「え――?」
週刊バスケットボールの記者、相田弥生は、手にしていた資料をばさりと机上に落とした。
「ちょっと、あれって……」
驚きのあまり声がうわずる。今、目の前のアリーナで起こっている出来事は、にわかには信じ難いもので――。
「あれは――あれは、C大の藤真君やないの!」
記者席に座ってノートパソコンに向かい、記事を書くことに夢中になっていた間に、とんでもない事態が発生していたようだ。相田は呆然として腰を浮かせた。
例年より早い初雪が降った12月半ば、国立代々木競技場第2体育館では、JBLスーパーリーグ、レギュラーシーズンの試合が行われている。
試合の前半が終わり、選手たちがロッカールームに引き上げたあとのコートで、ハーフタイムのアトラクションが始まっていた。
ミラクルチャレンジと称するそのアトラクションは、だんだんと難易度の上がる位置からシュートを狙うゲームで、試合を観に来た観客なら誰でも参加できる。いちばん簡単なゴール下から始まり、フリースローライン、3ポイントラインを経て、最後はセンターサークルにまで達する計9ヶ所に目印の丸いシートが置かれ、シュートを決めるとその位置によって異なる賞金が与えられる。難易度が上がるごとに金額も上がっていき、最後のセンターサークルでの賞金は50万円。その代わり、一度でも失敗したらその時点までの賞金は全て無効になってしまう仕組みである。
どちらかといえば、素人や小中学生を対象にした、多分に運任せの要素の強いアトラクションだった。
なのに、よりによって藤真が――関東大学リーグ上位校のC大が誇るエースガードであり、学生でもトップクラスの実力を持つ藤真健司が、今まさにこのアトラクションに挑戦すべく、コートに立っているのだ。
相田は何度も目を擦って、まじまじと彼の姿を見つめた。
(まさかあの藤真君が、自分から進んで参加するわけないしね……)
相田の知っている藤真健司は、年齢相応の無邪気さを持ちつつも、インタビューのときなどにはそつのない受け答えをする極めて分別のある青年で、こういうイベントに飛び入り参加をするようなタイプではない。
(どうなってるのよ。いったい……)
「――相田さん!」
突然後ろから呼び掛けられて、相田は振り返った。
記者席の横に、C大の花形透がかなりうろたえた様子で立ち尽くしている。
藤真のチームメイトである彼なら、この状況について何か知っているに違いない――花形とは取材で何度か話をしたことがあり、顔見知りの気安さもあって、相田は挨拶もそこそこに、単刀直入に自分の疑問を投げ掛けた。
「花形君、これ、どういうこと?」
「それが――」
しかし花形も、今起きている出来事を受け止めかねているようだ。気持ちを落ち着かせようと何度か拳を握ったり開いたりしながら、
「藤真は、本当は売店に行こうとしていたんです。なのに、司会の人に声を掛けられて、コートに引っ張っていかれてしまって。俺、離れていたから、止める間もなくて……」
断片的な説明だったが、相田にもおおよその成り行きは分かった。
アトラクションの参加者は、予め希望者の中から抽選で決めている。ハーフタイムの時間を考慮して何人かを選んであるが、思っていたよりもその人たちが早く失敗してしまえば時間が余ってしまう場合もある。
今回はまさにそのパターンで、他に飛び入りの希望者を募っても現れず、困った司会がたまたま目に付いた藤真に声を掛けて――彼の整った容姿は実際かなり目立つのだが――半ば無理矢理に参加させたのだろう。
もちろん、藤真が大学リーグの選手であることには気付くことなく。
「ユージさんも舞ちゃんも、藤真君の顔、知らなかったのね……」
このアトラクションの司会を務めるDJとアシスタントの名を挙げて、相田はため息を付いた。
彼らの仕事は、あくまでもスーパーリーグを盛り上げることだ。その彼らに、直接には仕事に関係のない学生選手の顔まで覚えていろというのは、少々酷な要求なのかもしれないが。
「それにしたって……。学生バスケの超有力選手、藤真君の顔くらい知らないでどうするのよ!」
相田弥生は、不満に満ちた歯ぎしりを漏らさずにはいられない。
「だいたい、週バスの先週号でもインカレの特集を組んどったやないの。私が記事書いて、藤真君の写真だってうんと大きく載せてあったのに! さては二人とも、うちの雑誌を読んでいないってことね~っ!」
「あ、相田さん、相田さん」
少々ずれたところで怒りを露にしている相田を、花形が控えめに引き戻した。
「とにかく、いいんでしょうか。下手に割って入っても、せっかくのアトラクションが白けてしまうでしょうし。けど、このまま続けさせたら、もっと……」
「うーん、そうね……」
相田もようやく真面目に考え込む。彼女の頭の中に、藤真の驚異的なシュート成功率が浮かんだ。
「藤真君が本気出しちゃったら、まずシュートを外すことはないわね」
「ええ……それにあいつ、無理矢理引っ張り出されて、たぶん怒ってるでしょうから……。最後のシュートまで決めてしまうかもしれない」
