「藤真さんの額……傷がありますよね」
1年生部員の黒田がそう言ったのは、盛り上がっていた話題が一段落し、ふっと空白のような沈黙が訪れたときだった。
C大バスケットボール部は2日前から夏の合宿に入っていた。大学の所有する山間の宿泊施設を利用し、1週間の予定で、9月から始まるリーグ戦に照準を定めて練習を行っている。
C大の夏合宿のメニューは厳しいことで有名だが、始まってまだ2日目とあって、部員たちの体力にも気持ちにも依然として余裕がある。今は消灯前の自由時間で、つかの間の休息といったところだろうか。
1年生の半数と2年生全員、合わせて18名が寝起きする大部屋では、現在室内に残っている者は7人のみで、あとは好奇心旺盛に宿泊施設の敷地を探検しに行ったり、ふもとの町まで下りて付近で唯一のコンビニエンスストアへ買出しに行っていたりする。
たぶん、合宿が終わりに近付けば疲れがどっと押し寄せて、布団に突っ伏して眠る部員ばかりになるのだろうが、今の時点でそんな心配は全くいらないようだった。
花形は、外出せずに部屋に残っているうちの一人だった。
同じ学部の1年生が、夏期休暇の課題のレポートがどうにも進まなくて悩んでいるというので、自由時間を使って少し目を通してやっていたのである。
しかし、たとえこういう用事がなくても、花形は外に出掛けようとは思わなかった。去年、はしゃぐ藤真に付き合わされ最初の数日間はずっと出歩いていて、案の定最終日を待たずに体力を使い果たし、非常に苦しい思いをしたからだ。
ちなみにそのときの藤真はというと、あれだけ動き回っていたのにもかかわらず、最後の練習まで元気にコートを走っていた。
そして、今年も藤真は元気である。宿泊施設で出される早めの夕食だけでは空腹を満たせなかったらしく、同じく腹を空かせた1、2年生数人と連れ立って、1時間ほど前にコンビニまで買出しに行ったのだ。
ほとんどの部員が外に出てしまい、部屋はがらんとしている。花形は、長方形の座卓の上に後輩のレポートを広げ、いくつか着眼点を示してやったが、まだ締切には間があることもあってそれほど長く集中力は続かず、いつの間にか回りにいた他の部員を交えて雑談に花が咲いてしまった。部活でのエピソードや失敗談に始まって、試合中のアクシデントや怪我の話になり、その流れで、黒田が先刻の疑問を投げ掛けたのだ。
――藤真の額にある、あの傷のことを。
黒田の質問に、雑談に加わっていた全員がはっと思い当たった表情をしたが、積極的に花形に答えを求める者はいなかった。予想以上にしんとしてしまった場の空気に、黒田本人がいちばん慌てた様子だった。少し軽率なところもあるが、根が単純で人のよい彼は、今の発言をかき消そうとするように、両手を大きく顔の前で振った。
「や、あの……その、だから何だってわけじゃ、ないんですけど」
しかし、藤真とは高校からのチームメイトであり、C大でもっとも彼のことを知っている花形の前でこういう問いを口に出したということは、花形が答えを教えてくれるという期待をどこかで持っているからだろう。
他の部員たちも、この場にいない藤真の、しかも怪我にまつわる立ち入った話を尋ねてもよいものかとためらい、すぐには黒田に同調しなかったものの、全く同じ興味を抱いていたに違いない。その証拠に、皆が問い掛けるような顔で、花形の表情をじっと探っている。
そのとき、話の輪から少し離れて、一人で雑誌をぱらぱらとめくっていた1年生の仙道が、おもむろに顔を上げて黒田に視線を向けた。
「な、なんだよ」
仙道は、一語一語をことさらにゆっくりと口にした。
「――別に、なにも」
既にうろたえていた黒田が、ますます怯んだように首を縮める。花形は苦笑を浮かべて、仙道を宥め、黒田の肩を叩いた。
「仙道、黒田をあまり追い詰めるな。黒田も――気にしなくていい。そもそも、本人が隠しているわけじゃないしな」
