軽く首を振って、C大1年の花形は机の上にシャープペンシルを置いた。
大学に入って初めての夏期休暇。C大体育寮の自室に朝からこもり、休暇中の課題として出された社会学のレポートに取り組んでいたのだが、資料を読み込む読解力にも、自分の意見を整理する思考力にも、そろそろ限界が近付いていた。
「ちょっと休んだ方がいいかな……」
肩を左手で叩きつつ本棚の上にある時計を見る。午後3時を少し回っていた。
急ぎではないが確認したい文献もいくつかあった。ここは気分転換を兼ねて、大学の図書館まで行ってこようかと考える。どちらにしろ、いったん切れてしまった集中力はそう簡単に戻りはしない。
クローゼットからTシャツとジーンズを取り出して着替えながら、花形は大きなため息を付いた。
集中力が切れたのは、何も長時間の勉強のせいばかりではない。昨日の夜以来、気に掛かっている事柄が、読んでいた資料から意識が離れたわずかの隙を縫って脳裏をかすめたためだ。
冷静に考えれば大したことじゃないはずなのに、どうしてこんなに気になるのだろう。
花形は疑問を振り払うように勢いを付けて部屋のドアを開け、階段に向かった。踊り場の窓から見た屋外は日差しが強く、かなり暑さが厳しいに違いない。それでも暑さを堪えて必死に歩いている方が、このまま部屋にいるよりは余計なことを考えずに済みそうだった。
だが、寮の玄関まで辿り付いたところで花形の希望はあっさりと覆された。
綺麗な栗色の髪が視界に入る。他でもない藤真が、ちょうど靴を履いて外出しようとしているところだった。
思わず下駄箱の前で立ち竦んでしまった花形が声を掛けそびれているうちに、藤真は上がりかまちに置いてあったデイバッグを持って腰を上げた。すると、外出先から帰ってきたサッカー部の1年生部員が、玄関の扉を開けたところで藤真に気付き、意味深長な微笑を向けた。
「お、藤真じゃん。こんな時間にお出掛けとは、またデートか?」
肘でつんつんとわき腹を突付いてからかうその1年生を、藤真は煩わしそうに軽く押し退けた。
「いつ俺がデートなんかしたって? 今だって図書館に本を返しに行くだけだよ」
確かに本が入って重そうなデイバッグを掲げて見せる。しかしサッカー部の彼は全く信用していないようだ。
「またまた嘘ばっかり! 誤魔化したってネタは上がってるんだって。ソフト部の連中が一昨日ばっちり目撃したって――」
食い下がる相手に焦れたように、藤真が髪をかき上げながら、
「ホントにそんなんじゃないって。もういいから、そこ、どいてくれ」
そう呟くのと同時に、ふいに気配に気が付いたように花形の方を振り返った。
しっかりと目が合ってしまい、花形は今のやり取りを聞いていなかった振りもできずに、少々気まずい思いで俯いた。
「――あれ、花形も今出掛けるところ?」
「あ、うん。俺も図書館に行こうと思って……」
言い澱む花形を不審に感じたふうもなく、藤真は笑って続けた。
「何だ、それなら一緒に行こうぜ」
C大の構内は広い。
照り返しのきついコンクリートの地面にはゆらゆらと陽炎が揺れている。わずかな日陰を選びながら、二人は大学図書館に向かって歩いた。
「――どうだった? 久し振りの実家は」
藤真がいつもと変わりない口調で尋ねてきた。
「特に変わりないよ。バタバタしていて忙しかったけど」
花形もつられていつものように返した。本当は花形の方こそ訊きたいことがあるのだが、ここへ来る間、ずっときっかけがつかめないままだった。
「お祖父さんの七回忌だったっけ? お前のうち、親戚多くて大変そうだよな」
藤真が言う通り、花形は、祖父の七回忌の法事に合わせて昨日まで神奈川の実家に帰省していた。
7月半ばで前期試験も終わり、試験後の1週間はバスケットボール部の活動も休みに入るので、帰省に不都合はなかった。明日から再開する部活動に合わせていったん体育寮に戻ってきたが、お盆にはもう一度帰省するつもりだった。8月下旬からは、9月の関東大学リーグ戦に向けて部の練習が本格的になる。スケジュールも詰まっているし、厳しいと評判の夏合宿もある予定だ。
そうして花形が帰省している間、藤真は寮に残っていた。担当教授が入院したため1か月近く休講になってしまった民法の補講が行われるので、それに出席しなければならないのだと言っていた。
