夢を見たいから

藤真と花形が長谷川一志の家に着いたとき、彼はもうコートを着て門の前に立っていた。
「一志!」
藤真が呼び掛けると、長谷川は小さく手を上げてそれに答えた。足早に歩み寄りながら、藤真は快活ないつもの口調で言葉を続ける。
「お前に会うのって、夏にカラオケ一緒に行って以来だっけ。どうだ、少しは歌、歌えるようになったか?」
花形は額を押さえた。
「――開口一番がそれか? どうして『明けましておめでとう』だけでも先に言えないかな」
元日に会う人とは、ともかくも最初に新年の挨拶を交わすのが普通ではないだろうか。
「だって」
くるりと振り向いて、藤真が言った。
「一志って、全然マイク持たないんだぜ。いまどきの学生がカラオケの一つくらい歌えなくてどうするんだっていうの」
一志、お前、サークルのコンパとかで困んないのかよ、と今度は長谷川の方を向いて口を尖らす。
「藤真……ちょっと黙って」
放っておいたら、再会を喜ぶ間も新年を祝うきっかけもなく、このまま藤真のテンポの早い会話に翻弄されてしまう。経験上それを思い知っている花形が、たしなめるように軽く藤真の頭を叩くと、長谷川がわずかに声を立てて笑った。翔陽高校でチームメイトだった頃から、彼は感情をほとんど表に出さない方だったが、藤真と一緒のときに限っては普段よりもずいぶんと分かりやすい表情を浮かべるのだった。
「――明けまして、おめでとう」
長谷川が、花形の努力を汲んでくれたのだろう、改まって背筋を伸ばし二人に頭を下げた。
「明けましておめでとう」
すかさず花形が挨拶を返すと、話を遮られて不満そうな視線を寄越していた藤真も、遅れてはならじと長谷川に向き直った。
「明けましておめでとう。今年もよろしくな」
やっと新年らしい言葉を交わし、これで本題に入れると花形が安心したのもつかの間、
「おじさんとおばさん、居るんだろ。せっかくだから挨拶してくるよ」
藤真は気安く長谷川の家の門を開け、慣れた足取りで玄関に向かい、さっさとその中に入ってしまった。
藤真と長谷川とは、幼稚園からの幼馴染みで、今でも家族ぐるみの付き合いをしているという。互いの家も歩いて5分ほどのところにある。苦笑を浮かべた長谷川が、花形を振り返った。
「寄っていかないか? まだ時間には余裕があるし」
「いや……遠慮しておくよ」
長い付き合いの藤真ならともかく、全く面識のない花形が同じような態度で正月からよその家に上がり込むわけにはいかない。
「悪いな、長谷川。正月早々に呼び出して」
マフラーに頬を埋めながら花形が詫びると、
「気にしないでくれ。どうせ暇なんだ」
口元を緩めたまま、長谷川は呟いた。
今日はこれから、翔陽高校バスケットボール部の元部員で久々に集まろうという約束がある。
花形の代のチームメイトは全員が進学し、長谷川を含めた半数ほどが自宅通学なので、地元の神奈川で会うのにそれほど不便はない。ただ、その中心となるべき元主将の藤真と元副主将の花形が、都心から離れたC大の体育寮に入っており、大学の授業やバスケットボール部の練習のスケジュールを考えると、そう頻繁に実家に帰ってくることはできないため、なかなか皆で集まる機会を持てなかった。
実際、今回の二人の帰省も、部の練習の合間を縫った2泊3日の短いものである。藤真と花形の所属するC大バスケットボール部が、明後日の1月3日から始まる全日本総合選手権大会――オールジャパンに出場するので、明日の朝には寮に戻り練習に出なければならないからだ。
その都合に合わせると元日にしか予定が組めないのだが、めったに帰省しない元主将と元副主将に会えるとあって、無理な日程にもかかわらず、留学中の1名を除いて同級生全員が集まるという、思いがけなくも大規模な同窓会が行われることになったのである。
「普通、1月1日っていうのは、家族水入らずで過ごす家が多いと思ってたんだけど」
花形は息を付いた。
「俺たちのせいで無理させて悪かったよな……。でもみんな、よくこんな日に付き合ってくれるなあ」
「それだけ、お前たちに会いたいんだよ」
長谷川が穏やかに返す。
「そういう花形の家族だって、今、海外に行っているんだろう? 藤真に聞いた」
「――ああ」
花形は肩を竦めた。
「オーストラリアだよ。向こうは真夏だって話だ」

