time can wait
~September~

額に浮かんだ汗を軽く拭って、花形は辺りを見回した。
9月に入って10日余り。さすがに朝夕は涼しい風が少し立つようになったが、日中はまだ夏の名残のような暑さが続いている。電車を降り、駅から5分と歩いていないのに、首筋を汗が伝っていく。
――確か、この辺でいいと思うんだけどな。
花形は手に持った地図に視線を落とした。学校を出る前に、チームメイトの長谷川一志が書いて渡してくれたものだ。
「ちょっと分かりにくいかもしれないが……。一方通行の道を入ってすぐに見える、洋風の家がそうだから」
言われた通りに道を辿ったものの、それらしい家を見つけるのは一苦労だった。寡黙な長谷川は、表現力の方もあまり豊かとは言えないかもしれない。今、花形から見て右手にあるこの家が、長谷川の言う「洋風」の家らしいと気付いたのは、たっぷり1分以上もその外観を眺めてからのことだった。
白い外壁に、大きく傾斜のあるモスグリーンの屋根。和風でないことは明らかだが、洋風という言葉から連想される華美なイメージはなく、どちらかと言えば、機能的に洗練された外観を持つ2階建ての家だった。決して大きくはないけれども、住人のセンスの良さが随所に感じられる造りをしていた。
シンプルな漆喰塗りの塀をぐるりと回り、花形は門の前に立った。表札に目をやり、間違いのないことを確かめて、軽く息を吐く。
金属製のプレートには、ローマ字で「藤真」と彫ってあった。
呼吸を整えてから、花形は玄関のチャイムを鳴らした。

「藤真は――まだ学校休んでるのか?」
花形のところへ教科書を借りに来た永野がそう尋ねたのは、今日の昼休みのことだった。
「……ああ」
クラスは違うが、同じバスケットボール部に所属する彼の気遣わしげな問いに、花形は軽く頷いて、教室の中を振り返った。
1年1組の生徒たちは、昼食をとうに食べ終えて好き好きに時間を過ごしている様子だった。そして、いつもなら多くの生徒に囲まれて賑やかなはずの机が、主の不在のせいでぽつんと取り残されている。
藤真の席だった。
「かれこれ、もう1週間になるよな」
花形の視線を追って、永野も教室を覗き込む。
「扁桃腺で熱を出したって話だったな、確か」
「長谷川はそう言っていたけど……」
教科書を永野に渡しながら、花形はため息を漏らした。 翔陽高校では、2学期の始業式の翌日から、2日間に渡って実力テストが行われる。夏休みの間に生徒たちが勉強を疎かにしないようにという、進学校らしい配慮に満ちた日程である。その厳しさに閉口しつつも、何とかテストの全科目を終え、解放感に浸りながら、花形がクラスメイトと言葉を交わしていたときだった。藤真が花形の席までやってきて言ったのだ。
「――悪いけど、今日、部活休むから、監督と先輩に伝えといてもらえるか?」
藤真が部活を休むなど初めてのことだった。問い返そうとして、花形は、彼の顔色があまりに悪いのに驚いた。どうしたんだ、と慌てて尋ねると、
「今朝からちょっと調子悪くて。本当は部活にも出たかったんだけど……」
ためらいを含んだ答えが返ってきた。
実力テストを休むわけにも行かず、無理を押して登校したのだが、部活までは体調が持ちそうにない――。
いつもの彼らしくない、少し掠れた声でそう説明したあと、心配だから送っていこうかという花形の申し出を断って、藤真は一人で下校したのだった。
そして、次の日からずっと学校を休んでいるのである。
学校やバスケット部への病欠の連絡は、幼馴染みということで、藤真の親から頼まれた長谷川が行っていた。そのため、藤真の容体については長谷川からの情報に頼るしかないのだが、残念ながら無口な彼の話だけでは、詳しいところはさっぱり分からない。
「――扁桃腺、こじらせたのかな」
永野が言った。
「40度近い熱が出るっていうじゃないか、あれは」
「まあ、な。ただ、長谷川の話では、熱はある程度下がったってことなんだ。だから、もう少しすれば学校には出てこられるらしいけど」
「それにしたって、部活に出られるようになるにはもっとかかるんだろう?」
思案顔の永野は、少し声を落として続けた。
「いずれにしろ、藤真がいないんじゃ、選抜予選の練習って言ったって……」
翔陽高校のバスケット部は、名門であると同時に大所帯でもある。当然、2、3年生にはガードの選手が多くいたが、誰の目から見ても、いちばん実力のあるポイントガードは藤真だった。
創部以来、初めての1年生スタメンである藤真は、その抜擢が正しいものであったことを、インターハイの本選で充分に証明して見せた。さすがにはっきりと口に出す者はいないが、花形ら1年生部員はもちろん、上級生――特に藤真と共にコートを走ったスタメンの選手たちは、藤真を欠いたチームがベストメンバーではないことをよく承知している。
それゆえ、選抜予選を控えているといっても、藤真がいない以上、練習の質が下がってしまうのは避けられないことだった。
「――実は、さ」
永野の不安を受けて、花形は言った。
「今日の朝練のときに、長谷川と俺、監督に呼ばれて、藤真のこと訊かれたんだ」
「監督に?」
「うん、休みが長くなってるから、やっぱりすごく心配されているようで……。で、1年生の誰かが1度見舞いに行ったらどうかって話になって」
本当なら長谷川が行けば良いのだが、あいにく今週は部の掃除当番に当たっていてなかなか時間が取れない。それならば、授業のプリントやノートも溜まっていることもあるので、同じクラスの花形が適任だろうということになったのだった。
「じゃあ今日、藤真の家に行くのか?」
「ああ。監督にも許可をもらってあるし……」
そういったわけで、花形は授業が終わったあと、改めて監督と主将とに了解を取り、藤真の家へ向かったのだった。

