――何だか、かえって落ち着かない気がする。
日当たりの良い2階の居間のソファーに座って、花形は小さく笑った。
昼下がりの住宅街は、干した布団を叩く音が時々かすかに反響するだけで、街全体がのんびりとまどろんでいるように見える。平日のこんな時間に家で留守番をしているという生活には、あまり現実味が湧いてこない。
高校の卒業式から2週間が経っていた。
先日、第1志望の大学に合格し、晴れて進路も決まったところである。自宅から通える学校を選んだ花形は、下宿を探したり、引っ越しの準備をしたりという慌ただしさとも無縁だった。
受験の終わった安堵と、大学生活への期待とに彩られた長い春休み。それは、普段にはない不思議な浮遊感を伴っている。
ぼんやりと本を読んでいた花形は、ふと顔を上げて壁掛け時計を見た。
時刻を確認し、そろそろかと思ったとき、予想に違わず玄関のチャイムが鳴った。
立ち上がって廊下に出た。突き当たりの大きな窓から玄関のポーチを見下ろすと、そこには、約束の時間に正確な訪問者が立っていた。
「――藤真!」
頭上から降ってきた声に、ちょっと驚いたように藤真が二階の窓を見上げた。栗色を帯びた髪が、春の日差しを浴びて綺麗な光の輪を作っている。
「鍵開いているから、そのまま上がってくれ」
「――ああ、分かった」
藤真が軽く目を瞠り、それから笑って答えた。
「――お前、2階にいるなら、鍵は掛けておけよ」
吹き抜けになっている階段を降りてきた花形に、藤真が言った。勝手知ったる、という慣れた動作で玄関に上がりながら、それでも律儀に「お邪魔します」と頭を下げる。
花形の家は、翔陽高校から歩いて10分という近い距離にある。それをいいことに、藤真を始めとして、バスケット部の部員たちは、何かというとよく上がり込んでいたものだ。
父親が大きな病院の院長をしているだけあって、その家は、豪邸と呼ぶに相応しい、広く立派なものだった。花形の自室は2階にあるのだが、皆がたまり場にしていたのは、その隣、さっきまで花形が本を読んでいた10畳ほどの居問である。来客用に作られた1階の広い居間よりも家庭的で落ち着いた雰囲気を漂わせているせいか、花形がいちばん気に入っている部屋でもあった。
「どうせ、いつもの居問にいたんだろう?」
藤真がからかうような笑みを見せる。
いつだったか、自分の部屋よりも2階の居間の方が好きだ、と花形が何気無く言ったのを、藤真は忘れていないらしい。
「そうだけど。でも、玄関のドアが開けば気配とか音で分かるから、鍵を掛けなくても別に……」
のんびりと答える花形に、藤真が呆れたといった表情で目を向けた。
「知らないぞ、泥棒に入られたって……」
そう言い掛けて、今思い付いたように、ああ、と付け加える。
「そうか。こーんなウドの大木がいたら、泥棒だってぎょっとして逃げるよな。何だ、心配する必要なんか、全然なかったなあ」
茶目っ気たっぷりの毒舌は相変わらずで、花形は思わず苦笑した。
クラスが違う上に、受験で忙しくなってしまったこともあって、部活を引退してからはゆっくり会う機会もなかった。部活をしていたときはそれこそ朝から晩まで一緒だったことを思えば、たまに短い電話をするだけのこの数か月は、ずいぶんと長く感じられる空白期間だった。
一応、3月の初めにあった卒業式でも、二人は顔を合わせてはいた。ただ、お互い第1志望の大学の合格発表がまだだったし、クラスの友達との付き合いなどもあったりして、結局大した話はできなかったのだ。
――大学決まったら、連絡するからな。
短い約束を交わし、その場は別れたのだが。
その言葉の通り、まず藤真から合格を告げる電話があったのが、卒業式の次の日。更に1週間後、大学の構内に貼り出された合格者の掲示を見ながら、花形も藤真に連絡を入れたのだった。
「まあ、ともかく」
藤真が真面目な顔になって、すっと左手を挙げた。それに気が付いて、花形も自分の左手を軽く挙げる。
「合格、おめでとう!」
二人の手のひらが、ぱん、という小気味よい音を立てて合わされる。試合のとき、良いプレイをした相手を称えるための、お決まりの仕草だった。
「――しかし、国立の医学部に受かるとはなあ……」
