俺たちは応援を精一杯することだけ考えようぜ。な?」
永野の言ったことを、花形は自分に納得させるように何度も反復した。
「ああ。そう、だよな……」
藤真は強い。インターハイに通用するほどの優れた実力を持ち、全国で戦った経験も有している。現在置かれている少々困難な状況にも、適切に対処できるだけの強さが彼にはあるはずだ。
花形は床に反射する眩しい日差しに目を細めながら、明日行われる試合のことを考え始めた。
大型バスに乗ること6時間余り。
翔陽高校バスケットボール部の応援の部員たちがS市に着いたときには、頭上にある太陽がじりじりと照り付け、熱せられた地面からは陽炎が立ち上っていた。
試合会場となっている市立体育館には冷房設備がないらしく、1回戦の試合にしては観客が多いこともあって、体育館の内部は耐え切れないような蒸し暑さになっている。冷房の効いたバスの車内にすっかり慣れていた部員たちは、観客席に足を踏み入れるなり、早々に悲鳴を上げた。
「うわー、なに、この暑さ!」
「マジ、サウナじゃん、これ」
賑やかに通路を歩く部員たちを、先に現地に到着していた3年生のマネージャーが迎えてくれた。
「みんな、お疲れ様。バスで来るのは大変だっただろう? 2階の最前列の席を確保してあるから、まずはそっちへ移動してくれ」
マネージャーに引率されて、観客席へと向かう列の後ろに付いていきながら、花形は辺りを見回した。ベンチメンバーは――藤真は、どこにいるのだろう。この体育館では、準備体操ができる広いスペースは玄関ロビーくらいしかないようだが、正面入口から入ってきたときには彼らの姿を見掛けなかった。
同じ疑問を持ったらしい2年生の一人が、マネージャーに尋ねた。
「先輩、レギュラーの人たちはどこでウォームアップしてるんですか?」
「ああ、みんなは外のグラウンドにいるよ。ランニングと柔軟をやってる」
「え、この炎天下で?」
マネージャーが暑そうに額の汗を拭って苦笑した。
「グラウンドの回りには割と木陰が多いんだよ。体育館の中にいるより、ずっと涼しいくらいじゃないかな」
「……そうかもしれないですね」
げんなりした様子で、部員たちは2階のいちばん上にある通路を見上げた。通路に面した窓は全部開けてあるが、窓に掛かっている暗幕に遮られて外の風がほとんど入ってこない。歩いているだけでも、じわじわと汗が背中を伝うのだ。
「――あ、戻ってきた」
玄関に続く階段を振り返って、マネージャーが軽く手を振った。
ウォームアップを終えたベンチメンバーが、2階席の方へやってくるところだった。部員の間から、恒例の翔陽コールと拍手が次々に沸き起こる。
ベンチメンバーの先頭にいた主将の島田がにっこり笑い、部員たちに向かって片手を上げ、ガッツポーズをして見せた。拍手が一層大きくなった。
「翔陽! 翔陽!」
「いいぞ、いいぞ、島田!」
花形は真っ先に、レギュラーの中から藤真の姿を探した。
背の高い先輩たちの後ろで、藤真は、マネージャーからスポーツドリンクのボトルを受け取っていた。ドリンクを一口飲んだあと、手近な座席に腰掛けようとしている。
そのわずかに俯いた横顔を見て、花形はぎくりとした。
いつもよりもずっと表情が硬い。この暑さの中でウォームアップをしていたというのに、色白の頬には血の気が薄く、青ざめてさえいるようだ。なまじ目鼻立ちが整っている分、無表情に近い硬さによって、まるで精巧にできた人形のようにも感じられた。堪らない焦燥感があっという間に胸一杯に広がって、気が付いたときには、花形は藤真のすぐ隣まで走り寄っていた。
「――藤真!」
緊迫した突然の呼び掛けに驚いたのか、藤真がぱっと頭を起こした。
「花形……?」
大きく目を見開いて、彼は笑った。
「どうしたんだ。いきなり」
訝しそうに尋ねる声は、しっかりと落ち着いた、いつもの藤真のものだ。
横顔を目にしたときに感じた、あの強張ったような空気は気のせいだったのだろうか。こうして近くに来てみれば、青白く思えた顔色も、今はそれほど悪いようには見えない。
戸惑いながら花形は言葉を濁した。
「あ、いや……。その……調子はどうだ?」
「調子?」
藤真が首を傾げる。
「別に悪くないけど……。いったいどうしたんだよ、花形。俺、どこか変に見えるか?」
