冬の灯

「――降ってきそうだな」
クラスメイトの言葉に、花形は廊下の窓ガラス越しに外を見た。
重く垂れ込めた灰色の雲からは、今にも雪が舞い落ちてきそうだった。昨夜から関東地方は寒気に覆われ、冷え込みが一層厳しくなっている。天気予報によると今日の午後には本格的に雪が降り始めるということだった。
「結構積もるらしいぜ」
「マジ? あんまり降ってこないうちに帰りたいよなあ。なんてったって、俺たち受験生なんだし」
風邪でも引いたら大変、と続けた一人に、横から茶化すような声が掛かる。
「大丈夫だって。『馬鹿は風邪引かない』って言うだろうが」
「おいおい、この時期にそれは禁句だぜ」
級友たちのやり取りは、受験生だと自ら称する割には屈託がなかった。廊下を一緒に歩きながら、そののんびりとした雰囲気に花形が思わず笑ってしまうと、
「一人で余裕の笑み浮かべてんじゃねえよ。花形」
すかさず背中を軽く小突かれた。
センター試験も終わり、受験に向けていよいよラストスパートを掛ける1月の末。3年生たちの授業は補習形式の選択制に変わり、それぞれが自分の志望と実力とに合わせて授業を組むことになる。花形たちは今、視聴覚室での数学の選択授業を終えて自分のクラスに戻るところだった。
さすがに直前期ということで、以前より張り詰めた空気が3年生の間にはあった。しかし、普段と異なる緊張状態は、変則的な時間割と相まってどこか日常性を薄れさせる。
祭りの前のような、と言ったら少し言い過ぎだろうか。受験に対する不安や焦りの中にも意外な高揚感が存在していて、不思議な均衡を生み出していた。
来週から自宅学習となるため、3年生が登校するのは今日が最後だった。
そして、天気はもうすぐ雪になろうとしている。神奈川に住む人間にとって、雪もまた非日常の存在だった。口では雪が降るのを厭うようで、だが何かしら期待をはらんだ気持ちが自分たちの中にあるのを、きっとここにいる誰もが感じ取っているはずだった。
「花形、さっき藤真が来てたぜ」
教室に戻ってすぐ、同じクラスのバスケットボール部員が花形に声を掛けてきた。
「――藤真が?」
数学の教科書を机の上に置きながら、花形は呟いた。
「何か用事があるようだったか?」
クラスメイトが軽く頷いた。
「ああ、春合宿の計画書がどうとか言ってたけど……」
だが彼も、そう詳しい話を聞いたわけではないようだった。
「とりあえず、昼休みに部室に来てくれって」