階段を上りながら、藤真が素直な驚きを込めた口調で言った。9月末の選抜予選が終わるまで部活に残っていたので、受験勉強に専念したのは10月に入ってからである。県下有数の進学校である翔陽高校では、ほとんどの部の3年生は、どんなに遅くとも夏休み前には引退している。それに比べれば、遅過ぎるスタートだったと言えた。
「まあ、花形って、隠れてちゃっかり勉強していそうだったもんな」
「――何だよ、藤真だって人のこと言えないだろう?」
他人事のように涼しい顔をしている藤真に、花形もすかさず言い返す。
「W大の政治経済学部だって? よくもまあ……。お前こそいったいいつ勉強してたんだよ」
「私大は3教科だけだからな。勉強っていっても高が知れてる。俺に言わせりゃ、理系のくせにセンター試験で日本史受けてたお前の方が、よっぽど謎だよ」
久し振りに会ったのに、会話のテンポは以前と少しも変わらない。一言しゃべれば即座に十言は返してくる藤真の頭の回転の速さに、出会った最初の頃はただ舌を巻くばかりだったのを、ふと花形は思い出した。そして、3年を経た今、勝てはしないまでも対等に言い合いをできる程度にはなった自分に、少し感慨めいたものも感じるのだった。
居間のドアを開けて、二人は部屋の中へ入った。応接セットのテーブルのそばに、少し大きめの紙袋が置いてある。
「藤真、これ」
花形が紙袋を持ち上げて藤真に差し出した。
「中、確かめて。お前のか?」
大学の合格発表のあと、身の回りの物を整理していたとき、花形は下駄箱の隅に自分の物ではないバッシュを見付けた。部員たちが荷物を預けていくのは珍しくもないことだったが、引退後は、それぞれが自分の物を全部持ち帰ったはずである。
誰か忘れたままだったのだろうか。そう思いつつ、名前を確かめ、花形は少なからず驚いた。いちばん忘れ物などしそうにない藤真の名が書いてあったからだ。
半信半疑だったものの、とりあえず花形は、藤真に連絡を入れた。当の藤真も、意外そうに電話口でしばらく考え込んでいたが、やがて思い当たることがあったらしく、「……それ、俺のだ」と呟いた。
今日、藤真が訪ねてきたのは、そんな経緯があったからだった。
がさごそと音をさせながら、藤真がバッシュを取り出す。まだそれほど履き古していないものだ。
「ああ、やっぱり俺のだ。悪かったな、花形。置きっ放しになってて……」
「いや。うちは全然構わないよ。でも、何で今まで忘れてたんだろうな」
花形が考え込む。バッシュなんて、そう何足も持っているものではない。1足見当たらないとなれば、すぐに気が付いてもよさそうなものだ。
「だいたい、いつ置いていったんだっけ? 俺、それも全然覚えがないんだけど……」
「――2年のときの、インハイ前だよ」
前髪をさらさらとかき上げながら、藤真が目を伏せた。
「お前から電話もらって、やっと思い出したんだ。――ほら、あの頃、ベンチのみんなでバッシュを揃えようって話があっただろう?」
記憶を辿りながら、花形が視線を彷徨わせる。少し置いて、「ああ、そう言えば……」と声を上げた。それを聞いて、藤真が続ける。
「そのとき、俺、このバッシュ履いてたんだけど。そういうことなら、新しく揃えるやつを体育館用にして、こっちを外履きにしようと思ってさ。で、家に持って帰ろうと思ってて、でもなかなか荷物の少ない日がないから、持って帰れなくて」
「それで、いったんここに置いていって……。そうか」
花形がため息と共に呟く。
「インハイ終わったら、取りに来るって――そういうつもりだったんだな……」
「……うん」
なぜこのバッシュがそのままになっていたのか、もう説明する必要はなかった。
2年のインターハイ。
この年の翔陽は、ポイントガードの藤真を中心に、よくまとまったチームだった。藤真自身の得点力もさることながら、その優れたパスセンスが、高い運動能力を持つフォワード陣を充分に生かし切っていた。
神奈川県の予選では、海南大附属に僅差で敗れて優勝こそ逃したものの、翔陽の実力の高さは万人の認めるところであったし、創部以来の悲願である全国大会ベスト8進出も確実との呼び声が高かった。
だが、インハイの3回戦――対豊玉高校の試合での藤真の負傷退場により、その夢は潰えた。そして、藤真の怪我が完治しないうちに起こった、次期監督を巡る騒動と、目前に迫った選抜予選。