花形がチャイムをゆっくり2回押したところで、家の中から人の気配が伝わってきた。
鍵を外す音がして、すぐにドアは開いたが、
「――ふ、藤真?」
玄関に立っていたのは、驚いたことに藤真だった。
彼の母が出てくるだろうと思っていた花形は、藤真本人を目の前にして一瞬戸惑った。
「花形……?」 だが、そんな花形以上に藤真は呆然としているようだった。大きな目を見開いて、
「……どうしたんだ、こんな時間に。部活は?」
「あ、ええと、今日は監督から許可をもらって……」
思わず逐一を説明し始めた花形は、はっとして言葉を切った。
「そんなことより、藤真こそ、起きてて大丈夫なのか?」
「俺?」
藤真がきょとんと首を傾げる。そして軽く笑って言った。
「まあ、こんなところで立ち話も何だから、とにかく上がれよ」

「それじゃ、わざわざ見舞いに来てくれたんだ」
藤真の部屋に通されて、花形は勉強机の椅子を勧められた。向かい合わせに藤真がベッドの端に腰掛ける。
藤真はパジャマを着ていた。掛け布団もめくったままで、それを直してから座ったところを見ると、眠っていたにもかかわらず玄関のチャイムで起こされてしまった様子であるのは明らかだった。
「ごめん、かえって迷惑だったな」
花形は恐縮して頭を下げた。
「家の人がいるかと思ってたから……」
言い訳のように呟くと、藤真は、気にするなよと笑った。
「全然迷惑なんかじゃないって。本当は退屈してたところだから」
朗らかに手を振る彼は、思っていたよりもずっと元気そうである。花形はともかくほっとして尋ねた。
「それで、具合の方はどうなんだ?」
「うん、もう熱はだいたい下がってるんだよ」
「そうか。……確かに、だいぶ顔色は良くなったみたいだな」
「――たださ」
藤真がそう続けて、困ったように眉を寄せる。
「おふくろがうるさいんだよ。ちゃんと治るまでは学校も部活も休めって」
綺麗な髪をくしゃくしゃと無造作にかき混ぜて、藤真は息を吐いた。
「今の熱なら、授業くらいは全然平気なんだけど……」
「藤真のお母さんって、病気のときとかに大事を取る方なんだ?」
「って言うか」
藤真は口を尖らせ、
「俺のことだから、余計に神経質になってる感じがする……」
と呟いた。
「実は俺、1歳のとき、はしかで死にかけたんだよ。で、小さい頃は結構身体が弱くて、いろいろと病気したし」
意外な事実だった。その思いが伝わってしまったのだろうか、からかうように藤真が瞳を向けて、
「何? 今の頑丈さからは想像も付かないって?」
「え、いや、そうじゃないけど……」
花形が慌てて手を振ると、藤真はくすくすと笑って話を続けた。
「まあ、小学校に上がってからは割と丈夫になったんだ。ミニバス始めてからは特に。でも、扁桃腺だけは駄目で――疲れが溜まると、自分でも笑っちゃうくらい簡単に熱出すんだよ。夏の終わりに寝込むっていうのも、毎年のことなんだよ。だから、取り立てて驚くことでもないんだ」
でも、こんなにひどいのは久し振りだけど。藤真はそう付け加えた。
無理もない――花形はそう思った。
高校に入学してから数か月、藤真は本当によく頑張っていた。上下関係の厳しい規律の中、初の1年生スタメン、しかもポジションは、司令塔であるポイントガードである。練習だけでもきついだろうに、藤真は1年生に課せられた雑用も、皆と全く同じにこなしていた。
ずっと張り詰めていて、疲れが積み重なったのだ。体調を崩してしまうのも当たり前だろう。
「――そんな心配そうな顔するなよ」
藤真が言った。
「とにかく、もうすぐ学校にも部活にも行けると思うからさ」
「ああ……そうだな」
自分を納得させるように頷いて、花形は荷物の中から、ノートのコピーや授業中に配られたプリントなどを取り出した。
「これ、今までの授業の分。夏休み明けだからそんなに進んでないけど、もし分からないところがあったら言ってくれ」
ありがとうと言って受け取った藤真が、それらをぱらぱらとめくって、感心したように言った。
「前から思ってたけど、花形って几帳面だよな。すごく丁寧にノート取ってるし」
「そうか? 普通だと思うけど」
「そんなことないよ。だって、授業の流れとか、ちょっと見ただけでもよく分かるもん」