4時間目のチャイムと共に花形は教室を出た。冷え切った渡り廊下を歩いてバスケット部の部室へと向かう。こうして部室に行くのは、考えてみれば何か月振りかのことだった。
藤真ともここしばらく会っていなかった。藤真は私大文系志望で、国立理系志望の花形とは2年のときからクラスが離れている。部活動を引退してからは特に、お互いに予備校や塾で忙しく、教室移動などの際に廊下ですれ違って声を掛けるくらいで、ほとんど顔を合わせる機会もなかった。
少し立て付けの悪いドアを開けると、室内には、2年生で現在のバスケット部主将である伊藤、同じく副主将の鈴木、そしてマネージャーの部員二人が集まっていた。
「すみません、花形さん。受験で忙しいときに……」
伊藤が恐縮したように、深く頭を下げた。
この顔触れが揃っているところを見ると、部の運営に関する用件であることは察しが付いた。詳しい説明は受けていないが、藤真に呼ばれたので来てみたのだと伊藤に告げて、花形は部室を見回した。
「ところで、藤真はどこに行った?」
「あ、さっき事務室に……」
マネージャーの一人が答える。
「事務室?」
いったい何をしに、という花形の疑問を、伊藤が引き取った。
「実は、来週までに春合宿の計画書を学校に提出しなければならないんです。一応、去年の資料を参考にしながら何とか大まかには作ってみたんですけれど」
どうしても分からない点がいくつか出てきて、作業が滞ってしまったのだという。
「あの、それで……こんなときに申し訳ないとは思ったんですが……」
藤真さんに相談したんです、と、本当にすまなそうに伊藤が呟いた。
「3年生が引退して、もうずいぶん経っているっていうのに。未だに俺たち、藤真さんと花形さんに頼ってしまって……」
花形は伊藤の肩を軽く叩いた。
「伊藤のせいじゃないよ。俺たちがもっとちゃんと引継ぎをしてやればよかったんだけど……」
引退する際、後輩たちが困らないように、できるだけ事務の整理はしたつもりだった。だが、翔陽のバスケット部は大所帯であり、事務量も当然膨大なものになる。その全部に目を通して適切な判断を下すのは、やはりそれなりに修練が必要なのだ。
「去年は藤真が監督をやってたから、前までとはかなり違った内容の合宿だっただろう? 伊藤たちが戸惑うのも無理ないよ」
花形は後輩たちの顔を見回して、彼らの気を引き立てるように笑って見せた。
ひたすら頭を下げる伊藤の後ろで、そのとき部室のドアが開いた。
「ああ、花形」
身体半分でドアを押すようにして、藤真が現れた。両手で書類を抱えているので、そうしないと入ってこられないらしい。マネージャーが慌ててドアを支えたのに礼を言って、藤真は花形に視線を向けた。
「呼び出したのに、説明もしないで悪かったな。ちょうどこれを借りに行ってたものだから……」
言いながら、手に持った何種類かの分厚い書類を掲げた。
「事務室から借りてきたのか?」
「そう。去年の体育会系の部全体の活動報告書と決算報告書」
花形は驚いて呟いた。
「そんなもの、よく貸してくれたな」
合宿の日程等を記した活動報告書はともかく、決算報告書は財務に関する資料だった。しかも、事務室の持っているそれは詳細な調査報告などが付いている重要なもので、簡単に貸し出してもらえるような代物ではない。
「別に、なくしたり汚したりするわけじゃないし。理由があって必要なんですって言ったら、快く貸してくれたよ」
さらりと言ったあと、花形にだけ分かるように、藤真は片目をつぶって見せた。
実際には、もっと面倒なやり取りがあったのだろう。だから藤真は、一生徒としての立場ではなく、元監督としての立場で、渋る教師たちを説き伏せて交渉を成立させたのに違いない。
伊藤たちのために、そのくらいは容易くやってのけるのだ――藤真は。
「――話はだいたい伊藤から聞いたけど」
花形は先を促した。これらの資料と、藤真と花形の記憶を合わせれば、もう分からないことなどなかった。
そうか、と軽く頷いて、藤真が伊藤たちを振り返った。そうして、監督をしていた頃と全く変わらない、落ち着いた笑みを浮かべる。
「じゃあ、始めようか。伊藤、まずお前たちの作った計画書を出してみてくれ」