毎日を乗り切ることで精一杯だった。想像を絶する重圧に、何度押し潰されそうになったか知れない。
「自分では冷静なつもりだったけど、やっぱり余裕がなかったんだろうな。バッシュのこと、綺麗さっぱり頭から吹っ飛んでたところを見ると……」
藤真が自嘲的に小さな笑みを浮かべた。自分たちのバスケットをするために、覚悟の上で監督を引き受けたはずだった。なのに、実際のところは、体力的にも精神的にも常に限界寸前だったのだ。そんな自分自身を、藤真は不甲斐なく思っているに違いなかった。
「――それは、俺だって同じだよ」
藤真の気持ちを救うように、花形が静かな答えを返す。
「俺も、忘れてた。――余裕がなかったのは藤真だけじゃない」
藤真が自分を責める必要など全くないのだと、穏やかな口調の中に強い意志を覗かせて、花形は言った。
藤真でなければ、いったい誰があの重責を負うことができただろう。責められるべきなのは、藤真の負担が分かっていながら、それを助ける力のなかった自分たちだ――花形は言外にそういう思いを滲ませる。
二人の間に沈黙が降りた。
しばらくして、バッシュの靴紐を触っていた藤真が顔を上げる。
「――なあ、これから、学校行ってみないか?」
「学校……?」
唐突な申し出に、花形が首を傾げた。藤真が説明を付け加える。
「俺、受験のとき使った参考書とか、伊藤に譲る約束してるんだ」
そう言って、本がたくさん入っていると一目で分かる、自分の大きなバックをぽんぽんと叩く。藤真のあとを継いで翔陽の主将になった2年の伊藤は、藤真と同じ大学を志望しているらしかった。
「今日、持っていってやるつもりだったんだ。だから――どうせ学校行くんなら、ついでに少し身体動かさないか? せっかく、1年半ぶりに見付かったバッシュもあることだし、さ」
冗談交じりのような表情で、藤真がバッシュを指し示した。
二人が翔陽高校に着いたとき、既にその日の授業は終わっていた。時々、帰宅する生徒たちとすれ違う。グレイのブレザーに、緑のネクタイを締めた制服。藤真と花形は、私服姿の自分たちが回りに馴染んでいないのを感じて、苦笑を浮かべた。
「何か、私服で学校の中をうろつくのって、変な気分だよな」
ああ、と花形は答えて、目を細めながら校内を見渡す。
「ついこの間まで、俺たちも同じ制服を着て、ああやって歩いていたんだけどな……」
目の前の校舎も、体育館に向かうこの道も、3年間慣れ親しんだ風景である。
それでも、卒業した今となってはどこか違う雰囲気が感じられて、懐かしいような、切ないような、そんな不思議な気持ちに捕らわれるのだった。
グラウンドの脇を抜けると、すぐに体育館が見えた。初春とはいえ、締め切ったままでは暑いのだろう、体育館の窓や扉は開け放たれていて、バスケットボールの弾む重い音とバッシュの軋む音とが聞こえてきた。
まず藤真が、体育館の中を覗いた。それに続いて花形も扉の前に立つ。
2面のバスケットコート上に、部員たちが散らばっている。ちょうどフットワークが終わり、ボールを使った練習に入るところだった。
扉の近くにいた1年生が、人影に気付いて振り返り、あんぐりと口を開けた。そして、尊敬してやまない先輩二人の姿にすっかり動転してしまったのか、うわずった声で叫んだ。
「――ふ、藤真さん! 花形さん!」
その呼び掛けで、一斉に扉のところへと視線が集中する。一瞬の静けさのあと、体育館は歓喜に沸き立った。部員たちが二人の名を口々に叫びながら集まってくる。主将の伊藤が嬉しそうに藤真と花形に駆け寄った。
「藤真さん! 花形さん!」
「――どうだ、伊藤。調子は?」
伊藤の肩を叩いてから、藤真は、皆の後ろからゆったりと歩いてきてこの光景をにこにこと笑って見ている、壮年の男性に顔を向けた。
「お久し振りです、監督。お騒がせしてしまってすみません」
「なに、構わないよ」
鷹揚に微笑むその人に、藤真と花形は改めて頭を下げる。
この監督は、冬の選抜予選のあと、藤真が直接会って就任を決めた人だった。
藤真の引退に当たり、最大の問題となったのは、監督をどうするかについてである。推薦の話を全部辞退して一般の入試を受ける藤真には、受験勉強と並行して部活の練習を見ることはさすがに叶わない。それゆえ、部の顧問や新主将の伊藤たちと何度も相談して、やはり専任の監督を置こうということに決着したのだった。