照れくさくなって、花形が首を振った。
「何か恥ずかしいよ、大したもんじゃないって」
それをきっかけに、授業の話から始まり、クラスや部の近況について藤真が尋ねてくるのに答えを返しながら、いつのまにか花形も夢中になってしゃべっていた。
しばらく話し込んでいると、
「あ、そうだ、何か食う?」
思い付いたように藤真が立ち上がった。 「冷たいものでも持ってくるよ。ちょっと待っててな」
「――え、いいよ!」
花形は、途端に我に返った。見舞いに来た者が、さんざんおしゃべりをした挙句、病人を働かせてもてなしてもらうなど、まさに本末転倒である。
それゆえ、かたくなに辞退したのだが、
「気にするなって。少しは動かないと、身体がなまるんだよ」
藤真はそう言い置くと、一人で台所のある階下へ行ってしまった。
手伝うタイミングを逸した花形は、所在なく部屋の中を見回した。そして、何とはなしに目をやった本棚の隅に、写真が飾ってあるのに気が付いた。
4番のユニフォームを着た藤真が、ドライブインでディフェンスを二人かわした瞬間の写真だった。
シャッターチャンスとはこういう場面をいうのだろう。動きといい、表情といい、最高の一瞬を捕らえている。 全中――全国中学校大会の写真であることが、すぐに見て取れた。
藤真は、出身は神奈川だが、父親の転勤に伴い中学の3年間を福岡で過ごしている。そして3年生のとき、福岡県代表として全中に出場したのだった。
全国経験のない花形にとって、全中出場というのは憧れであると同時に、頭では分かっても実感を伴わない言葉だった。だから、藤真が全中に行ったということも、彼のプレイを見ながら、やっぱりこれだけの実力があれば当然だろうと納得する材料の一つでしかなかった。
だが、八月の始めに行われたインターハイ本選で、そんな意識を覆す出来事に、花形は遇ったのだ。
インターハイの1回戦。翔陽高校は、藤真の巧みなパスワークで余裕の白星を上げ、部員たちはそのまま体育館に残ってその後の試合を見学していた。
途中で飲み物を買いに行こうと、花形が藤真と一緒に客席の通路を歩いていたときだった。藤真を呼び止める他校の選手があった。
彼らは、バスケットでは名門の、福岡小沼高校のユニフォームを着ていた。
あの全国常連の強豪校でベンチ入りしている選手――。
花形はただ驚くまま、彼らと藤真とを交互に見やった。再会を喜び合う言葉や、親しそうな態度から、彼らが中学のときの藤真のチームメイトらしいことが分かってくる。
「見てたぜ、さっきの試合」
「お前のパス、やっぱりすげえよ」
「藤真のアシストって、どんぴしゃりのところに来るんだよな。あのタイミング、ほんと懐かしいなあ」
藤真と彼らとのやり取りを聞きながら、花形は何となく落ち着かない気持ちになった。
どうしてそう感じるのか、最初のうちははっきりしなかったのだが、
「あーあ、やっぱりお前、あのまま福岡にいれば良かったのに」
残念そうに言った選手の一人が、ちらりとこちらに視線を向けたとき、花形はそのわけを悟った。
ベンチ入りもしていない花形に対して、彼らが抱く評価は非常に低いに違いない。そして、藤真以外は誰ひとりとしてユニフォームを着ていない翔陽の1年生部員に向けた、かすかな苛立ち。
全国レベルの藤真に相応しいチームメイトは、やはり全国レベルの自分たちなのだと、彼らの目ははっきりと言っていた。
「――オレンジジュースしかなかったんだけど、これでいいか?」
藤真が部屋に戻ってきた。家事など全くできないように見えるのに、盆の上には、意外なほど綺麗にお茶菓子の盛られた皿が乗っている。
「ごめんな、面倒掛けて……」
すぐに立って盆を受け取り、勉強机に乗せたが、気持ちはまだ写真の方へと向いていた。
花形の視線の先を追って、
「ああ、この写真?」
と藤真が言った。
「これ、全中のときの?」 花形が尋ねると、
「うん、そう。地元の新聞社の人がくれたんだ。よく撮れてるだろ?」
あっさりと答える。
「藤真はすごいな――やっぱり」
福岡小沼高校の選手たちのことを考えていたせいで、声がわずかに沈んでしまった。
勘の良い藤真には、それが分かってしまったのだろう。
「すごくなんか、ない」
軽く眉をひそめて花形を見返してくる。