久々の帰省、しかも年末年始だというのに、花形は自分の両親の顔を見る機会に恵まれなかった。
花形の両親は、姪、つまり花形の従姉妹の結婚式に出席するため、クリスマスの日にオーストラリアへと旅立ってしまったからだ。
「幸恵ちゃんも、もっと近いところで式を挙げてくれればいいのにねえ」などと口では不満そうに言いつつ、数年振りの海外旅行に、電話でこのことを告げて来た母親の声が嬉しそうに弾んでいたのを、花形は覚えている。
「お前、試合があるんでしょう? 家には誰もいなくなっちゃうけど、もし帰ってくるなら食料は用意していくわよ?」
その申し出を聞いて、花形はちょっと笑ってしまった。
花形が中学に上がるまでは、家族全員で毎年夏と冬に遠出の旅行をしていた。しかし、バスケットボールを本格的に始めてから、その旅行に一緒に行くことはできなくなった。盆も正月も関係のない部活動の方を優先したからだ。
始めはしきりに残念がった母親も、バスケットに夢中で打ち込む息子の姿に、いつしか諦めたのか、それとも子離れの時期だと悟ったのか、花形に家事の初歩を身に付けさせたあとは、彼に留守番をさせてこれまで通り旅行に出掛けていくようになった。
ただ、料理に関しては火の元の心配もあるので、最初のうちはレンジで温め直せば食べられるようなものを山ほど用意していってくれた記憶がある。その頃の名残で、彼が成長して簡単な料理なら不安なく作れるようになっても、出掛ける前にたくさんの手料理を作り置いていくのが母の習慣になっていた。
そして大学生の今になっても、母は真っ先に食事の心配をしている。くすぐったいような気持ちを感じながら、花形は笑みを含んだ声で答えた。
「――心配ないよ。3日からもう大会があるんだし。このまま寮にいるよ」
正月に大会のある学生スポーツはバスケットだけではない。間近に迫った試合に備えて、正月といえども帰省せずに体育寮に残る学生は結構多い。元日だけ食事が休みになるが、1日くらいなら何とでもなるし、寮にいる仲間たちと一緒に過ごしていれば、それほど寂しい思いをすることもないはずだ。
帰省しないつもりだった花形の予定に異を唱えたのは、他ならぬ藤真だった。
「なんだ、それならお前も俺の家に来いよ」
藤真は、さんざん母親から帰ってこいとせっつかれ、その強い要求にやむを得ず折れた格好だった。「試合があるから」と答えても、「大晦日と元日くらいは時間が取れるでしょうに」と言い負かされたらしい。さすがの藤真も、生みの親相手ではやはり分が悪いのだ。
「でも……せっかくの正月じゃないか。家族だけで過ごしているところに、お邪魔なんかできないよ」
花形が常識的な意見で招待を辞退すると、
「2日間も母さんのおしゃべり聞いてたら、頭がどうにかなりそうだ。お前が一緒なら、矛先がお前に向くから好都合なんだよ」
頬杖を付きながら藤真はあっさりと言った。
恐ろしい思惑に竦み上がった花形だったが、結局は藤真の家に招待されることになった。高校のときに何度か遊びに行って藤真の両親とは面識があったし、その当時から彼らは花形を気に入っていたらしく、今回の事情を聞いてたいそう乗り気になり熱心に誘ってくれたのだ。一度は遠慮する旨を告げたのだが、「お節料理も、もう花形君の分まで用意しちゃったんだから、ね?」という藤真の母の言葉が決め手となった。
久し振りに会った藤真の両親とも、藤真の母の明るいおしゃべりのおかげですぐに馴染み、大晦日に定番の紅白歌合戦を見ながら、味も量も抜群の料理を肴に、四人で盛大な酒盛りとなった。
端正な風貌の藤真の父も、理知的な美人の藤真の母も、外見からは想像もできないほどめっぽう酒に強く、バスケット部の打ち上げでかなり鍛えられたと自分では思っていた花形も、到底太刀打ちできずに真っ先に白旗を上げた。
「ゆく年くる年」の途中で、客間に敷いてもらった布団に倒れ込んだところまではかすかに覚えている。だが、その後の記憶は全くない。
目が覚めたときにはもう、朝の9時を回っていた。
決まり悪く居間に顔を出すと、藤真と藤真の父がダイニングテーブルの椅子に座って、仲良くテレビの実業団駅伝を観ていた。新年の挨拶をまず済ませ、寝坊したことを幾重にも詫びると、
「花形君、駄目だよ。もっと鍛えなきゃ」
藤真の父が冗談交じりに言った。
「まさか、うちの健司より酒に弱いとはね」
はは、と花形は力ない笑いを返した。
――お言葉ですがお父さん、C大バスケ部で藤真に敵う酒豪はおりません。
酒豪の名に相応しく、全く酒の残っていない様子で藤真が晴れやかに笑った。
「どう? 朝飯、食えるか?」
正直言ってそれほど食欲があるわけではなかった。しかし、藤真親子はつつがなく朝食を済ませた様子だ。ちょっとした意地が働いて、花形は答えた。
「……うん。いただけると思うよ」
夫や息子と同様、前夜の酒盛りの酔いなど微塵も感じさせない優雅さで、藤真の母がボリュームたっぷりの雑煮を用意してくれた。
花形は生まれて初めて、おいしいはずの食べ物を涙ぐみながら頬張るという経験をした。