多くの時間を割いて、藤真は何人もの候補者に会った。その上で、大学のコーチを務めた経験と、何よりバスケットに対する真摯な姿勢を持つこの人なら、翔陽を託すに相応しい監督であると判断したのである。
「せっかく来てくれたんだ。練習を見ていくだろう?」
「ええ。それで――もしご迷惑でなければ、一緒に練習に参加したいんですが……」
藤真と花形の申し出に、監督は二つ返事で頷いた。
「もちろん。こっちから頼みたいくらいだ」
これを聞いて、回りにいた部員たちがわっと盛り上がる。
試合の応援さながらの藤真コール、花形コールが相次いで起こった。
20分後、着替えて準備運動を済ませた二人が、コートサイドに立った。
「やっぱり、このシャツとパンツ、でかいな」
シャツの裾を引っ張りながら、藤真がぼやいた。バッシュは自分のものだが、ウェアは花形から借りたのである。
「仕方ないだろう? 元はといえば、お前の気まぐれなんだから」
くすりと笑い、そのままストレッチを続ける花形を、藤真が横目で見て、
「――ゲームするの、久し振りだからな。お前、身体、動かないんじゃないか?」
今の発言のお返しとばかりに、挑発的な笑みを向けた。
「――ご冗談を。なにせ、監督が鬼のように厳しかったからな。そんなやわなことじゃ、翔陽のスタメンなんて務まらない」
「よく言うよ。いちばんスタミナなかったくせに」
いいこと教えてやろうか、と、藤真は近くにいた伊藤を手招きして耳打ちする。
「花形ってな。1年の夏休みのとき、ランニング中に鼻血吹いて倒れたんだぞ
」
ぎょっとして花形が振り返った。先輩としての面目を全く失ってしまうような過去の恥を、藤真はいともあっさりと暴露してくれたのだ。
本当ですか、と興味津々で問い返してきたのは、センターフォワードで副主将の、2年の鈴木だった。その鈴木に向かって得意げに説明をし始めた藤真の口を、花形が慌てて塞ぐ。
「なんだよ。いいじゃんか」
「いいわけないだろ! それ以上口にしたら、お前が合宿のとき寝呆けて襖に激突した話をばらすぞ」
「あ、それ是非、聞かせてください!」
鈴木の素早い反応と、それを遮る藤真の怒声がほぼ同時。堪え切れずに笑い出したのは、伊藤をはじめ、回りにいた2年生だった。ちなみに1年生たちは、憧れの先輩二人の信じ難いエピソードに、ただただ呆然とするだけである。
「――こら、練習始めるぞ」
藤真たちの会話が全部聞こえていたらしい。笑いを噛み殺していた監督が、年長者の分別を働かせて部員たちに声を掛けた。
それを合図に、体育館の中は静かな緊張で満たされていく。
藤真と花形の身体を慣らすためもあって、まずは3対3の練習から入った。
ボールの感触を確かめながら、藤真が軽くドリブルを始める。部活を引退してからは、バスケットといえば、体育の授業や気分転換の運動程度にやっていたくらいである。全く離れていたわけではないが、現役の頃とまるで同じ具合にはいかない。
藤真と花形が走り出した。眠っている勘を呼び起こすように、お互いにパスを出し合う。基本に忠実な動きを丁寧になぞりながら、二人は徐々にペースを上げていった。
何度か流したあと、短い休憩を挟んでゲームとなる。
「――スタメンを揃えてもいいか? その方が、こちらはありがたいんだが」
楽しそうに笑いながら、監督が藤真に声を掛けた。
「ええ、構いません」
藤真も笑って答える。
「でも俺たち、隠居してずいぶん経ちますし。勝負になるかな」
「――全然そんなこと心配していないって顔だぞ」
監督が唇の端を上げて、藤真の腕を叩く。
いたずらっぽく藤真は肩を竦めた。
「いえ、俺自身は不安なんですけど。ただ、花形があんまり自信満々なので、ついつられちゃって」
「――おい、藤真!」
いきなり話を振られた上に、事実無根の理由をでっち上げられて、花形は目を剥いた。
「違います! 監督、誤解しないでください。俺は全然そんなこと……」
花形の必死の弁解に、監督は噴き出した。肩を震わせながら、二人を見る。
「いいコンビだな、君たちは。漫才でも食っていけそうだ」
言われた途端、心底情けなくなって肩を落とした花形を、監督はおもしろそうに眺めて、まあともかく、と続けた。
