翔陽高校の正門をくぐったところで、はやる気持ちを落ち着かせようと、花形は一つ深呼吸をした。
春休み中にもかかわらず、校内には部活動に励む生徒たちの姿が多く見掛けられる。
県下有数の進学校であり、バスケットボールの名門としても知られるこの高校に、まもなく自分も通うことになるのだ。そう思うと、誇らしさと期待とで花形の胸は膨らむのだった。
中学から始めたバスケットボールを、高校でも続けることに迷いはなかった。レベルの高い翔陽でどこまで自分の力が通用するのか、全く怖くないわけではないが、そんな不安よりも、実力者揃いのチームでバスケットをする喜びの方がはるかに大きかった。
「第2体育館は――こっちだったよな」
グラウンドの反対に向かう道を目指して、花形は歩き出した。
第2体育館は、バスケットボール部が春休みの練習を行っている場所だった。翔陽の主将が中学のときの先輩である関係で、正式な入部の前に練習を見学させてもらえることになっていたのだ。
緊張しながら体育館の入り口を開けると、すぐに花形に気が付いたのか、その先輩が手を上げて近寄ってきた。
「よう。来たな、花形」
「島田先輩、お世話になります。今日は無理を言ってすみません」
翔陽の主将である島田が、笑って花形の肩を軽く叩いた。
「気にするな。入部希望者なら、練習を見たいのは当たり前だろう?」
ちょうど今、5対5を始めるところなのだと彼は言いながら、部員たちが散らばって準備を整えているコートを指差した。島田はスタメンのフォワードだが、その彼が緑色のナンバーを付けているから、緑色の方がスタメンチーム、白い方が控えの選手のチームなのだろう。
「そのまま少し見学していてくれ。休憩に入ったら監督に紹介するからさ」
島田がそう告げて、コートヘと戻っていく。
間もなく笛を合図に5対5が開始された。
ほんの少し見ただけで、翔陽のレベルが想像以上に高いことを花形は悟った。花形も、中学では主将として県大会の準々決勝まで進んだ経験を持っていたが、そんな自分の実力など、ここでは到底通用しそうにない。
「すごい、な……」
両手を握り締めて、花形は呟いた。ある程度は予想していたけれども、実力の差を目の当たりにすると、やはり足が竦む。
花形はコートをしっかりと見据えた。
びっくりしているだけじゃ何も始まらない。自分も必ず同じところまで行くのだ。
決意を新たにした花形の目に、一人の選手のプレイが映った。
最初はスタメンチームや島田の動きを主に追っていたのだが、ゲームが進むにつれて、自然とその選手に目が行くようになる。比較的短い時間でメンバーを入れ替えている控えの白チームに、途中から入って、そのまま交替せずにコートを走っているガード。
タイトなディフェンスを軽やかにくぐり抜け、絶妙のタイミングでパスを出す。速さと正確さを完璧に備えたパスに、花形は思わず息を呑んだ。小柄ではあるものの、その分敏捷で勘が良く、スタメンチームのガードの方が逆に押され気味なくらいだった。
笛が大きく鳴った。監督の指示で選手を全部入れ替えたあと、再び5対5が始まる。
コートを出た主将の島田が、スポーツドリンクを手にして花形の所に歩いてきた。
「どうだ、花形。うちのチームは?」
「あ、ええ……」
呆然としているところに声を掛けられ、花形は暖昧に頷いた。
「どうした? 手応え全然なかったとか?」
「そんな――そんなことないです。すご過ぎて、かえって圧倒されてしまって」
花形は急き込んで答える。
「当たり前な感想ですけど、さすがに翔陽だなって。中学とは全然レベルが違うし、何だかうまい人ばかりだし……」
「そうか? 初めて練習を見たらそう思うかな、やっぱり」
島田がくすりと笑った。
「うまい人、か。まあ、俺がうまいのは当然として――」
「先輩、しょってますね」
さらりと言うところがかえって爽やかで、花形がつい噴き出すと、
「で、他に気に入った奴、いたか?」
興味のある様子で、島田が訊いてきた。
花形はコートに目を遺った。既に全員入れ替わっている5対5のメンバーの中に、先程のガードの姿はない。
「あの」
花形は島田を振り返った。
「さっき、途中から白に入った、ガードの人がいましたよね」
「……ガード? 白の?」
「ええ、そうです」
島田は面白そうに何度か瞬きをすると、軽く肩を竦めた。
「――参ったな。あれ、お前と同じ新入生だぞ」
え、と絶句した花形の脇を抜けて、島田はぐるりと体育館を見回す。
「おーい、藤真!」
大きな声で呼ばれた少年が、タオルを肩に掛けたまま駆けてきた。
短く切り揃えた栗色の髪が、走るリズムに合わせて軽く跳ねる。練習を見ていたときは、鮮やかな動きの方に気を取られていたし、花形の視力が良くないせいもあって、容姿についてはほとんど意識していなかったのだが、
「――何ですか? 島田先輩」
島田と花形の前に立った彼は、165センチそこそこの身長で、華奢な感じさえする。
そして、女の子でもめったにないくらい非常に整った顔立ちをしていた。今までコートを走っていたために、薄茶色の目は生き生きと輝き、白い頬がうっすらと上気している。
「あのな、藤真。こいつ、俺の中学の後輩で、花形っていうんだ」
いきなり紹介され、花形は慌てて、条件反射のようにぺこりと頭を下げた。
「花形。こっちは藤真。お前と同じで、4月から翔陽に入学する奴なんだけど、昨日からバスケ部の練習に参加してる」
花形は、藤真と呼ばれた少年を呆然と見つめた。
翔陽のスタメンすら霞ませた実力の持ち主が、まさか入学前の、自分と同い年であったとは――。
藤真がにこりと笑った。笑った顔は、コートにいたときの強気な印象が全くなく、むしろ年齢よりも幼くすら感じられる。
「――よろしくな」
簡単に挨拶をした藤真は、
「花形って、センター? ダンクできる?」
透き通った瞳を楽しそうに輝かせて、突然訊いてきた。
「あ……うん。できるといえば、できるけど……」
面食らって口ごもりながら、頭一つ分は下にある藤真の顔を、花形は窺った。
「ほんと? じゃあ、アリウープやってくれないかな」
藤真が期待に満ちた目で見上げる。
「なかなか息の合う人っていなくて。今度、一緒に練習してもらっていいか?」
「おいおい、藤真。そんなこと、俺には訊いてくれなかったじゃないかよ」
俺だってダンクくらいできるぞ、と島田が大仰に嘆いてみせて、ふと気が付いたように言った。
「なんだ、お前たち、握手もしてないじゃん」
「そう言えば……」花形が呟くと、藤真も「あ、そうか」と言う。
――そうして、藤真が差し出したのは、左手。
呆気に取られてばかりだった花形は、ここでまたしても戸惑った。
花形が首を傾げたのを見て、そこで初めて気が付いたらしい。藤真が慌てた様子で左手を引っ込め、右手を伸ばした。
「ごめん。俺、左利きだから、つい……」
心底申し訳なさそうに呟く表情があまりに素直で、花形はつられて微笑んでしまった。
「――いいよ、左で」
自分の左手を藤真に差し伸べて、笑いながら告げる。
「よろしくな」
「――こちらこそ」
――それが、二人の出会い。
(2000.08.11)