昼休みが終わって5時間目に入り、生徒たちのざわめきに包まれていた校舎は、再び授業中の静けさを取り戻した。 何度も礼を述べつつ、始業のチャイムに急き立てられるように慌ただしくそれぞれの教室に帰る2年生たちを見送ってから、花形は藤真を手伝って事務室に書類を返しに行った。
3年生の補習授業は午前中で終わっているので、後輩たちのように急ぐ必要はない。一人で事務室に入っていった藤真をドアの前で待ちながら、花形はガラス窓からそっと中を覗いた。居合わせた教師が二言三言、藤真に声を掛けているようだったが、懸念していたような気まずさはなく、和やかな様子が窺えた。
もっともそれは、3年間常に学年上位の成績を修め、第1志望の難関私大にも合格確実と目されている藤真だからこそ可能だったのだともいえた。これで彼の成績が芳しくなかったなら、受験直前にもなってまだ部活の面倒など見ていることに対して、もっと辛辣な対応をされたかもしれない。
「ごめん、待たせたな」
事務室から出たきた藤真が、軽く左手を挙げた。廊下を歩き出して、
「どうする。すぐ帰る?」
少し首を傾げて見上げてくる藤真の癖は、花形に何かを尋ねるときのよく馴染んだ仕草だった。
「藤真は残っていくのか?」
会わなかった時間を忘れさせる、そうした仕草を懐かしく感じながら、花形は問い返した。午後の授業がない分、3年生は図書室で自習していく者が多かった。
「いや、今日はもう帰るよ。雪も降ってきそうだし」
窓の外の曇り空を見て藤真が言った。
「花形も、もう帰るか?」
ああ、と頷いて見せると、
「じゃあ、戻ろう」
目線で促され、花形は藤真と肩を並べた。
3年生の教室があるのは、南校舎の4階だった。渡り廊下の途中で、藤真が訊いてきた。
「いきなり時間取らせて悪かったな。平気だったか」
「構わないよ、俺は」
小さく笑いながら答える。
「でも、急な話だったんだ?」
「うん、今朝、授業が始まる前に伊藤がうちのクラスに来てさ。受験前だから迷惑だろうって、ずいぶん迷ったらしいんだけど」
「なんだ、変な遠慮なんかしなくていいのにな」
「まあな。でも、伊藤や鈴木にしたら、できれば自分たちだけで決着を付けたかったってのもあるんじゃないかな」
淡々と言って、藤真は中庭に視線を向けた。花形も倣うように窓の外を見やる。
小振りの樹木は葉をすっかり落とし、花壇に目ぼしい花はない。冬の間は池の噴水も止められていて、いかにも寒々しい停まいだった。
翔陽バスケット部は、藤真や顧問の教師の働き掛けによって、昨年の10月から大学コーチの経験を持つ専任の監督を迎えていた。お互いが慣れるまでの努力を考慮しても、伊藤たちの負担は、藤真が監替を兼任していた頃に比べてかなり軽減されている。そういう状況にあってなお、藤真に頼らなければ立ち行かない場面に遭遇することは、伊藤たちにしてみれば不本意なことだろう。
藤真はそんな後輩たちの気持ちをよく分かっているようだった。助言を与えるときにも、常に藤真は伊藤たちの判断を尊重した。主体はあくまで伊藤たちであることを意識させつつ、彼らの下した判断に修正を加えて現実性を持たせていくのは、簡単なようでいて実はとても深い配慮を要する作業だった。
だがそれを、藤真はさりげなく成功させていた。
もともと藤真の持っていた、人の上に立つ者としての資質が、監督という立場を経験することによって更に磨かれたことは確かだった。
その才能は感嘆に値するもので――。
「鞄とコートを取ってくるよ」
階段を上り切ったところで、藤真が言い置いて、彼の教室に戻っていく。
反対側にある自分のクラスに向かいながら、花形はもう一度中庭を見下ろした。
確かに、藤真は監督として申し分ない才能を有していた。しかし藤真にとって、それは幸運といえることだったのだろうか。
突然、視界に白いものがふわりと舞った。驚いて空に視線を遺ると、ひどくゆっくりとだが、ひとひら、またひとひらと、雪の結晶が降りてくる。
(降り出したな……)
花形は目を細めた。
久し振りに監督としての藤真を目の当たりにしたせいで、忘れようとしたはずの様々な想いが胸に押し寄せてくる。