同窓会の集合時間は午後1時。駅のコンコースに集まることになっている。
その同窓会の前に初詣に行こうと藤真が言い出したのは、昨日、帰省の電車に乗っているときだった。家の近くに神社があり、駅までの道の途中なので、そこで初詣をしても集合時間に遅れる心配はないという。
「一志の家の前も通るから、あいつも誘おうぜ」
そう言って、藤真は実家に着いてから長谷川に電話を掛け、速やかに約束を取り付けた。
普段は縁起を担ぐことなどしない藤真が、初詣のような行事に熱心になるのが不思議で、花形はつい理由を訊いてしまった。
「――甘酒が飲みたいから」
というのが、その答えだった。
特に甘いものが好きなわけではないが、近所の神社で正月に振舞われる甘酒は、酒粕の甘味を生かした素朴な味だそうで、昔からとても気に入っていたと言うのだ。
お参りよりも甘酒が目当てとは、何とも藤真らしい。
そんなわけで、花形は遅めの朝食を取ってからすぐに、藤真に連れ出されて長谷川の家の前まで来ているのだった。
「――藤真の家は、賑やかだろう?」
よく晴れた空を見上げながら、長谷川が言った。
苦笑が混じっているように見えたのは、花形の気のせいではないはずだ。
15年以上の付き合いの中で、藤真の母の話し相手をずっとしてきたのだろう。寡黙な彼が、尽きない話題に生真面目な顔で相槌を打っているさまを思い浮かべて、花形は少々気の毒にも感じつつ、微笑ましい思いがした。
「ほんとに賑やかだったし、いろいろ御馳走になったよ。酒も、たくさんもらった」
そう答えると、ああ、と長谷川は小さく笑った。
「あのうちは全員、本当に強いからな」
花形が苦笑を返したとき、玄関の開く音がして、藤真が長谷川の家から出てきた。手にはみかんの入った網袋を持っている。
「おばさんがくれたんだ」
無邪気にそれを掲げて見せる。
呆れた花形が口を開く前に、藤真は颯爽と歩き出した。
「さあ、初詣に行こうぜ」