「あーあ、補講さえなけりゃ、お前と一緒に帰省できたのにな」
そう残念そうに肩を竦めていたのは、ほんの1週間前のことだ。
藤真に関する噂を花形が耳にしたのは、週末に法事を済ませてC大体育寮に戻ってきた昨日の夜のことだった。
曰く、大学最寄の駅から乗り換えなしで行ける記念公園で、この週末に花火大会があったのだが、その花火大会で藤真がデートをしていた、と。
相手の女子学生は、藤真と同じ学部に所属し、語学のクラスも一緒だという。容姿端麗、頭脳明晰、学部内でいちばんの才媛と謳われる有名人らしい。その才媛が、誰もが振り返るような魅力的な浴衣姿で、藤真とツーショットで公園内を歩いていたというのである。
そして、彼女にねだられたのか屋台で水風船を釣り上げてやった藤真と、「ありがとう」と微笑んでそれを受け取った彼女がとても甘くて良い雰囲気だったのだと、その場面を目撃したという体育寮の1年生たちが、まるで実況中継をしているような詳細さで唾を飛ばしながら熱弁を振るっていた。
「あれさ、白石さんの方がモーション掛けてたよな、絶対」
「くそっ、ミス法学部までもが藤真狙いかよ。あーあ、俺も藤真くらい顔が良ければなあ……」
やっかみ混じりの複数の叫びが上がる。しかし、そんな叫びにも半ば諦めムードが漂っていた。
藤真の整った容姿は確かに群を抜いているが、勉強にも部活動にも真剣に取り組む真っ直ぐな気性が、その容姿に一層の輝きを添えていることは自明だった。少しでも聡い女性なら、そんな藤真をみすみす放っておくはずもないのだ。
騒がしく藤真の噂話で盛り上がる同級生たちを談話室に残し、花形は釈然としない気持ちを抱えて自室に戻った。その噂を聞くまでは、寮に帰ったらすぐに藤真の部屋まで挨拶に行こうと思っていたが、今はどうにもそんな気になれなかった。
落ち着いて考えれば、別に突飛な話でもないのに。
自分たちはもう大学生で、彼女の一人くらいできてもおかしくない年齢だ。花火大会に行ったり、映画を見たり、もしかしたらちょっと旅行に出掛けたりもして――素敵な彼女と一緒に、大学生活最初の夏を満喫する。そんな選択肢があっても何の不思議もないのだ。
なのに、と花形は思った。なのに、何となく裏切られたようなこのもやもやした感情は何なのだろう。
バスケットを後回しにされたような――そんな気分だった。
もっとも、花形が帰省していた間、藤真が自主練習を疎かにしていたという話は聞かない。日課であるランニングも筋力トレーニングも黙々とこなしていたはずだ。しかし、それをはっきりと尋ねるのも憚られて、花形は結局、昨日の夜から藤真を避け続けていたのだった。
「――それにしても、寮に戻ってたのなら声くらい掛けてくれれば良かったのに」
少し心配そうに藤真が呟いた。
「もしかして、疲れて具合でも悪かったのか?」
「……いや、別にそういうんじゃないんだけど」
言い訳のしようもなくて、花形は歯切れ悪く答えた。
怪訝そうに覗き込む藤真の視線を避けるように、「ほんと暑いよなあ」とため息交じりで空を見上げる振りをする。
「まあ、確かに暑いな、毎日」
空に浮かぶ真っ白い雲を眺めて、何かを思い出したように藤真が振り返った。
「ところで、花形、明日って暇?」
突然話題が変わったのに戸惑っていると、
「あのさ、明日、バスケ部の1年有志でプールに行こうっていう話があるんだけど」
藤真が説明を加えた。
「松波が割引券をいっぱい持ってるんだって。行くとしたら5、6人かな。ウォータースライダーがあって結構面白いらしいよ」
「……そうか」
あまり気のない返事をした花形を、藤真は再び怪訝そうな顔をして見つめた。
「こういうの興味ないんだっけ? そう言えば、高校の頃には花形と泳ぎに行ったこと、なかったよな」
「それは――」
言い掛けて花形は口ごもった。水泳もプールも海も、どちらかといえば好きな方だった。中学までは友達と連れ立ってよく遊びに行ったものだ。けれども、高校に入ってからはバスケット部の活動が中心で、そんな機会はとても持てなかった。
「――うん、分かってる。ごめん」
花形の言外の含みを汲み取ったように、藤真が苦笑いを浮かべた。