あの試合のとき――。

何度となく繰り返した言葉を、花形は再び同じように反芻した。

9月下旬の選抜予選。
二人にとって高校生最後の大会は、ノーシードからの挑戦となった。
インターハイ予選でベスト4に進めず、シード落ちした名門校――そんなレッテルを貼られた翔陽には、過剰な憐憫や、貶めるような興味本位の視線が向けられた。そして、選手兼監督という特殊な立場にあり、実力も容姿も抜きん出た藤真は、否応無しにに人々の批判に晒されることになった。
そんな神経をすり減らすような環境にあって、しかし藤真は常に自分を保った。選抜予選という目標しか目に入っていないように、淡々と、着実に練習を重ねた。
そうして、夏の敗北を嘲笑した輩にさえ「やはりさすがはインターハイ常連校」と言わしめるほどの圧倒的な強さを緒戦から見せ付け、翔陽はトーナメントを勝ち上がった。その良い勢いを保ったまま、インターハイ予選で決勝リーグに進んだ湘北高校、陵南高校を辛くも下し、神奈川の王者、海南大附属高校との決勝戦に臨んだ。
翔陽と海南の対決は、神奈川の両雄と謳われた伝統がまだ生き続けていることを印象付けた。更に藤真にとっては、1年の頃からのライバルである海南の主将、牧との――夏に対戦を果たせなかった彼との、高校最後の対決となった。
試合は、前半から熱の入った攻防が繰り広げられた。この決勝ばかりは藤真もスタメンで出場し、予想通り、牧と藤真のマッチアップがゲームを動かす要となった。それでも、総合力という点で翔陽を上回る海南がリードを奪い、後半残り1分を切って、点差はこの試合最大の7点となった。
翔陽の選手もよく頑張ったが、もう限界が近かった。最後のタイムアウトでベンチに戻った選手たちの顔には、一様に濃い疲労の色が浮かんでいた。
7点差――花形はスコアボードを睨んだ。いつ緊張の糸が切れてもおかしくない、危険な点差だった。両膝が疲労でがくがくと震えている。まだ戦える、まだ大丈夫だ。そう気持ちを奮い立たせても、もう身体の方が悲鳴を上げていた。
「くそ……!」
膝の上を拳で叩き、唇を噛んだ、そのときだった。
「――俺が、シュートを打つ」
藤真の冷静な声が、翔陽のベンチに響いた。
疲れた顔を弾かれたように上げたチームメイトたちに、藤真はもう一度言った。
「俺がシュートを打つ。絶対に決める」
だから、ボールを集めて欲しい――そう言い切って、ゆっくりと皆を見回す顔は、自信に満ちていた。諦めなどどこにも見えない。
そして藤真は、花形に歩み寄り、低く言った。
「花形。牧にスクリーンを掛けてくれ」
勝算はある。藤真はそう繰り返した。
試合が再開された。花形は藤真の動きに集中した。牧がそう易々とスクリーンに掛かるとは思えなかった。一瞬の好機を見逃したら、きっとそこまでだ。
「――行け!」
腰を落として、花形は正面から牧に対峙した。そう長くは留められない。しかし、そのわずかな時間で藤真には充分だった。
流れるような素早いシュートだった。
「リバウンド!」
海南ベンチの絶叫が届く前に、藤真の放った3ポイントシュートは綺麗にネットを潜った。
沸き立つ応援席。跳び上がって口々に藤真の名を叫ぶ翔陽ベンチ。
それらを軽く制するように左手を挙げると、藤真はコート上のスタメンに鋭く声を掛けた。
「上から当たれ! 遅れるな!」
脅威のシュートを決めた藤真本人が最も冷静だった。ベンチにいる監督が出す指示のように的確で、落ち着きと集中力とを選手に与える力強い言葉だった。
スローインのボールは、海南の1年生レギュラーである清田がキープした。彼は決して油断したわけではなかったが、今の3ポイントの印象が強過ぎたために、藤真の反応の速さを予想することができなかった。藤真が鮮やかに清田のボールをスティールした。
そして直ちに放たれたミドルシュートは、
「――は、入った!」
バックボードを巧みに使ったバンクショットだった。カウントを告げる審判の腕が大きく振り下ろされる。
これで1ゴール差――場内は騒然となった。残り時間は32秒。
堪らずにタイムアウトを取った海南は、最後の攻撃に時間を掛けてきた。30秒を一杯に使ってシュートを成功させれば、翔陽の逆転の機会はないに等しい。シュートクロックが10秒を切る。牧のペネトレイトからのパスは、海南のセンターである高砂へ。
高砂のシュートブロックに跳んだ花形の指に、確かな手応えがあった。ルーズボールを取ったのは――藤真。
大歓声が翔陽側の応援席から起こる。しかしハーフラインを越えてすぐに、牧が清田とのダブルチームで藤真の足を止めた。
「牧がダブルチーム!?」
「まさか!」
観客の叫びが飛び交った。先程のタイムアウトで与えられた指示なのだろうが、神奈川の帝王とまで呼ばれた牧が、普段ならそんなことを承知するはずがない。ましてや相手は、最大のライバルといわれている藤真である。だが、ここに来て藤真に連続得点を許してしまったことで、牧も腹を括らざるを得なくなったのだった。
藤真がパスを出した。ボールを持った翔陽フォワードの高野に、再び海南のダブルチーム。激しいプレッシャーで、高野はシュートを打てない。残り4秒。
マークマンをかわすために、ゴール下で半回転した花形の目に、藤真が牧を振り切ってフリーになったのが見えた。 しかし、高野から藤真へのパスは読まれていた。清田がパスカットに飛び込む。藤真の手が届く寸前、ボールは牧に渡った。牧は渾身の力で、そのボールを翔陽側のゴール目掛けて放った。
歓喜の声と悲鳴。そこに試合終了のブザーが重なる。バックボードに跳ね返ったボールが、間が抜けたような大きい弧を描き、落ちた。