「じゃあ、こちらはスタメンで行こう。そちらには、ベンチの中から何人か交替で出していくということで」
スタメン相手でやや萎縮していた控えの選手たちは、藤真の的確なゲームメイクで徐々にリズムをつかんでいた。
「……やっぱり、すごいな」
相手方のフリースローを待つ間、ハーフラインの近くで、伊藤が呟いた。
「藤真さんのことか?」
隣にいた鈴木が問い返す。
「――ああ」
藤真のパス。
メンバーの力量を把握し、それぞれに合わせて、速さとコースを使い分ける。その視野の広さで、ノーマークになった選手を決して見逃さない。
伊藤は藤真の背中を見つめた。
その横で、顎を伝う汗をシャツで拭いながら、鈴木が顔をしかめる。
「――俺も、さっき花形さんにやられた」
シュートカットに跳んだ鈴木を、花形は綺麗なフェイダウェイであっさりとかわしたのだ。
「しかし、なんであれが成功するかなあ……」
花形のシュートを真似る身振りをして、しきりに首を傾げる鈴木を、伊藤が振り返る。
「鈴木」
「なんだ?」
「……頑張ろうな」
藤真と花形のすごさは、初めから百も承知だ。それでも、いや、だからこそ。
――彼らのあとを継いで翔陽を背負って立つ自分たちが、簡単に引き下がるわけにはいかないのだ。
フリースローが決まり、スタメンチームのスローインとなる。素早く走り出しながら、鈴木が笑った。
「ああ、もちろん。勝つつもりで行くぞ」
スタメンと控えの選手の対戦ながら、藤真と花形が入っていることで、試合は一進一退の攻防となった。
しかし後半に入ってからは、さすがに控えの選手の経験不足が目立ち始め、流れはスタメンチームに向かうかに見える。
「藤真」
花形が声を掛けた。
「どうする?」
「――とりあえず、流れを変えよう」
全く動じない様子で、藤真が笑みを浮かべた。そして、コートにいる控えの面々の表情を見やる。
「あいつら、気持ちが付いていっていない。技術云々より、そっちが問題だ」
藤真は花形の背中を叩いた。
「パス出すぞ。決めろよ」
大きく返ったリバウンドボール。落ちる位置を正確に予測した藤真が、信じられない速さでボールを手にする。
――走れ。
一瞬向けられた藤真の視線が、そう言った。
考えるより先に花形の身体は動いた。虚を突かれたスタメンチームは、ゴール下に向かう花形に追い付けない。そこへ、狙い澄ました藤真のロングパス。
花形は力強くダンクを沈めた。
「花形さん!」
「決まった!」
「藤真さん、ナイスパス!」
ここまで藤真と花形は、後輩の練習になるよう、ずっと裏方役に徹してきた。その二人が初めて見せた派手なコンビプレイに、コートサイドの部員たちがどっと大声を上げる。
「――アリウープにすれば良かったかな」
さらりと口にする藤真の頭を、息を軽く弾ませた花形が小突いた。
「無茶言うな。お前、俺を殺す気か」
「この程度でくたばるようなかわいい奴じゃないだろ」
「お前なあ……」
「――先輩!」
二人のところへ控えの選手たちが駆け寄ってきた。
藤真が彼らに目を向ける。
「いいか、よく聞けよ」
士気を高めるように手を叩いて、一人一人の顔を真っ直ぐ見つめた。
「このくらいの点差はまだ返せる。まだ充分追い付ける。大文夫だ」
余裕のある表情で、藤真は挑むように笑って見せる。
「自分を信じろ。今までやってきた練習を信じろ。気持ちで負けてたら勝負にならない。――いいな。絶対に受け身にはなるな」
藤真のスーパーパスから花形が決めたダンクで、スタメンチームの追い風ムードは消えた。しかしすかさずタイムアウトを取り、監督の指示を仰いで態勢を立て直したスタメンチームは、点の取り合いを仕掛けてくる。
これに対する控えチームは、藤真からのアシストパスで確実に速攻を決めて得点を重ねた。
最後までもつれ込んだ勝負は、残り2秒、控え選手のシュートファウルで得たフリースローを、伊藤が2本とも入れたことで、決着が付けられた。
試合終了のホイッスルが鳴る。
「――お疲れさん。いい試合だった」
監督の声に、藤真と花形は振り返った。
「ありがとうございました。久し振りにゲームができて、楽しかったです」
「いや、こちらこそ。君たちに付き合ってもらって、みんなも勉強になっただろう。――まあ、もっとも」