「……藤真みたいにうまい奴が、そんなこと言うなよ」
呟いてしまってから、花形はすぐに後悔した。相手を傷付け、自分を貶める、卑怯で残酷な言葉だった。
「俺は、どんなふうに見える?」
藤真がうっすらと笑った。哀しそうに目を伏せる。
「俺だって不安だよ。県の予選で海南の牧にあれだけ水をあけられて……。インハイでは、俺のミスから速攻を出されたりもしたし」
言葉を切ったあと、藤真は気を取り直すように首を振った。
「ごめん。こんな愚痴、言うつもりじゃなかったのに。やっばり熱なんか出してたから、どうかしてるみたいだ」
「謝るのは俺だよ! ごめん、ほんとに……!」
椅子を倒す勢いで、花形は詫びた。
「嫌なこと言った。ほんと、ごめん!」
表情を和ませて、藤真が笑った。
「……これ、ぬるくなっちゃうから、早く飲めよ」
花形にジュースの入ったグラスの片方を渡し、自分ももう片方に口を付ける。
「花形は、あんまり自覚してないかもしれないけど、さ」
藤真がグラスを両手で包みながら言った。
「俺、花形のこと、すごくセンスあるなあっていつも思ってるから――」
だから、花形にうまいなんて言われると、何か居心地悪くて。
藤真が真顔でそう呟いた。
花形はその言葉にはっとして、インハイでの出来事を再び思い起こした。
福岡小沼高校の選手たちに向かって、藤真は花形をこう紹介したのだ。
――同じチームの花形っていうんだ。俺が翔陽でいちばんだと思ってるセンターだよ。
そして、にこりと笑んで付け加えたのだ。
――すぐにライバルになるだろうから、よく顔見ておけよ。
言われた選手もどうやらセンターだったらしい。歯牙にも掛けていなかった花形を、一目も二目も置いている藤真からこのように紹介されて、びっくりしたようにぽかんとしていた。
藤真はお世辞など絶対に言わないし、本気だということは声で分かる。
いったい俺は、何を焦って苛ついていたのだろう。
花形は恥ずかしくなった。インハイのとき、どうにも釈然としない思いをしたのは、自分が未熟なせいで自覚していなかったことを――藤真が全国レベルであるという当たり前のことを、他人から突き付けられたからだ。たったそれだけのことでうろたえるなんて、みっともないにもほどがある。
――自分が努力して、藤真のいる高みにまで追い付けばいい。それが答えだ。
藤真本人が花形をここまで評価してくれているというのに、つまらない卑屈さで時間を無駄になどできない。そんなことをしたら、たちまち軽蔑されてしまうだろう。
「藤真――、俺」
花形は身を乗り出した。
「俺、藤真のパスをもらって、勝ちたい」
海南を超えて――全国で優勝したい。
普段の穏やかさとはまるで違う、低く、強い言葉だった。自分の中に、これほど激しい感情があるとは知らなかった。
花形は驚きつつも、その溢れるような感情を表すことに誇りすら感じていた。こんなことは初めてだった。
「――いいな、それ」
藤真が目を瞠り、それからひどく嬉しそうに笑った。

再び1時間近く話し込んでいるうちに、藤真の母親が帰ってきた。留守に尋ねてきたことを花形が詫びると、藤真によく似た顔の――つまりは大変な美人である――母親は、これも藤真によく似た、溌剌たる口調で答えた。
「この子、強情だから大変でしょうけど。どうか仲良くしてやってね」
「――母さん、余計なこと言うなよ」
ぼそりと反抗する藤真の姿が微笑ましい。
コートの中では大人びて映るだけに、普段の無邪気な顔はまるで子供のように見える。これだから、藤真には敵わないのだ。
「明日は、反対されたって学校行くからな」
母親に聞こえないように、藤真が片目をつぶって囁く。
「でも……いいのか? お母さん、きっと怒るぞ」
「いつまでもじっとなんか、してられないよ」
口を尖らせてから、それに、と花形に目を向ける。
「それに――花形と一緒に、早くバスケしたくなった」
――約束だ。俺のパスで、絶対シュート決めてくれよ。
そう言って藤真は、さっきカチリとグラスを合わせたのだ。
「分かった。じゃ、待ってる」
花形は答えた。
またいつもの日々が始まる。――だが、胸には大きな夢を抱いて。

Fly high together ―― time can wait.

(2000.08.11)