「高校のときって、夏はいつも、それどころじゃなかったもんな」
1年のときは初めてのインターハイで。2年のときは監督の選任を巡る問題で。そして、3年のときは引退を延期しての選抜予選出場で――。
バスケットをするのが精一杯で、遊びに行く余裕なんてどこにもなかったのだ。
「だから、こうやって夏らしい行事の予定を入れるの、ほんと初めてかも」
嬉しそうに瞳を輝かせる藤真には、何の屈託もなくて。
素直なその笑顔を見ていたら、花形は自分の中の鬱積した気持ちを全て吐き出してしまいたくなった。
「――でもさ、藤真。お前、一昨日の夜、花火大会に行ってたんだろう?」
さり気なく訊いたつもりなのに、わずかに声が低くなってしまったのは、噂を聞いたときの動揺がまだ残っているせいだった。
藤真が驚いたように目を見開いた。
「よく知ってるな」
「……体育寮の1年で、この噂を知らない奴なんて一人もいないと思うぞ」
知らないでいるのは本人だけだ。噂なんてだいたいがそんなものだが。
「同じ学部の子と一緒だったって聞いた。本当にデートだったのか?」
「――まさか」
花形の予想に反して、そっけない答えが即座に返ってきた。
「誰が見たのか知らないけど、あれのどこをどう解釈したらそうなるんだ?」
うんざりしたように言って、当日の経緯を話し始める。
「白石さん――法学部で同じドイツ語のクラスなんだけど――には、民法の補講のときに、頼まれてノートを貸したんだ。そうしたら、一昨日の日曜日の昼間、わざわざ体育寮まで貸したノートを返しに来てくれて」
ノートを返しながら、彼女は困ったように顔を曇らせて言った。花火大会に今夜一緒に行くはずだった友達がどうしても駄目になったので、代わりに行ってもらえないかと。
最初、藤真は断ったのだが、せっかく浴衣も新調したのにと潤んだ目で懇願され、寮の玄関先で泣き出されては大変だと慌てて頷いてしまい、不本意ながら同行する羽目に陥ったのだ――というのが、藤真の語る一連の出来事の真相だった。
「……あのな、藤真。それって……」
話を全部聞き終わって、花形は額を押さえた。
噂を耳にしてからずっと悩んでいた自分が馬鹿みたいだった。拍子抜けしたとはまさにこのことだ。
藤真は気が付いていないようだが、たぶん白石さんというその女子学生は知能犯だ。最初から藤真と一緒に花火大会に行きたいと望んでいたが、正攻法で誘っても藤真が頷くとは限らない。だからちょっとだけ策を弄したのだろう。
「でも、何にせよ女の子と二人で花火を見たんだろう? 楽しかったんじゃないのか?」
気を取り直して花形が尋ねると、藤真は不思議そうに首を傾げた。
「……どうだろう。あれが楽しかったっていうのかなあ?」
花火大会の間、交わした会話の内容は、せいぜい他愛ない世間話と勉強のことくらいだ。あからさまにつまらなそうな様子を見せるわけにもいかず、彼女が屋台を覗きたいと言えば付き合い、花火が綺麗ねと笑い掛けられれば、愛想笑いと思われない程度には誠実に微笑を返した。
「せっかく誘ってくれたんだから最低限の礼儀は尽くしたつもりだけど……。気を遣ってばかりで、楽しかったとはあんまり感じなかったな……」
藤真の淡々とした述懐には、照れているとか韜晦しているとか、そういった屈折は一切含まれていなかった。
本当に彼は、今回の「デート」にはいかなる興趣も覚えなかったらしい。
花形はほんの少し、相手の白石さんなる女子学生に同情した。彼女の抱く好意は、藤真には全然伝わっていない。
「それに――そうだなあ、楽しかったかどうかっていうのなら……」
藤真が顔を上げて、いたずらを大人に白状する子供のように、無邪気な声で笑った。
「俺は――みんなでグラウンドに水を撒いたときの方が、ずっと楽しかったな」
高校3年の夏。
翔陽高校バスケットボール部の練習は、グラウンドの回りを走るランニングから始まる。
強烈な太陽を遮るものは何もない。熱気の立ち昇るグラウンドをひたすら走った。バスケットの試合ではコートを40分間走り続けられる体力が要求される。その基礎体力を養うためと理解していても、部員にとっては過酷なメニューの一つだった。