住宅街にある藤真や長谷川の家から遠くない、しかも地元の神社ということで、花形はそれほどの人出があるとは思っていなかった。
しかし、目的地の神社に近付くにつれて自動車が多くなり、着物を着た家族連れや、破魔矢を持ってはしゃぐ子供たちとすれ違うようになってきた。大きな鳥居をくぐると、参道や境内は予想以上の賑わしさを見せている。
「かなり人が来るところなんだな。びっくりしたよ」
花形が驚いて神社の中を見回していると、藤真が説明を加えた。
「まあ、有名な神社なんかは、どこも身動きできないような混雑に決まってるしな。この辺りに住んでる人にとっては、ここの神社が初詣の定番だよ。散歩にもちょうどいいくらいの距離だし、近いから子供だけでも来られるし」
信心とはほど遠い、実に現実的な発想だが、藤真の言う通り、近所に買い物に出掛けるような普段着の参拝客も頻繁に見受けられる。子供のみのグループも多い。
「藤真も小さい頃は、子供同士で来てたのか?」
「まあな。うちの親は、もっと空いてる2日や3日にお参りするって言うから。でも俺、元日に初詣したくてさ、小学生のときなんかは、一志とかミニバスの仲間とかを誘ってよく来たよ」
訊かなくても分かる気がしたが、一応尋ねてみた。どうしても元日に来たかったわけとは。
「――甘酒を配ってくれるのって、元日だけなんだよな」
拝殿の前は相当な混みようで、お参りをするまでに手間取った。しばらく並んだあと、拝殿の正面に辿り着いた3人は、賽銭を入れ、形通りに鈴を鳴らして手を合わせた。
破魔矢や御守を売っている社務所の前も混んでいた。きりりと髪を結わえた巫女たちが、慌ただしく品物を参拝客に手渡している。その横ではおみくじが売られていた。
「花形、一志、おみくじ引こうぜ」
お決まりの初詣コースを満喫したいらしく、藤真がおみくじ売り場に駆け寄る。花形と長谷川も強引に付き合わされ、おみくじを引いた。
「あ、俺、中吉」
一番に引いた藤真が、小さな紙片を器用にほどいて、声を上げた。
「花形は何だった?」
興味津々の藤真が花形の手元を覗き込む。それを避けて、花形はぼそりと言った。
「――末吉だよ、末吉」
「やった、勝った!」
「ちょっと待て。何でおみくじで勝ち負けがあるんだよ」
藤真は手を叩いて喜んでいる。
「一志は? 一志は?」
「……小吉」
「うわ、花形ビリじゃん」
「だからどうして、勝ち負けになるんだ」
「いいのいいの、俺が一番ね。じゃ、結ぶぞ」
おみくじ売り場のそばにある木の枝は、もう既にたくさんの紙片が結ばれていた。
空いた場所を探して藤真が思案顔をしているので、花形はおみくじが固まって付いている辺りよりもずっと高いところの枝に手を伸ばした。197センチの花形に勝る身長の参拝客はさすがにいなかったようだ。誰も届かなかった、おみくじの全く結ばれていない枝を引き寄せて、藤真に声を掛けた。
「ほら、藤真。こっちに結んでやるよ」
「……なんかそれ、ムカつく」
上目で花形を睨んで、藤真は頬を膨らませる。
「俺だって、平均身長は超えてるんだぞ」
「仕方ないだろ。それでも俺の方が高いのは事実なんだから」
「何だよ、運勢ビリのくせに」
少々斜めになりかけた藤真の機嫌を、長谷川が絶妙のタイミングで取り結んだ。
「――藤真。甘酒はいいのか?」
もう残り少ないみたいだぞ、と言い添える。
確かに、甘酒を配っている社務所の向かい側を見ると、大鍋いっぱいにあった甘酒はかなり容量を減らしているようだ。ひょっとすると、列に今並んでいる人たちまでの分で終わってしまうかもしれない。
「やば。早く行かなきゃ」
焦ったようにそちらに目を走らせてから、藤真は振り返った。
「――お前たちは、飲まないの?」
朝食を食べたばかりの花形は、謹んで辞退した。いいよ、と長谷川も首を振る。
「ちえ、付き合い悪いな」
藤真は口を尖らせて呟くと、踵を返して軽く走り出した。その背に向かって長谷川が呼び掛ける。
「藤真、俺たちはけやきの木のところにいるから」
そうして花形を促した。
「――ここは混んでいるから、ちょっと外に出て待っていよう」