監督が肩を竦めて笑った。
「私としては、スタメンが負けそうになったので、内心冷や冷やしたが」
「――でも、手強かったですよ。やっぱり」
藤真が苦笑交じりに答える。
「藤真さん、花形さん」
伊藤と鈴木が、試合の興奮をそのままに、勢いよく駆け寄ってきた。
「今日はありがとうございました。相手をしていただいて、本当に良かったです」
「うまくなったな、お前たち」
短いが心情を込めた言葉で、藤真が彼らの成長を褒め、
「――その調子で頑張れよ」
花形が言い添える。
目標としている先輩たちに温かい眼差しを向けられて、伊藤と鈴木が嬉しそうにぱっと顔を輝かせた。
部室で着替えたあと、まだ練習を続けている監督と部員たちとに改めて挨拶をし、藤真と花形は体育館を出た。
辺りは薄暗くなっていた。
グラウンドからは、夜間照明の下で走り回る他の部の部員たちの掛け声が聞こえてくる。体育館の明かりと校舎の明かりとが淡い闇の中を照らし、二人の足下に何重にもぼやけた影を作り出す。
西の方の空だけが、夕焼けのかすかな名残で薄紫に染まっていた。
「――タ方はまだ寒いなあ……」
髪を切り揃えているせいで、すっきりと露になっている項に手をやりながら、藤真が呟いた。シャワーを浴びて汗を流した際に、よく乾かさなかった場所だ。
「だからちゃんと拭いておけって言ったのに。――風邪引くなよ。お前、こじらせるとひどいんだから」
花形はやや強い声を出す。藤真はめったに病気をしないが、その分、一度体調を崩すと大変だった。1年のインハイのあとなど、扁桃腺で高い熱を出して、1週間以上寝込んだこともある。
「平気、平気。俺、お前みたいにデリケートじゃないから」
花形の心配をよそに、藤真は無邪気な笑みを浮かべる。
「――あのなあ、人が真面目に……」
むっとして吐き出した言葉を遮るように、藤真が花形の胸を軽く叩いた。
「分かってるって。――お前って本当に心配性だよな」
「……藤真が構わな過ぎるんだよ」
花形が諦めてため息を付く。
確かに、元々どちらかといえば几帳面な方だったと思うが、心配性だと言われたことは一度もない。花形が他人のことでこんなに気を揉むようになったのは、高校に入学して、藤真に出会ってからである。
バスケットを始めとして何事にも怜悧で緻密な判断を下す藤真が、いったん自分のこととなると、信じられないくらい大雑把になる。会っていくらも経たないうちにそれに気付き、ひどく戸惑った覚えが花形にはあった。
他のことには人並み以上に鋭い配慮を示すだけに、藤真の自分自身に対する無頓着さが一層危なっかしく思えた。それがいつの間にか、藤真の代わりに花形が注意を払っているという、奇妙な状態になってしまったのだ。
「――仕方ないな。これでも巻いてろ」
バッグの中を探り、花形は、使っていない濃いブルーのタオルを取り出した。
受け取ったものの、しばらく藤真は眺めたままだった。毛足の長いそれはふわりと柔らかくて、確かに暖かいかもしれない。だが。
「……タオル掛けてくって、すごくカッコ悪くないか?」
「風邪引くよりましだろう? 俺の家まで我慢しろよ。そうしたらマフラー貸してやるから」
花形は、今日何度目かのため息と共に呟いた。
カッコ悪いとぶつぶつ言いながら、藤真がそれを首に掛けた。そして、嫌がっていた割には器用に綺麗なマフラー結びを作り、仕上げに結び目をぽんと叩く。
「どうだ、これでタオルには見えないだろ」
いたずらを成功させた子供のような顔で、藤真が花形を見上げる。
「――見えるも見えないも、こんな薄暗い中じゃ誰も気に留めないって」
「あ、お前、人の努力を無視しやがって!」
藤真の手が、素早く花形の頭を叩く。
「――! お前こそ、恩人に何をする……っ」
もう一発が花形に届く前の、そのとき。グラウンドの方からサッカーボールが一つ、こちらへ転がってくるのが見えた。
すみません、という大きな声と共に、サッカー部の一人が駆け寄ってくる。
藤真がボールを拾い上げた。一、二度手の上で弾ませてから、左手で軽く投げる。ボールは緩い弧を描いて、相手の足の前にぴたりと届いた。
投げ返してもらったそれをドリブルしながら、部員は礼を言って、二人に向かい頭を下げた。藤真がそれに答えるように手を上げる。
