夏合宿の最終日の夜だった。
連日の走り込みのせいか、部員たちは皆、大いびきをかいて眠りこけている。
花形も疲れていたはずなのだが、なぜか今夜に限って夜中に目が覚めてしまったのだった。
――おかしいな、こんなことめったにないのに。
高校の敷地内にあるこの合宿所は空調が完備されているので、暑さで寝苦しくて、という理由ではない。本当にわけもなくぽっかりと目が覚めたのだ。
仕方ない、とりあえず水でも飲んでこようか。そう思って起き上がった花形は、川の字に並んで眠っている3年生のチームメイトの中に、藤真の姿がないことに気付いた。隣にいる高野の両足を跨いで、藤真の布団を触ると、全く温もりが残っていない。だいぶ前に藤真は布団を出たようだった。
「どこに行ったんだ、こんな夜中に……」
花形は部屋を出て廊下を歩き始めた。合宿所の中はしんと静まりかえっている。乳白色の常備灯が、ぼんやりとリノリウムの床を照らしていた。
食堂や洗面所を覗いたが、藤真の姿はなかった。しばらく歩き回ったあと、体育館への渡り廊下に続く引き戸がわずかに開いているのを見付けて、花形は訝しさに眉をひそめた。
――まさか。
歩を速めて体育館に向かった。扉に手を掛けようとしたとき、ドリブルの音が響いた。
そっと扉を開けると、窓から差し込んでくる月影と街灯の明かりを頼りに、藤真がシュートを打っていた。
淡々と、しかし完璧なフォームでハイポストからゴールを狙っている。ただシュートの練習をしているというだけではない、そこに漂う緊迫感に圧倒されて、花形は声を掛けるのをためらった。
「――花形?」
人の気配を敏感に感じたのか、藤真がはっとしたように振り返った。
「どうしたんだ、こんな時間に……」
「どうしたんだ、って――それはこっちの台詞だよ」
花形は声を強めた。
「こんな時間に体育館に来て……。ちゃんと休まないと、明日からの練習がきついぞ」
監督と選手を兼ねる藤真の負担は、他の部員のそれをはるかに上回る。休めるときにきちんと休んでおかないと、厳しい練習をこなせない。
心配のあまりきつい口調になってしまった花形に、藤真は苦笑を返した。
「――眠れないんだよ」
俯いて、ボールをその場で弾ませる。
「いろいろ考えてたら、何か眠れなくてさ。ボールを触れば少しは落ち着くかもしれないと思って」
月光を受けた藤真の横顔に、普段は決して表さない不安の影がよぎる。
6月のインターハイ予選――最後の夏を賭けた大会だったのに、決勝リーグに進むことは叶わなかった。思いもかけぬ敗戦に、部員全員が目標を失って呆然と立ち竦んだ。
しかし、
――冬の選抜がある。もう一度全国を目指そう。
それを望みとして、翔陽バスケット部は再び息を吹き返したのだ。
9月の予選に焦点を合わせ、厳しい練習を積んできた。先頭に立って部員を引っ張る藤真は、堂々として何の迷いもないように見えた。
決して虚勢ではなかった。勝利を手に入れるには、誰よりもまず、主将であり監督である藤真が、翔陽の勝利を信じなければならない。
だが――。藤真の胸中を思って、花形は唇を噛んだ。
藤真は翔陽の勝利を信じている。しかし一方で、翔陽の弱点や欠点を最も把握していなければならないのも、また藤真なのだ。
監督という立場の宿命だった。
大人でさえ耐え難い重責を、まだ高校生の藤真が担うのである。
「ごめん、藤真――」
花形は堪らずに言った。何の力にもなれない自分がひどく不甲斐なく思えた。
「ばかだな、何で花形が謝るんだよ」
藤真がくすりと笑った。
「俺は好きで監督やってるんだからさ。花形がすまなく思うことなんかないって」
「藤真!」
声を高めた花形を宥めるように、藤真が静かに首を振った。
「そりゃ、確かに最初は、何でこんなことやってるんだろうって思った。インハイの予選で負けたときにも、やっぱり俺たちの選んだ道は間違ってたのかなとか、思ったりもした」
藤真はそう言ってから、真っ直ぐに顔を上げた。
「でも――今は違う。監督として、選手として、もっとできることがあるはずだから、立ち止まったりしない。それがつらくないと言ったら嘘になるけど……」
2、3度ボールを弾ませて、藤真はシュートを放った。綺麗にゴールを通り抜けたボールを拾って、花形を振り向く。
「花形。パス出すからアリウープやってみてくれ」
「え、ちょっと待っ……!」
花形が止める間もなく、大きくパスが出された。反射的に走って追い付き、ぎりぎりで何とかアリウープを決めると、藤真が嬉しそうに左手を差し出した。
「ナイス!」
しぶしぶ花形は、その手の上にぱんと自分の手を重ねた。
「夜中にいきなり走らせるなよ……。目が回った」
「それなら、やりたくないって言って、無視すりゃいいのに」
藤真が澄んだ瞳を向ける。
「花形は、ほんと付き合いがいいよな。こういうの、ばか正直とか、くそ真面目とかいうんじゃないか?」
「悪かったな。ばかとくそで」
むっつりと言い返すと、藤真はひとしきり笑ったあと、囁くような声で告げた。
「お前さ、そんなんだから、俺のわがままに付き合う羽目になっちゃったんだよ」
訝しさに首を傾げた花形を、藤真が真剣な面持ちで見上げてくる。
「学生の監督なんか冗談じゃない――とかさ。そうすれば、お前だって、こんな苦労しなくて済んだかもしれないのに……」
「――何言ってるんだよ!」
即座に花形は、ほとんど叫ぶような声で答えていた。
「藤真だから――藤真が監督をやってくれたから、俺たちはここまで来られたんだ。じゃなきゃ翔陽のバスケットはとっくに終わってた。藤真だったからこそ俺たちは付いてきたんだ。他の誰でも駄目だった、だから――」
拳を強く握り締め、伝えなければという衝動に駆られて、花形はそう言い募った。
藤真は一瞬大きく目を瞠ったが、やがてふっと力を抜き、かすかな笑みを浮かべた。安心のあまり泣き出しそうになった子供のような――そんな表情だった。
「……さっき、一人でシュート打ってたときさ」
藤真が呟く。
「何だか、心細くて堪らなかった。考えれば考えるほど、不安になって。誰か来てくれないかな、とか――こんな夜中なんだから絶対無理なのにずっと思ってた……」
そんなとき、振り向いたら花形がいて、ほんとにびっくりした――。
藤真はそう言って問い掛けるように視線を向けた。
「偶然かな?」
花形は曖昧に笑みを浮かべた。
「さあ……どうだろう」
呼ばれたかの如く目が覚めたことは、自分の胸の中にだけしまっておけばよいことのように思われた。
「そろそろ戻ろうか。他のみんなを起こすといけない」
傾き始めた月を見ながら、花形は藤真を促す。
――明日からはまた、厳しい練習が待っている。
(1999.08.14)