2点差の敗北だった。

正面玄関を出たところで、花形は傘を差した。寒さで息が白い。
半歩後ろの藤真も同じように傘を開いたが、それを下に降ろしたままでぼんやりと空を仰いでいる。
「――藤真」
咎めるように呼び掛けると、小さく頷いたものの、再び視線を空の方に移した。
「風邪引くぞ。ちゃんと傘差さないと」
花形は振り返って、傘を持つ手を上げさせた。
「無茶するなよ。こういう時期に……」
「まあ、な。受験生だからな」
軽く肩を竦めて、藤真が呟く。さして重要とも思っていなそうな口調だった。
必死に追い込みを掛けている他の受験生と比べたら、藤真の落ち着きようは例外的だろう。だが、彼がこれまで乗り越えてきた様々なことを思えば、受験などは、実際そう大きなことではないのかもしれなかった。
ゆっくりと落ちてくる雪を、それでもなお見つめて、
「ほんとは、こうやって降ってるのを見るのが好きなんだけどな……」
残念そうに傘の陰から腕を伸ばし、手のひらを空にかざした。

選抜予選の決勝――試合終了の瞬間の、藤真の表情を、花形ははっきりと覚えていた。
歓声と落胆のため息が交錯し、熱狂の冷めやらぬコートの上で、花形が真っ先に藤真を振り返ったのは、監督としての彼を無意識に必要としたせいかもしれなかった。
しかし、花形が見たのはそういう藤真ではなかった。
現実を現実として受け止める前の、感情の空白。藤真の見開いた瞳には、無垢な子供が傷付いたときのような、透き通った哀しさがあった。
その表情は、花形に大きな衝撃を与えるものだった。
共に過ごした時間の中で、藤真の見せた様々な表情を、花形は全て知っていたはずだった。
ポイントガードとしての鋭い視線。監督を兼ねてからの毅然とした態度。コートにいるときとはまるで別人のような、普段の無邪気な笑顔。
夏の予選では、彼が流した涙も知っている。
――なのに。
花形は、そのとき初めて藤真を「見た」ような気がした。
自分の感じたことがいかにも唐突に思えて、花形はもう一度藤真を見返した。だが、先程確かに藤真が見せた透明な表情は、敗北を受け止めて悔しさを隠さない、しかし全力を尽くし切った潔さを湛えた、誇り高いいつもの強い眼差しに覆い隠されてしまっていた。
整列し、試合終了の挨拶を済ませ、歩み寄ってきた牧と握手を交わす。海南の面々が勝利を喜び合う賑わしさを背に、翔陽のベンチに戻る。そんなときにはもう、藤真は普段以上に冷静で、監督としての落ち着いた態度をもって、皆を労いさえした。
その毅然とした振る舞いが完璧であればあるだけ、藤真のあの一瞬の表情が花形の脳裏に焼き付いた。
今まで自分は、藤真の何を見てきたのだろうか。夏の敗北から、藤真がどんな気持ちでいたのか、自分は本当に分かっていたのだろうか。
想像も及ばないほどの重圧の中で、それでも顔を上げて皆を導いていた藤真。彼が一人で背負ってきた責任は、誰よりも重かった。
藤真の優れた才能としなやかな強さをもってすれば、それを背負うことは決して不可能ではなかった。現に藤真は充分に役割を果たした。だが、だからといってその責任が誰の負うものよりもはるかに重かったことに変わりはないのだ。そのことを、他の部員と同様に、花形もいつの間にか忘れていたのではないか。
自分たちが信頼だと思っていたものが、信頼という名の甘えでなかったと、どうして言い切れるだろう。
それなのに、藤真を少しでも支えているつもりでいた自分が、吐き気がするほど疎ましかった。藤真をいちばん分かっているのは自分だと、いつしかそう思い上がっていたのだ。だから、こんなにもあの表情に打ちのめされる。
同じものを目指してずっと走っていたから、互いを見つめることなどなかった。目の前の何かをこなすのに精一杯で――それを後悔したことはなかったけれど。
花形は心の中で呟いた。
――藤真にとって、俺はいったい「何」であり得たのだろう。