黒田ならずとも、額の傷に目が行ってしまうのは仕方がない。そこに傷があることすら忘れているように、藤真が自分の額を露にしているからだ。
何でも合宿前に髪を切りそびれたとかで、伸びた前髪がうっとうしいと言って、今回の合宿で藤真はヘアバンドを頭に無造作にはめていることが多い。
当初は風呂上がりに洗った髪が乾くまで、という藤真なりの目安があったらしいが、暑さの残る夏の夜のこと、額を晒した涼しさが快適のようで、髪が乾いたあともずっとヘアバンドを外さないまま、合宿所の中を平然と歩き回っていた。そのため、左のこめかみにある、3針縫った傷痕を、多くの部員が目撃しているのである。
藤真は清潔好きでいつもさっぱりとした身なりをしているが、それ以上の容姿に関する一切のことには、なぜかほとんど無頓着だった。彼ほどの整った顔立ちに縫い目の残る傷痕があれば、それを見た他の人間は、たとえ本人が気にしていなくても、どうしても痛々しい印象を受けてしまうものだということを、藤真は全く分かっていない。
「――高校2年のとき、インハイで、相手の肘が当たったんだ」
花形は淡々と説明した。
「ディフェンスでタイトに付いてたから、まともに肘を食らったんだよ。頭の怪我だったし、出血がひどくて、藤真は結局、退場するしかなかった」
黒田がおずおずと尋ねる。
「あの、それで試合の方は……」
「ああ、負けたよ、大差でな」
回りにいた部員が一斉に気色ばんだ。
いったいどこの高校ですか。何て奴ですか、その相手は。まさかわざとやったんじゃないでしょうね――。
詰め寄る部員たちを、花形は片手を上げて制した。
「――もう済んだことだ。どこの誰でも、もう、関係ないよ」
でも、とまだ食い下がる1年生たちに、仙道が、ぱんと音を立てて持っていた雑誌を乱暴に閉じた。
「藤真さんの怪我についてなら、そこまで分かれば充分だろう? 余計なことを詮索するなよ」
「なんだよ、仙道」
1年生の一人が不服そうに言い返す。
「お前、全然驚いてないけど、もしかして知ってたのか?」
「――神奈川の人間なら、たいてい知ってる」
仙道が素っ気なく答えたとき。
「たっだいまー!」
合宿所全体に響き渡るような大きな声と共に、勢いよく部屋の引き戸が開いて、どやどやと買出しに行っていた集団が帰ってきた。
「うう、暑っちー! 冷たいものくれー」
「帰りの坂、きつかったぜ、マジ」
途端に部屋の中が騒がしくなり、彼らの持ち帰った大量の買い物袋から、これまた大量の食料が所狭しと並べられていく。
「もう、荷物重過ぎっ!」
「先輩たち、俺らに持たせるからって、めちゃめちゃ買いまくるんッスよ?」
食欲をそそる匂いが辺りに充満し、留守番をしていた部員たちも、お裾分けにあずかろうと買い物袋の回りに群がった。
だが、いつもなら要領よくそれらの食べ物を分配する藤真が、部屋に帰ってきてからというもの、畳の上で不機嫌そうに座り込んだままなのだ。
「藤真、どうしたんだ」
不思議に思った花形が声を掛けると、唐揚げを頬張ったままの2年生が、待ってましたとばかりに急き込んでしゃべり始めた。
「よくぞ訊いてくれた花形。あのなあ――」
「言うなったら!」
噛み付くように叫ぶ、藤真の制止も間に合わない。
「――なんと藤真の奴、女子マネージャーと間違えられたんだぜ。地元のお巡りさんに!」
買い出しに行った面々が、その場面を思い出したのか、噴き出すのを我慢しているように顔を歪めている。堪え切れなかった二人ほどが、突然うずくまり、しゃっくりのような笑い声を立てた。
眉を吊り上げて振り返った藤真を、他の2年生が素早くダブルチームで押さえ込んだ。反撃を封じられてむくれている藤真と、思い出し笑いに悶絶する買い出し部隊とを見比べて、花形は困惑気味に呟いた。
「いったい……どうしたんだ?」
「いやあ、実はさ」