サッカーボールを目で追って、花形はゲーム中の藤真のパスを思い起こした。
コントロール、スピード、タイミング。
自在に繰り出される、絶妙のアシストパス。その片鱗が、こんな何気無い仕草にも垣間見える。
「――なに?」
花形の視線に、藤真が問うように顔を向ける。
「いや、何でもない」
花形は首を振った。
ブランクを全く感じさせない藤真の動きは、ゲームを終始支配した。
だが、伊藤や鈴木らのスタメン陣も、一歩も引かずよくこれに抗した。藤真と花形が引退した時点と比べて、彼らの実力は格段に進歩している。
中でも伊藤は、ディフェンスにおいても、オフェンスにおいても、神奈川の双璧と呼ばれた藤真に肉薄するほどの成長を見せていた。
「……伊藤、喜んでたな」
花形は呟いた。藤真が監督を兼任していたときは、ゲーム形式の練習であっても藤真自身が参加することはあまりなかった。従って、藤真とマッチアップできる機会は、伊藤にとってこの上もなく貴重だったに違いない。
一瞬何のことか分からないように首を傾げた藤真が、ああ、と思い付いた顔をする。
「まあな。参考書とかって、自分で全部揃えるの、結構面倒だからな」
「――そうじゃなくて」
花形は笑いながら遮った。
「参考書のことじゃなくて、さっきのゲームの話」
「ああ――」
誤解に気付いて、藤真が数度瞬きをする。
「伊藤はさ」
花形が言葉を継いだ。
「今日はお前とマッチアップできて、本当に嬉しそうだった。ずっとお前を尊敬してて、お前を目標にしていたから……」
「なに言ってんだ」
少し決まり悪そうに、藤真は髪をくしゃくしゃと混ぜる。伊藤に慕われていることは分かっていても、素直に認めるには照れがあるのだろう。ことさらにぶっきらぼうに答えた。
「あいつ、隠居の俺たち相手に、走るゲームに持ち込みやがったんだぞ。こっちの体力が落ちてるの、知ってて突いてくるんだから。いい根性してるよ」
花形はゲーム後半の展開を思い返す。
「……そうだな。確かに、あれは参った」
全く、と頷いたあと、藤真がふと表情を緩めた。
「でも、みんな――特に伊藤は、本当にうまくなった。……それに」
言葉を切って、晴れやかな笑みを浮かべる。
「あの根性があれば、――きっと翔陽を引っ張っていける」
花形の家の門の前で、二人は立ち止まった。
「どうする? 上がっていくか?」
「いや」
藤真が腕時計を見た。
「夕飯までには帰るって言って出てきたから……」
「そうか。じゃ、ちょっと待ってろ。マフラー取ってくる」
「いいよ、もう」
「いいよじゃないだろう。すぐだから、待ってろって」
「――花形」
家へ入ろうとする花形を、藤真が呼び止めた。
その声に含まれる、今までとは違う重さに気付いて、花形は思わず振り返った。
「何だ、どうした……?」
「花形。一つ、訊いていいか?」
「――?」
藤真が花形を見上げた。真っ直ぐに瞳を覗き込んで、問う。
「大学では、……バスケ、やらないのか?」
不意を衝かれた花形は、すぐに答えを返すことができなかった。藤真の問いには余分な言葉がないだけに、その真剣な響きがより強く感じられた。
「――ああ」
しばらくの沈黙のあと、花形は、藤真の視線を受け止めて、ゆっくりと答えを返した。
「体育会のバスケット部に入る、というのは考えていない。でも、同好会とか……何らかの形で、バスケは続けるつもりだよ」
教養課程の1、2年生のうちならばともかく、専門課程に入ってからの医学部のカリキュラムは驚くほど過密である。体育会に所属して、選手として活動を行うのはまず無理だろう。医学部を進路に選んだ時点で、既に覚悟していたことだった。
「そう、か……」
ため息と共に藤真は呟いて、一瞬、泣き笑いのような表情を浮かべた。
花形はバスケットそのものをやめるわけではない。これからだって、一緒にプレイする機会はあるはずだった。だが、正規の部に所属しないとなると、選手としてコートで会うことは望めないに違いない――。
そういう希望と失望とがない交ぜになった、複雑な表情だった。
胸が締め付けられるのを感じながら、しかし花形は、真摯に言葉を継いだ。
「医者になることも、バスケットも、俺にとってはどっちも大事で。――でも俺は器用な方じゃないから、両立させるのにいちばんいい形っていうのは、これしか考えられなかったんだ。……だから」