見慣れた景色が次第に白く覆われて、今まで気付かなかった街の輸郭を描き出していた。アスファルトの上に落ちた雪も、だんだんと溶けずに積み重なっていく。
「センター試験の自己採点、もう判定出たんだ?」
みぞれ状の水たまりをぱしゃりと踏んで、藤真が言った。
1月の中旬に行われた大学入試センター試験は、国立大学を受験する者にとっては第1の関門だった。倍率の高い大学になると、センター試験の点数によって2次試験を受ける人員を制限する、2段階選抜と呼ばれる制度が採用される。各自の自己採点を元にして大手予備校が下す合否予想判定は、受験生が2次試験の願書をどの大学に出すかという判断に少なからず影響を及ぼすのだった。
「どうだった? 今年は数学の平均点が低かったらしいけど」
「そうだな……」
花形は眼鏡に付いた雪を払った。
「運が良ければ、何とか2次試験は受けられると思うけど」
「なに、気弱なこと言ってるんだよ」
藤真が小さく笑った。進学校の翔陽でトップレベルの成績を維持する花形が、センター試験でも順当に高得点を取っていることを、彼は既に耳にしていたようだった。
「まだ締め切りまで何日かあるのに、もう願書出しちゃったんだろう? 未だに迷ってる奴らも多いっていうのにさ」
傘の柄を少し回して、藤真は続けた。
「――それにしても、物好きだよな、お前。2月の仙台なんて、とんでもなく寒いぞ」
花形が願書を出したのは、仙台にある国立のT大だった。
「まあ、寒いのは覚悟してるよ。何しろ去年なんか、試験日に大雪が降ってたって話だし」
「……で、試験会場で滑って転んだりするわけか?」
「そう、受験生なのにな」
苦笑交じりに答えて、雪の上で滑る真似をすると、藤真が顔をしかめながら花形のコートを軽く引っ張った。
「縁起でもない。道でならいくら滑ってもいいけど、頼むから大学には滑るなよ」
「道で滑っても怪我するだろう? どっちも悲惨だと思うけど」
「お前みたいにでっかいのが転んだら、道の方が気の毒だって」
そんな無茶な話があるか、と、花形は自分の傘を藤真の傘にぶつけた。傘に積もった雪がぱさぱさと二人の間に落ちる。
「あ、こら、何するんだよ」
間を置かずに藤真が反撃をした。傘を使った応酬がしばらく続いたが、向かいから歩いてきた小学生の集団に実に怪訝そうに見つめられ、さすがに二人は分別を取り戻した。
小学生たちをやり過ごし、決まり悪さを紛らわすために咳払いをした花形を、藤真がくすくすと笑った。
真っ直ぐに差し直した傘に、軽い音を立てて再び雪が降りてくる。
「――何で、T大なんだ?」
しばらく会話が途切れたあとで、藤真が静かに言った。白く霞む息。前を向いたままの、少し硬い頬の線。
「……どうしたんだ、急にそんなこと」
「別に、どうってわけじゃないけど」
言葉を探すように、藤真は俯いた。
「まだ、きちんと理由を訊いたことがなかったから……」