2年生の一人がおかしそうに話し出す。通常、藤真の意思に反した行動を取ったらその後の報復が恐ろしいところだが、この件では花形が先を促したのだ。責任は花形が取ってくれるだろうという安心感で、自然と口も滑らかになっている。何より、こんな傑作な出来事を黙ってはいられない、という素振りである。
「俺たち、コンビニを出て少し歩いたところで、お巡りさんに呼び止められてさ」
パトロール中のその警官は、年配の厳格そうな人だったという。もともと人の少ない静かな山際の町だ。深夜にTシャツ短パン姿でぶらぶらと出歩く若者の集団が、不審に思われてしまうのも無理はない。
誰何されて、2年生の一人が答えた。自分たちはC大のバスケット部員で、山にある大学の宿泊施設を利用して合宿をしているのだ、と。
その警官は、大学の宿泊施設の存在を知っているようで――たぶん今までも、時おり学生たちが山を下りてきたのだろう――それほど面倒もなく事情を分かってもらえたが、「山道を歩いていくのだから、早く帰りなさい」と、軽装の学生たちを叱ることは忘れなかった。
ともあれ、早々に放免してもらえそうだったので、C大部員の集団は、軽く頭を下げながらその警官の前を通り過ぎようとした。
しかしそのとき、警官がふと藤真に目を止めて、ひときわ厳しい表情になった。
「君はマネージャーなのかね? 女の子がこんな時間に出歩いちゃ駄目じゃないか」
全く最近の子は、警戒心がないんだから。たとえ部活動でも、男ばかりの集団にたった一人で夜の山道を付いてきて、万が一、間違いがあったらどうするつもりなんだい――。
「――いや、みんな、もうびっくりしちゃって」
話していた2年生が、参ったと言わんばかりに、両手を万歳のように掲げた。
誤解を解くどころではない。他の部員たちはひたすら警官にぺこぺこと謝りながら、無表情に固まってしまった藤真が我に返って怒り狂う前に、どうにか引きずって帰ってきたのだった。
「――誰が女子マネだ。誰が。こんなデカい女がそうそういるか」
周辺が一気に凍て付くような声で、唸るように藤真が言った。
その場にいた部員たちは、藤真に気付かれないように、互いの顔を密かに見合わせた。
平均よりはるかに背の高いバスケット部員に囲まれている藤真を見たら、彼を小柄だと思ってしまうのも、全くあり得ない話ではない。しかも一瞥しただけでは――この繊細な造形を真っ先に見てしまったら余計に――女の子と勘違いしてしまうのも仕方ないことではないだろうか。
買い物に行った先で起きた出来事を知って、部屋に残っていた部員たちは、改めて藤真の顔を見つめた。やはり背の高さがどうこうという前に、この整った容貌が誤解を招いたに違いない。そう思えば思うほど、先ほど経緯を聞いたばかりの額の傷痕が気になってしまうようで、黒田を始めとした1年生たちは、藤真のこめかみにちらちらと視線を投げている。
「――藤真さん、ヘアバンド外しませんか」
突然、仙道が言った。
「え、なんで――」
藤真が怪訝そうに瞳を上げる。
仙道はにっこり笑って指差した。
「それをしてると、女の子みたいに見えちゃうんですよ」
世にも恐ろしいことを平然と言ってのけた仙道に、部員全員が震え上がった。
「――よく言った、仙道。覚悟はできてるんだろうな」
藤真がゆっくりと立ち上がった。これから起こる惨劇を予想した数人が、慌てて壁際に逃げ出しかける。
と、そのとき。
すっと花形が腕を伸ばした。
「――髪、もう乾いたんだから、これ外せ」
くい、とヘアバンドを引き上げ、藤真の頭からそれを抜き取った。
「何するんだよ」
気勢を削がれたように、藤真は仙道に向けていた拳を下ろし、代わりに花形の腕をつかんだ。藤真の抗議には答えず、花形は無言で、少しくせの付いてしまった彼の前髪を片手で梳いて、額に下ろした。露になっていたこめかみの傷痕が、細い髪に覆われてやっと隠れる。