言われるままに、花形はもう一度藤真の表情を窺った。特に変わったところは見受けられない。やはり、花形の感じた違和感は単なる思い違いだったのだろうか。
二人が話しているのに気が付いて、長谷川と高野が階段を上ってきた。部の荷物の整理を手伝っていた永野も、仕事を終えてこちらへやってくる。
「よお、藤真。元気そうじゃないか」
「疲れはないか? 昨日はよく眠れたか?」
「泊まっている旅館はどんなところだ?」
賑やかに言葉を掛ける彼らに、藤真は笑いながら答えている。旅館の食事や風呂について楽しそうに話している姿は、平素の朗らかさと余裕とを湛えていた。
「――ロッカールームが開いたそうなので、選手は集合してください」
まもなくして、マネージャーが立ち上がり号令を掛けた。
「じゃ、着替えて下に降りるから」
藤真が片手を振って、自分のドラムバッグを引き寄せた。集まり始めたレギュラーの輪の中へと戻っていく。
その姿を見ながら、高野が明るい声で言った。
「なんだ。藤真、全然心配ないじゃないか。いつもと同じで、本当にしっかりしてるよ」
「どうやら俺たちの杞憂だったようだな。良かったな、花形」
永野も安心したように呟き、花形を振り返る。
永野たちの目から見ても、藤真は全く普段と同じなのだ。花形は額をこつんと叩いた。やはり自分の不安には根拠がないのだ。
さすがに納得して頷こうとした瞬間、ドラムバッグを肩に掛けて通路を歩く藤真の横顔が視界の端を過ぎった。
その横顔には、花形が最初に感じたよりも更にひどく、無機質な硬さが張り付いていた。
花形の足が自然に動いた。
「藤真!」
階段を一段飛ばしで駆け上がり、振り向いた藤真の両肩に手を置いた。
前を歩いていたレギュラーも、観客席に取り残された永野たちも、花形の勢いに呆気に取られたようにぽかんと口を開けている。
「花形……本当にどうしたんだよ」
藤真が困惑した様子で見上げてくる。
「あのな――ええと」
花形は不器用に言い募った。
「いい方法があるんだ。手のひらに『人』って字を書いて、飲み込む真似をする。そうすると緊張しないでいつもの力を出し切れるんだ」
勢い込んで叫んで、はっと我に返ると、辺りがしんと静まり返っていた。藤真がまじまじと目を瞠って絶句している。
恥ずかしさと後悔が込み上げてきて、花形はがっくりと項垂れた。こんな子供だましのおまじない、藤真が信じるわけないじゃないか。
「何やってるんだ、花形!」
レギュラーから怒号が飛んだ。
「試合前で忙しいんだぞ! くだらないことで時間を取らせるんじゃない」
「藤真も、遅れるな!」
先に行くレギュラーたちを追って、藤真が軽く駆け出した。すれ違いざまに花形の背をぽんと叩いていく。
「――行ってくるよ」
「いけいけ、翔陽! おせおせ、翔陽!」
インターハイの緒戦が始まり、前半5分が経過していた。
翔陽高校はまずまずの立ち上がりだった。相手の学校もこちらのペースを探っている段階だから、今のところ単純に攻守を繰り返しているだけで点差はほとんどない。
気になるのはこの体育館の暑さだった。
観客席で応援をしているだけでも、汗が滝のように流れ続けるのである。コートを走り回っている選手たちは猛烈な暑さを感じているに違いない。
「すごい汗だな……」
部員たちから囁きが漏れた。選手たちのユニフォームがべっとりと身体に貼り付いている。
翔陽の攻撃で、ポイントガードの藤真がボールを持った。ドリブルで相手の出方を探っている。花形の懸念は考え過ぎだったのか、藤真の動きに目立った緊張は見られなかった。
「抜いた!」
藤真がレッグスルーで進路を変え、マークマンを抜き去ってペイントゾーンへと切り込んでいく。しかし、絶妙のコースでゴール下に迫ったまさにそのとき、突然藤真はバランスを崩し、床に倒れ込んだ。
ボールがコートの外に転がった。相手校のスローインとなる。
「あー、何やってるんだよ」
花形たちの席の後ろから舌打ちが聞こえた。藤真に反感を持っている1年生部員数人のグループだった。
「暑さでふらついたんじゃないか」
「意外と体力ないんだな」
普段の練習だけでなく、大事な試合の最中でも悪意に満ちた発言を繰り返す彼らに、とうとう我慢がならなくなった高野が振り返って睨むと、その1年生たちは反抗的に睨み返してきた。
「文句あるのかよ。本当のことだろ」
その言葉に、鋭い笛の音が重なった。