「――うん」
藤真が小さく笑った。自分の感情を表に出したことで、花形の気持ちに余計な負荷を掛けてしまったのを詫びるように。
「――藤真、お前は?」
今度は花形が尋ねた。
「W大で、バスケット部に入るのか?」
W大には山王工業の深津が推薦で入学を決めていることを、もちろん藤真は知っているはずだった。
高校バスケット界で頂点に立つ名門、山王工業高校。その主将でありエースガードであったのが、3年の深津である。当然、多くの大学から推薦の話があったのだろうが、最終的には関東学生2部リーグに属するW大を選んでいた。
W大のバスケット部に所属し、ガードとしてスタメンの座を目指す。そこには、深津の存在が大きく立ちはだかることになる。
「深津とポジション争いか。――ぞっとする話だな」
藤真が言った。らしくない物言いに、花形は驚いて藤真を見つめ返した。
だが、言葉の自嘲的な内容に反して、藤真の頬には涼しげな笑みが浮かんでいる。
「藤真……?」
戸惑いながら呟いた花形に、
「――できるよ」
藤真がはっきりと答えた。
「できる。……敵わないなんて、思わない」
薄茶色の瞳を上げて、繰り返す。その表情には、一点の陰りも迷いもない。
そうして藤真は、自分の両手を見つめ、ゆっくりと握り締めた。まるで、まだ見えない未来をつかむような、そんな仕草だった。
花形もつられて、藤真の手に目を落とした。
――この手を、どれだけ頼もしく思ったことだろう。
翔陽を何度も勝利に導いた手。藤真の繰り出す正確なパス、綺麗なシュート――試合終了まで決して諦めない、強い意志を秘めたプレイは、それを見る者全てに勝利を信じさせた。
花形もまた、藤真を信じた。
――そう。
きっと藤真は、どんな困難にあっても負けない。真っ直ぐに、しなやかに、自分の道を切り開く。
「藤真」
花形は静かに呼び掛けた。
自分に向けられた澄んだ瞳に、正面から告げる。
「3年間、お前とバスケットができて本当に良かった」
これほど鮮烈な存在と共に、何よりも好きなバスケットをやれたこと。
たとえこれから目指す道が違ったとしても、この3年を、藤真と一緒に過ごした日々を、決して忘れることはない。
そして、この先どれだけつらいことに遭っても、必ず乗り越えていける。
――その強さを教えてくれたのは、藤真なのだから。
花形の言葉に驚いたように、藤真は大きく目を瞠った。そして、くすぐったそうに首を竦めながらも、ああ、と小さく答える。
「俺も。――俺も、お前と一緒にやれて良かった。……たぶん、お前とでなければ、ここまで来られなかった」
いったん爪先に視線を落としてから、藤真は続けた。
「――大学でバスケ部に入って、どんな奴とチームを組んでも」
髪を梳き上げ、うっすらと笑みを浮かべる。
「きっと、俺にとってお前以上のセンターはいない。――忘れるなよ」
「……ああ」
3年間の全ての思いを込めて、花形は頷いた。
それは、道を分かつ花形に対する、藤真からの最高のはなむけの言葉だった。
「じゃ、またな」
結局、半強制的に花形のマフラーを貸し出された藤真が、そのマフラーに顔を埋めながら言った。
「ウェアとタオル、洗って持ってくるから。そのときにこれも返すな」
「別に、気、遣わなくてもいいのに……」
花形が呟く。洗濯なんて、自分の分と一緒にするからそのままで構わない、と言ったのだが、藤真はこういうところはとても几帳面だった。
「せめて、この気配りを自分自身に向けて欲しいよ……」
花形のぼやきに、藤真が険のある目を向ける。
「――何か言ったか。どうも悪口言われたような気がするけど」
「何でもない、何でもない。いいから早く帰れ」
面倒くさそうに答える花形を無言で見上げ、いきなり藤真は花形の頭を叩いた。
「……っ!」
頭を押さえた花形が反撃に出る前に、藤真は走り出す。
「じゃあな! また電話する!」
「……こら、待て! 仕返しくらいさせろ!」
痛みにつぶった目を開いたとき、花形の視界に入ったのは、嬉しそうに手を振って帰っていく藤真の笑顔だった。
――You have a bright future before you.
(1998.12.29)