「だから――何するんだ、それ、返せよ」
髪をかき混ぜる花形の片手を押し退け、もう片方のヘアバンドを持っている手に自分の腕を伸ばして、藤真は取り上げられた物を取り返そうと躍起になっている。
「――嫌なんだよ、俺が」
花形は、低い声で静かに言った。
傷痕を見ると、どうしてもあのときのことを思い出すから――喉元まで出掛かった言葉を、寸前で飲み込んだ。
溢れる血、青白い顔。鮮やかにフラッシュバックする光景。
花形は何もできなかった。病院に付き添うことも、藤真の抜けたチームを支えることも。
どんどんと点差が拡がっていくのを、ただ呆然と見ているしかなかった――。
でも、こんな後悔を藤真に向けることは筋違いだということも分かっていた。藤真本人が既に整理を付けていることにいつまでも囚われている花形の方にこそ、弱さがあるのだ。
黙り込んでしまった花形をどう思ったのか、淡い色の目を瞠ってじっと見上げていた藤真が、ふいに視線を伏せた。
そして、花形にしか聞こえないような小さな声で呟いた。
「……分かった。ごめん」
消灯のあと、花形が水を飲もうと1階の食堂に下りていくと、先客の仙道が備え付けの冷蔵庫からペットボトルを出して口に運んでいるところだった。
「――花形さんは、ミネラルウォーターでしたよね」
冷蔵庫を開け、花形のよく飲む銘柄の水を取り出し、渡してくれる。
「仙道、さっきは悪かったな……藤真の傷のこと」
「いえ、かえって裏目に出たみたいで」
仙道が申し訳なさそうに右手を振った。
「藤真さんって、女に間違われるの、すごく嫌がってたから。女の子みたいって言えば、ヘアバンドを外してくれると思ったんですけどね……」
できれば俺も、あの傷痕は見たくないんで、と笑う。
「俺は花形さんみたいに、当事者としてその場にいたわけじゃないですけど……。インハイで藤真さんが怪我したこと、あのときかなり噂になってたんですよ。神奈川の選手はみんな、藤真さんの実力を知ってる。だから、あんなにすごいプレイをする人が、卑劣なやり方で傷付けられたっていうのが、どうにも我慢できなくて」
こういうのも、ある意味で身内意識なんですかね。冗談とも本気ともつかぬ口調で言って、仙道はまた笑った。
「仙道は悪くなかったよ。俺の言い方こそ、全く誉められたものじゃなかったな……」
花形は、ミネラルウォーターのボトルを手の中で転がした。後輩たちに怪我のことを訊かれたときには、さも何でもないような振りをして答えていたくせに、いざ藤真を前にして、他人がその傷痕に視線を向けていると思ったら、居ても立ってもいられなくなった。
「何というか――自己嫌悪だよ」
長いため息を付いて、天井を仰ぐと。
仙道が興味深そうな顔をして、花形を見ている。
「どうした?」
「――いえ」
口元には笑みが浮かんだままだ。
「花形さんの言うことなら聞くんだなあ、と思って」
誰が、と訊くと、「藤真さんです」と当然のように仙道は答える。
「そんなんじゃないよ……」
決して謙遜などではなく、苦々しい気持ちで本心から呟いた。自分の苛立ちを押さえられなくて、それを八つ当たりのように藤真にぶつけただけなのだから、言うことを聞くとか聞かないとか、そういう話ではないと花形は思った。
「――でもやっぱり、俺じゃダメですよ」
肩を竦めて仙道が言った。ほんの一瞬、表情が翳ったように見えた。
「俺が嫌だって言っても――たぶん藤真さんは、ヘアバンド、外してくれなかったと思いますよ」
花形が思わず見返すと、今しがた口にした全てのことをはぐらかすように、仙道がにっこりと笑った。
「さあ、そろそろ部屋に戻りましょう。夜更かししてると、藤真さんの元気に付き合えなくなりますから」
先に立って食堂を出ていく仙道の後姿に、花形は声を掛けようとして、どうしても掛ける言葉を思い付かなかった。
(2003.12.28)