社務所の横を通り抜けると短い柵があり、その向こうに垣根で囲まれた空き地があった。拝殿の前にいるときには境内の木々に隠れて見えなかった場所だ。たくさんいた参拝客も、ここまでは誰も入ってきていない。
空き地の広さはバスケットコートの半分くらいだろうか。端の方に立派なけやきの木が2本あった。冬の今はすっかり葉が落ちているが、夏場なら大きな木陰を作り、子供たちが遊ぶのに絶好の場所となりそうだった。
けやきの根元から少し離れた、日の当たる暖かいところを選び、長谷川が足を止めた。
「――二人とも、明日の午前中には、もう寮に戻るんだろう?」
花形は頷いた。
「ああ。午後から練習があるからな。試合前日だから軽く5対5で流すくらいだと思うけど」
「忙しいな、オールジャパンの日程は」
「まあな。でも、出られなかった去年に比べれば、忙しくても出られる方がやっぱり嬉しいよ」
オールジャパンに出場するには、インカレ――全日本学生選手権でベスト8に入らなければならない。昨年のC大は、インカレでベスト8に残れず、出場枠に入ることができなかった。
「それに、スーパーリーグのチームと試合ができるチャンスっていうのも、オールジャパンくらいだし」
スーパーリーグには、文字通り日本のトッププレイヤーが揃っている。学生の選手がそういった最高峰の選手とマッチアップできる絶好の機会が、このオールジャパンなのだ。
もっとも、1回戦で当たる地方代表のチームに勝たなきゃ駄目だけど――自分自身に対する戒めを込めて、花形が付け加える。 「でも、それに勝てば、すぐにスーパーリーグのチームと当たるんだろう?」
長谷川に尋ねられて、花形は表情を更に引き締めた。
「ああ――I自動車にな」
昨年のオールジャパンの覇者であり、スーパーリーグでも優勝を飾ったチャンピオンチーム。
ポイントガードには、アジアのナンバーワンガードと謳われ、名実共に日本を代表する素晴らしい選手がいる。
「……この間、衛星放送でI自動車の試合中継を見たよ」
長谷川が、思い出したように呟いた。
「ゲームは圧勝だった。技術も経験も……とにかく、何もかもがすごい、と思った。2回戦に進んだら、藤真は、あの選手とマッチアップするんだな……」
まず間違いないと、花形は頷いた。藤真は現在、C大のエースガードだ。オールジャパンでも、スタメンで出場することが既に決まっている。
「――ここで」
唐突に、長谷川が言った。
「練習してた……」
花形が訝しんで首を傾げると、長谷川は空き地を見渡すように視線をゆっくりと巡らせる。
「ここで――練習してたんだ。藤真は」

柔らかい冬の日差しの中、眩しそうにけやきの枝を見やって、長谷川は言った。
小学校のミニバスケットチームの顧問に、始めに誘われたのは自分の方だった、と。
「――その頃、俺はもう、クラスでいちばん背が高かったんだ」
身長を見込まれたんだ、と長谷川は笑った。
「俺がミニバスのチームに入って、1か月後に藤真もチームに入ってきた。――小学3年のときだ」
当時の藤真は、今と変わらず気は強かったが、病気がちの、線の細い子供だった。体力を付けるために何か運動をした方がいい、と医者に勧められ、仲の良い長谷川がいるなら安心だということで、一緒にミニバスを始めたのだという。
「最初は、ドリブルもシュートもできなかったんだ。藤真は」
長谷川が花形を振り返った。
「信じられないだろう? あの藤真が、ドリブルを何度も失敗していたなんて」
身体が小さく、バスケットの基礎すら習得していない藤真は、チームに入ってしばらくは上級生たちからずいぶんといじめられたらしい。
背の高い長谷川が一緒にいるときには誰も手を出してこないのに、長谷川の目の届かないところで、藤真をしばしば小突いたりしていたようだ。
子供同士の力関係は、体格の優劣で決まってしまうことが多い。いくら気が強くても物理的な力に屈するしかない悔しさは、藤真にとってどれほど耐え難かったことだろう。
「――手が小さかったから、ボールをうまく扱うこともできなかった。パスなんか全然真っ直ぐに出せなくて、ずっと馬鹿にされてた……」
でも、と長谷川が声を強めた。
「藤真は――誰よりも多く、本当に頑張って練習したんだ」
体育館は上級生に独占されていたから、いつもここの空き地に、藤真はボールを持って毎日通った。
決して広くはなく、バスケットのゴールがあるわけでもない、神社の空き地に。
花形は思い浮かべてみた。
幼い藤真が、歯を食い縛って、一生懸命ドリブルの練習をしているところを。失敗したとき、小さな手を自分で厳しく叩きながら、再びボールを拾って何度も何度もドリブルを繰り返しているところを。
――けやきの木の下で、ひっそりと悔し涙を流しているところを。
「小突かれても、馬鹿にされても、藤真はバスケットをやめなかった」
長谷川は続けた。
「そうして――1年が経った頃には、チームでいちばん、藤真がうまくなってたよ」
ドリブル一つ満足にこなせなかった藤真が、驚異的な上達を見せて、上級生たちの技術をぐんぐんと追い越していった。やがて、彼をいじめていた上級生でさえも、その実力を認めなければならなくなったのだ。
「今でも、まだ――ここで練習してた姿を、はっきりと思い出せるのに」
長谷川の口調に、初めてかすかなため息が混じった。
「日本一のガードと戦えるような――そんな選手に、藤真はもう、なっているんだな……」
日本を代表するスーパーリーグの選手たちと、同じ舞台に堂々と立つ。しかも、バスケットをやっている者なら誰もが一度はそこで試合をしたいと願う、国立代々木競技場の第2体育館で。
「――俺にとっては、夢を見ているようだよ」
長谷川が、ため息と共に呟いた。
小さかった藤真。
ボールを抱えて、声を殺して泣いていた藤真。
ドリブルとシュートを基礎から教えてやり、日が暮れるまでパスの練習に付き合った。ついこの間のことのように脳裏に浮かぶというのに。
花形を正面から見つめて、長谷川は言った。