毎日そんな練習を繰り返していた8月半ばの、ことさら暑さの厳しい快晴のある日。
いつもグラウンドを使用している野球部とサッカー部が、その日はちょうどどちらも練習を休みにしていた。ゆえに、通常なら両部が交代で行っている作業が、バスケット部の役目として課せられることになったのだった。
――グラウンドに水撒きをするという、地味ながらも重要な日課が。
夏場にグラウンドから発生する砂埃はかなり厄介な代物で、高校の近隣住民からも何件か苦情が来たことがあるという話だった。その砂埃を防ぐための毎日の水撒きは、円滑な部活動のためには欠かせない作業である。グラウンドを使わせてもらっているバスケット部としては、この作業を引き受けざるを得ない立場にあった。
校舎の前に集まったバスケット部員たちは、前日に野球部の面々から教えてもらった手順に従い、まずはグラウンドの隅にある体育倉庫からホースリールを運び出した。そしてそれを、バックネット裏にある外水道のところまで運んでいく。リールいっぱいに巻かれたホースは、長さも重さも家庭用とは比べ物にならない。
「重いなあ、このホース。だいたいこんなに長くて、ホントにノズルまで水が通るのかな?」
「だって野球部もサッカー部も、毎日これ使って水を撒いてるんだろう? 大丈夫じゃねえの?」
慣れない作業に戸惑いつつ、部員たちはああでもない、こうでもないと騒ぎながら、何とか教えてもらった通りに手順を進めていく。
長いホースを、グラウンドの真ん中まで数人掛かりでずるずると引っ張り終えたあと、先端の散水ノズルを握っている3年の高野が大きな声で叫んだ。
「おーい、これでいいんじゃねえか? そろそろ水を出してくれ!」
外水道のところで指示を待っていた2年の伊藤が、軽く頷いて思い切りよく蛇口をひねった。
ホースがかすかに揺れる。蛇口に近いところから伝言ゲームのように揺れが伝わっていくものの、肝心の散水ノズルまではなかなか到達しない。
「高野さーん、今、水を出しましたよ!」
「――そう言ったって、全然出てこないって……うわっ!」
不満そうに返した高野が、突然悲鳴を発した。
予想していた以上の水圧に、思わずノズルから手を離してしまう。するとノズルは、釣り上げられたばかりの魚のように急に跳ね、勢いよく水を噴出したまま、地面の上で暴れ始めた。四方八方に飛び散る奔流に、グラウンドの真ん中にいた部員は、たちまちびっしょりになってしまう。
「ちょっと高野先輩、何てことを――!」
「そんなこと言ったって、水の勢いが……がほっ」
「誰かノズル押さえろ!」
「無理だよ! 先に水を止めないと……!」
パニックの様相を呈し始めた下級生の中で、冷静さをいち早く取り戻した3年の永野が、決死の形相で散水ノズルを捕まえた。力を込めて握り締め、水流を空に向ける。
ざあっと大きな音を立てて、透明な水飛沫が青い空を横切った。
歓喜の声が周囲から一斉に上がった。太陽を浴びてきらめく盛大なシャワーの下に、部員たちが我も我もと駆け出していく。
「――これじゃ、グラウンドの水撒きっていうより、部員が水浴びしてるだけじゃないか?」
まるで小学生のようにはしゃぎ回る部員たちを見やりながら、藤真が苦笑した。
「まあな。みんなで暴れてるから、防ぐどころか余計に砂埃が立っているだろうな」
隣にいた花形も苦笑を返すしかない。
そもそもこの暑さだ。少しくらい水撒きの恩恵に与ったとしても許容される範囲だろう。
藤真もそう思っているのか、監督の立場で無理に部員たちを止めようとはせず、肩を竦めたまま黙って眺めている。
賑やかに騒ぐ部員たちの姿に花形は目を細めた。
あのインターハイ予選の日から――まさかの敗戦で全国大会への切符を逃した、あの時点から今までで、こんなふうに部員たちが明るい表情を浮かべたのは初めてのような気がした。
例年ならインターハイが終われば引退する3年生部員が、選抜まで残留する決心をした。敗北を正面から受け止め、部員全員が一丸となって毎日厳しい練習に励んできた。つらくても、苦しくても、自分たちで選択したことだから、きっとやり遂げてみせる。
だが、心の奥にはずっと重い何かが沈んでいるようだった。それは敗戦の後悔かもしれないし、次の勝利への重圧かもしれない。常に追い詰められていて、気丈に振舞ってはいても皆ぎりぎりの努力を強いられていたに違いなかった。