審判が試合を止めたのだ。藤真に話し掛けてからモップ係を呼び、ゴール下一帯を指差して念入りに床を拭かせている。
「――床が、汗で濡れていたんだ」
だから、藤真が倒れたのは不可抗力だ。花形は振り向いて、きっぱりと彼らに告げた。
審判はまた、ボールも布で念入りに拭いている。
「きついな、これじゃ……」
長谷川が沈んだ表情で言った。
床もボールも、選手たちの汗で非常に滑りやすくなっている。ただでさえ暑さで体力を削ぎ取られる上にこの状態では、疲労の限界が来るのも早い。
転んだときに怪我をしたらしく、藤真がいったんベンチに戻って手当を受けている。
「うわ、ひどい」
「痛そう……」
観客席からいくつか、悲鳴のような声が上がった。
藤真の右足には、膝からふくらはぎにかけて真っ赤な打ち身とすり傷ができていた。
それでも、藤真は手当が終わるとすぐにコートに戻った。そして、いきなりスティールからの速攻を決めた。
続いて、ディフェンスリバウンドを取ったあとに、見事なロングパスによるアシストを2度成功させた。
これを契機に試合は完全に翔陽のペースとなった。相手チームが暑さによって集中力を失っていく中で、藤真のプレイは次第に鋭さを増していく。
「す……すげえ」
先ほどの1年生部員のグループから呆然とした呟きが聞こえてきた。
既に、観客席ですら暑さは限界に達していた。応援していた部員の内の何人かは、具合が悪くなって、いくらか涼しい体育館の外に連れ出されて休んでいる。藤真に反発する部員の中にも、耐え切れずに外に出ていった者がいた。
「この暑さで試合してて、それでもあんな動きができるのか?」
「嘘だろ……」
花形たちは、コートにいる選手たちに負けじと、更に応援の声を張り上げた。
「翔陽! 翔陽!」
後半16分。藤真が完璧な3ポイントシュートを決めた。これで相手チームとの得点差は20点となった。
そして――試合終了。
翔陽高校は、藤真の活躍により、26点差で相手校に圧勝した。
体育館の玄関ロビーに集合し、翔陽高校の応援の部員たちは、監督とレギュラーを大きな拍手で迎えた。
「緒戦突破、おめでとう!」
「すごかったよ、本当に!」
部員たちがレギュラーを囲んで、次々に声を掛ける。
花形は藤真に駆け寄った。
「藤真、怪我の方は?」
藤真が汗に濡れた前髪をかき上げた。まだ息を切らしてはいるが、満面に清々しい笑みを浮かべている。
「見た目より痛くないんだよ。試合に夢中だったから」
その晴れやかな様子からは、試合前に花形が危惧した硬い表情など少しも感じられなかった。
ああ、あれはやっぱり自分の思い過ごしだったのだ。花形は内心で恥じ入ったが、そんな恥ずかしさも、こうして圧倒的な勝利を収めたあとでは些細なことでしかない。
高野や永野が藤真の身体を喜びに溢れた仕草で思い切り揺さ振り、他の1年生もそれに倣う。賑やかな輪に気まずそうに近付いてきた、藤真に反発していた1年生グループに、花形は声を掛けた。
「――藤真のことを認めるのなら、今までのことはもう構わないんだ。みんなで一緒に勝利を祝おう」
彼らはおずおずと、自分の感動を藤真に伝え始めた。
こうして翔陽高校の面々がひとしきり初戦突破の喜びに沸いたあと、レギュラーたちが着替えをするためにロッカールームに向かい始めた。ようやく部員たちの輪から開放された藤真が、花形の方へ歩いてきた。
「花形」
「――?」
藤真は右手を胸の高さまで上げた。そして、手のひらを広げると、左手の人差し指で「人」という字を滑らかに書き、いたずらっぽく肩を竦めたまま、小さく舌を出して手のひらを舐める仕草をして見せた。
「藤真……」
花形が驚いて訊き返すと、藤真はちょっと照れたように笑った。
「花形。あのオマジナイ、効いたよ」
本当は俺、結構緊張してたんだよ、と言いながら俯く。
「やっぱり全国のプレッシャーがあったし、先輩ばかりに囲まれているっていう状況も、思った以上にきつかったから」
でも、と藤真は続けた。
「でもさ、花形の突飛な行動で何だか笑っちゃって。それでずいぶん楽になったんだよ」
「――突飛だったか、そんなに?」
花形が情けない思いで尋ねると、藤真は腹を抱えて笑い出した。
「うん。最高だった」
おい、と思わずたしなめると、大きな瞳をくるっと輝かせて藤真が言った。
――だから、この次もよろしくな。花形。
(2004.08.13)