――もう俺は、藤真の実力に付いていくことはできないけれど。

手の中で大切に守っていた小さな雛鳥が、いつしか生え揃ったしなやかな翼で、大きく強く羽ばたいていく。

空を仰いで、飛び去った鳥を見送るようなはるかな視線を、長谷川はけやきの枝を透かして雲の先に向けた。
「でも――花形なら」
穏やかな声だった。
「花形なら――、きっとこれからも、藤真と一緒に行けるだろう?」
果てしない、夢。
そしていつか、全日本のユニフォームを着たお前たちが、世界を相手にプレイすることを。
待っている――そう呟いた長谷川は、この上なく優しい目をしていた。

けやきの木のそばで待つ二人のところへ、やっと藤真が戻って来たときには、もうかなりの時間が経っていた。急がないと、他の元部員との待ち合わせにも遅れそうなほどだ。
「――遅かったじゃないか。藤真」
花形が咎めると、
「俺だって早く来ようと思ったんだってば」
悪びれず、藤真が言う。
「でもさあ、もう甘酒も終わりそうだっていうんで、最後に特別に2杯もらっちゃってさ」
いやあ、得したなと喜ぶ藤真を、花形は眉をひそめて見返した。
「そんなに飲んで……気持ち悪くならないのか?」
「――全然」
「だいたいな。人を待たせておいて、どうしてのんびりと2杯も飲んでいられるんだ?」
「だから俺、一緒に飲もうぜって言ったじゃないか」
長谷川が苦笑して、花形の肩に手を置いた。
「――待ち合わせに遅れるから、行こうか」
鳥居をくぐり、駅への道を歩き始めるとすぐに、藤真が好奇心いっぱいの様子で訊いてきた。
「なあ、お参りのとき、何をお願いした?」
「口に出したらお願いは叶えられないって、よく言わないか?」
花形が言うと、え、そうだっけ、と意外そうな顔をする。
「いいじゃんか。教えろよ」
「――藤真は、何を頼んだんだ?」
長谷川が話に付き合ってそう訊いてやると、
「あのさ」
嬉しそうに藤真が答える。
「月並みだけど、健康でいられますように、かな」
バスケに関することなら、自分の力で頑張るべきだし。藤真はごく当然のように呟いた。
「じゃ、一志は?」
訊き返されて、長谷川はいったん花形の方を見てから、おもむろに口を開いた。
「夢を、見られるように――と」
なにそれ、と、藤真が首を傾げる。
「もしかして、初夢のことか?」
富士山の夢を見たいとか、まさかそういうことを願ったのか、と、藤真は怪訝そうな表情を隠さなかった。
「一志、お前変わってるな。初夢って、神社に拝んで見るものじゃないだろ?」
それはともかく、3人のうち二人までが答えたのだ。残された一人も当然問いに答えるべきだろうと、無言の圧力を込めて、藤真が花形をじっと見る。
しかし、なかなか口を開かない花形に、痺れを切らしたように藤真は声を上げた。
「何だよ。一人で黙っててさ」
花形もまた、長谷川の顔を見て、それから言った。
「俺も――夢のことを、な」
「――何なんだよ、お前たち」
わけが分からない、と藤真がぶつぶつ言う。
「俺が甘酒飲んでる間に、ぼうっと寝惚けてたんじゃないのか?」
花形はただ、笑った。
「――夢の話を、していたんだよ」

――いつか、全日本のユニフォームを着た二人が、世界を相手にプレイすることを。

それを――夢見ている、と。

(2003.12.28)