「――藤真! 花形!」
いつの間にか、高野が再び、永野から奪い取ったノズルを握っていた。しばらく水を撒いているうちに操縦のコツをつかんだようだ。まだ濡れていない土の上に器用に水を命中させながら、少し離れてグラウンドの脇に立っていた藤真と花形の方を向いてにやりと笑う。
意図を察したときにはもう遅かった。
ノズルから噴き出す水が宙を舞う。二人の頭上から降り注いだ水流は、たちまちその全身をびしょ濡れにしてしまった。
「水も滴るイイ男――ってね!」
してやったりという表情で、高野が宣言する。
「くそ、油断した……」
前髪からぽたぽたと零れる雫を乱暴に手の甲で拭いながら、藤真が悔しそうに呟いた。
花形の眼鏡からも水が滴り落ち、着ていたTシャツはべったりと背中に張り付いている。この日差しの下ならじきに乾くだろうが、するつもりのない水浴びを強制的にさせられるのは、できれば勘弁して欲しいシチュエーションだ。
こちらを向いた藤真が、堪えきれないように笑い出したのはそのときだった。
「いい格好だな、花形。色男もこれじゃ台無しだ」
眼鏡を外し前髪も跳ね除けた花形を、さも面白いものを見たという様子で指差す。そうやって茶化す藤真とて、花形と似たり寄ったりの惨状だ。
「――お前も本っ当にいい格好だよ、藤真」
ぼそりと告げると、藤真が肩を震わせてますます笑い出した。
グラウンドでは、最高潮に達した部員全員による水遊びが繰り広げられている。
空に向かって勢いよく弾ける水飛沫。それは透明なガラスの破片のように、きらきらと光を反射して――。
その光景を見ているうちに、花形にも自然と笑いが込み上げてきた。
バスケットに夢中な自分たちには、普通の高校生のような――夏祭りや花火大会や海水浴といった、風物詩に彩られた夏は望むべくもない。
それでも今、この一瞬の眩しいきらめきは、間違いなく自分たちだけのものだ。
花形は思った。選抜の予選まではずっと苦しい日々が続く。しかし、この夏のかけらを大切に胸に持ち続けていれば、きっと全員で高みを目指すことができるだろう。
「――花形」
藤真が目を輝かせて呼び掛けた。
「高野に、きっちりと報復をしたくないか?」
「――そうだな。やられっ放しは良くないよな」
「じゃあ、反撃開始!」
グラウンドの中央に向かって、花形は藤真と一緒に走り出した。それに気付いた高野が慌てて校舎の方へ逃げ出し、3年の長谷川がいきなりノズルを押し付けられて目を白黒させている。
ひときわ高い水のアーチが、まるで空に届く道筋のように綺麗な放物線を描いた。
花形が開架式の書庫で必要な文献をいくつか集め、貸し出し手続きを済ませて大学図書館のロビーに戻ると、藤真は既に本の返却を済ませたのか、吹き抜けの窓から中庭を眺めていた。
「――終わったのか?」
歩み寄る花形に気付き、無邪気な笑みを向ける。
それは、記憶にある高校時代の笑顔と全く変わっていない。
――そう、藤真は変わっていない。
あの夏のかけらを――花形と同じ思いを、同じように大切に持ち続けて、バスケットボールという同じ夢を一緒に追い掛けている。
腕時計を見ながら、藤真がロビーの椅子から立ち上がった。
「どうする? すぐ寮に帰ってもいいけど……。ここまで来たんだし、1on1でもやっていくか?」
今日は確か、バレー部が自主練で体育館を使うって言っていたよな、と呟き、
「自主練ならスペースが結構余っているはずだから、体育館の端の方なら使わせてもらえるかもしれないぞ」
そう続けて、いたずらっぽく片目をつぶって見せる。
「――相変わらず、バスケ一辺倒だな」
あまりに藤真らしい提案に、花形は思わず笑みを漏らしてしまうが、
「そんなこと言っても、花形だってこのところボール触ってなかったんじゃないか? そろそろコートが恋しいだろう?」
心の中を見透かしたように断定されれば、拒む理由は何もない。
「よし分かった。今日こそはダンク決めてやるからな」
「10年早いよ。1on1で俺のディフェンスを抜けるつもり?」
――きっとあの夏は、未来へと続いているから。
(2006.08.12)