花形の進路について、藤真が理由を尋ねてきたのはこれが初めてだった。
部活を引退して間もなく、花形が自分の志望大学を告げたとき、藤真は大きく目を瞠ったものの、そうか、と呟いたきり何も訊いては来なかったのだ。
花形はゆっくりと息を吸った。冷えた空気が身体の内を満たす。
最後の試合で、藤真のあの表情を見なかったら、たぶん自分はこういう結論を出しはしなかった。
動揺を見せぬよう、もう一度大きく呼吸をしてから、答えた。
「遺伝子の分野で、やってみたい研究があるんだ」
何度も心の中で繰り返した言葉だった。いつか藤真に伝えるときのために――そして、それ以外に理由などないと、自分自身さえもが信じ切るために。
「その研究の第一人者が、T大の教授なんだ。だから、その先生のゼミに入って勉強してみたいっていうのが、受験の理由かな」
藤真が淡い色の――本当に縞麗な、琥珀に近い色で、真正面から見つめられると吸い込まれそうなほどに透明だった――瞳を向けて、じっと花形を見た。それが何か他の答えを探しているように感じられたのは、花形の思い過ごしだったかもしれないが。
取り組みたい研究があるのは本当だった。そして、その環境がいちばん整っているのがその大学であるのも事実だった。
だが、それだけなら、どうしてもそこでなければならないという理由はなかった。都内の私立大学でも同じ研究をしている教授がいたし、花形の家の経済状況なら、学費の高い私大の理系に進学するのも充分可能だった。
しかし花形は、敢えてT大を選んだ。
藤真が都内の大学を受けると知っていたからだった。

つまりは、仙台に行くことを――藤真から離れることを、花形は選んだのだ。

あの試合のときから、ずっと考えていたことだった。
泣いてもいい。喚いてもいい。そうして感情を吐き出してしまえば、重い心を抱えて苦しむこともないのだから。
なのに藤真は、それをしなかった。最後の最後で、様々な思いを相手にぶつける術すら見出せない無垢な子供のように、ただ立ち尽くしていたのだ。
どこまでも澄んだ藤真の表情が、儚くて哀しかった。
あんな顔をさせるくらいなら、自分の身体を切り刻まれた方がはるかにましだと、花形は強く思った。
どんなにそばにいても、互いに異なる人間である以上、藤真の苦しみを肩代わりすることなど無理なのだ。理性の部分では分かり過ぎるくらい分かっていることだった。しかし感情は、いつまでも虚しい願いを追い続けた。
そして、自分が藤真の救いになり得ないことを知っていながら、それでもなおそばに居続けることはできなかった。

――そうするには、花形はあまりにも藤真を好きでい過ぎた。

「やってみたい研究、か。それなら、遠いとか近いとかって関係ないよな……」
藤真が呟いた。花形に答えるというよりは、無理に自分に言い聞かせているような、小さな声だった。
少し風が出てきて雪が舞った。藤真は無意識のように冷えた手を口元に寄せ、息を吹き掛けている。寒さに弱いくせに、手袋をするのが藤真は嫌いだった。
――だってさ、駅で定期出すときとか、いちいち手袋を外すの面倒くさいだろう?
彼が以前言っていた言葉を思い出す。
「手袋、持ってただろう? せめて駅までは着けていけよ」
寒さで薄赤くなっている指先を見兼ねて、花形が注意をすると、
「面倒だから、嫌なんだよな……」
普段なら煩わしそうに口を尖らす彼が、ため息を付きつつも素直に手袋を取り出した。
傘を持とうかと尋ねた言葉に、藤真は軽く首を振って、傘の柄を器用に肩に乗せながら手袋を着け始めた。
その仕草を見つめながら、花形は深く息を吐いた。
風邪を引くなとか、手袋をしろとか。
そういった些細な心配をすることすらも、もうなくなるのだ。
花形はかすかに頭を振った。雪のせいで少し感傷的になっているのかもしれなかった。既に決心したつもりでいたのに、藤真を前にした今、こんなにも気持ちの揺れる自分が、ひどく滑稽にも感じられた。
車の騒音や人々のざわめきが、普段よりも遠くに聞こえる。雪がそれらの音を柔らかく吸い込んでしまっているのか、街はしんとした空気に包まれていた。
こうして傘を並べて歩くことも、最後かもしれない。
何の迷いもなく一緒にいられた時間が、当たり前だったその存在が、もうすぐ手の届かないものになってしまう。
もっとその時間をいとおしむように大事にすれば良かった、と――。
もう終わりの今になって、そんなことを思う。

花形の家に近い交差点で、二人は足を止めた。ここから藤真は、更に駅まで歩いて電車に乗ることになる。降り始めた雪は、学校から花形の家までの間にも、少しずつ強くなってきていた。藤真が家に着く頃には本格的な降りになるかもしれない。振り返って、花形は尋ねた。
「大丈夫か? 今日はおふくろが家にいるはずだから、もし大変なら車で送っていってやれると思うけど」
少し考えるように空を見上げたあと、藤真が首を振った。
「大したことないって。駅までそんなに歩かないし。この程度の雪なら、電車も止まったりなんかしないよ」
「でも――」
「大丈夫だよ」
明るく言って、安心させるように笑う。それから藤真は、真っ直ぐに花形の目を見返した。
「じゃあ、またな」
――またな。部活の帰り、この場所で別れるときに、いつも藤真が口にした言葉だった。
また明日――そんな他愛のない約束。そばにいることが当然だったからこそ、あんなにも無造作に次の約束が結べた。だが、今は。
「――試験頑張れよ、花形」
「ああ。……藤真もな」
「仙台に行く前に風邪なんか引くなよ。お前、結構抜けてるから」
藤真だって人のこと言えないだろう――そう返すと、彼は舌を出してちょっと笑った。
音もなく舞い落ちる雪。
3年間、いつも近くにいた藤真を、花形は改めて見つめた。
小気味よい動きに合わせてさらさらと流れる、きちんと切り揃えられた栗色の髪。整った顔立ちと白い頬は、ともすれば冷たい印象を与えかねないが、強い輝きを放つ大きな瞳がそんな危惧をあっさりと覆して、人を魅了せずにはやまない意志的な美しさを生み出していた。
「――藤真」
花形は思わず、その名を口にしていた。自分の気持ちを告げることなどできないのに、それでも呼ばずにはいられなかった。
藤真が身体をわずかに震わせた。
花形の声は思い詰めた響きを隠し切れていなかった。苦しそうに俯いた藤真の目が複雑な色合いで揺れる。
それを見て、花形はふいに悟った。

藤真はきっと、どうして花形が離れていこうとしているのか、その理由に気付いている。

しかし、藤真がそれを口にすることは決してないだろうことも、同時に感じ取れた。
藤真の沈黙の意味――どんな思慮がそこにあるのかは、花形には判断の付かないことだったけれども。
――誰よりも、お前のことが好きだった。
告げるべき言葉は、胸の中で反響するだけで、声に出すことは叶わなかった。
いつまでもお前のそばにいたかった。ずっと、どんな小さな仕草さえも見つめていたかった。
自分という存在が、藤真にとって必要なものなのだと――そんな甘美な幻想を、ずっと抱き続けていられたら良かった。
信号が変わった。藤真が何かを振り切るように顔を上げる。
「じゃあ、な」
透明な瞳を向けたあと、藤真が踵を返した。
雪に霞むその背を、花形はただ息を詰めて見ていた。藤真の肩が、庇ってやりたいほど心細く感じられた。
でもそれも、きっと自分の感傷に過ぎないのだろう。
苦い笑みが身体の奥から緩やかに上ってきたが、冷え切った頬が強張って、うまく笑うことができなかった。

行き場のない想いを封じるように、雪はただ静かに降り積もる。

(2000.04.01)