最も難しいセンターサークルからのシュート――成功したら確かに素晴らしいが、ハーフタイムの余興に過ぎないアトラクションでそんなプロ顔負けのプレイを披露されては、かえって興醒めしてしまう恐れもあり得る。
単に試合を観に来ただけのはずなのに、どうしてこんな成り行きになってしまったのか。
首を振って花形がため息を付く。
「俺にはもう止められなくて……。でも相田さんなら、何か方法があるんじゃないかと……」
週刊バスケットボールの記者という立場なら、花形が思い付かないような方法を考え出して、どうにか藤真を止めることができるのではないか。そんな一縷の望みを花形は相田に対して抱いたらしい。それゆえに、切羽詰まった様子で相田に声を掛けてきたのだろう。
「残念だけど……花形君、私もお手上げだわ」
花形を気の毒に思いながらも、相田は正直に答えた。途方に暮れているのは、花形のみならず自分も同じなのだ。
(願わくは……どうか、藤真君が、手加減をしてくれますように……)
いったいどうして、こんなことになったんだろう。
藤真健司は、代々木第2体育館の観客席を見上げて小さく呟いた。
コートに立った位置からのこの眺めは、既に見慣れたいつもの風景だ。だが、今日は気楽に、観客席の方からコートを見下ろすはずではなかっただろうか。
そもそも彼は、花形を含めた数人のチームメイトとJBLの試合を観に来ていただけなのだ。学生の試合とは異なるショーアップされたスーパーリーグの華やかな雰囲気を、純粋に観客としての立場で楽しんでいたのに。
飲み物を買うために玄関ホールにある売店に向かおうとしていたとき、コートでアトラクションが始まったのは知っていた。
真っ先にチャレンジした中学生の少年と大学生くらいの女性は、いずれも最初のゴール下で惜しくも失敗してしまった。だがそれは素人らしく微笑ましい光景で、会場が和やかな笑いに包まれたのを藤真も好ましく聞いていたのだ。
予定の時間が余ってしまったらしく、司会進行役の男性DJと、アシスタント役の若い女性タレントが掛け合いをしながら、「まだ時間がありますから、もう一人、チャレンジする方、いらっしゃいませんか」と声を高める。
その様子にも、会場にたくさんいる小学生や中学生が先を争って名乗りを上げることだろうと、藤真は特に注意を払っていなかった。
しかし予想に反して、アトラクションへの参加を表明する観客はなかなか現れなかった。
女性タレントがわずかに焦りを滲ませながら場内を見渡す。そして彼女が観客席の通路を見上げたとき、ちょうどそこを歩いていたのが藤真だったのである。
「あ、そこの彼!」
マイクを通した大きな声に驚き、自分への呼び掛けとは夢にも思わず、藤真は反射的にアリーナに目をやった。するとすかさず、
「そう、今こっちを向いたあなた! あなたです! どうですか、チャレンジしてみませんか!」
どうですか、と一応は尋ねつつも、彼女はもう有無を言わせぬ勢いで、藤真を目掛けて階段を上がってくる。
藤真は慌てた。
こういうアトラクションに現役の学生選手が出ても、到底盛り上がるとは思えない。
だいたい毎日いやというほどシュートの練習をしているのだ。素人ではない自分が、シュートの成功に対して賞金をもらうというのは、ずるいことをしているようでどうにも気が引ける。
だから、辞退する理由を念のため告げてみたのだ。
「あの――俺、学生(の選手)なんですけど……」
しかしながら、会場を盛り上げることに使命を感じている女性タレントに対して、この程度の言葉で藤真の意図するところを伝えるのは少し無理があった。
女性タレントは心得たというふうに大きく頷き、親しみ深く満面の笑みを向けた。
「構わないですよ、(素人の)学生さんなんでしょ? ね、チャレンジしてください!」
いや、だから俺は――続けようとした藤真の声は、勢いのある彼女の仕草で遮られてしまった。
「ほらほら、遠慮しないで! こんな経験、めったにできないんですから!」
ぐいぐいと腕を引っ張られ、階段で背中を押される。
我に返ったときには、もう既にフロアへの入り口に立たされていた。
「あ、土足じゃだめ。靴は脱いでね」
小学生に諭すような口調で、女性タレントが振り返って言った。
いつもならこのコートの中をバッシュで自由自在に駆ける藤真だが、今は言われるままに靴を脱ぐしかなかった。靴下だけになった足で、磨き上げられた木目の床を踏み締めるのは、何とも所在のない感じがした。
そして、かすかな苛立ちと共に、彼は小さな呟きを漏らすことになる。
――いったいどうして、こんなことになったんだろう。
「さあ、まずは、ゴール下からどうぞ!」
司会役のDJが高らかにスタートを宣言した。
ボールを受け取った藤真が、すっかり手に馴染んでいる感触を確認するように、何度か軽く弾ませる。それを見たDJが意外そうな表情を作って、場を盛り上げるべくひときわ大きな声を上げた。
「お、なかなか手つきがいいですねえ。これは期待できるかもしれませんよ!」
為す術もなく、気を揉みながらコート上の藤真を見ていた相田弥生は、即座に苦々しく呟いた。
「期待できる、なんて、そんな生易しいレベルじゃないわよ……」
だが、その呟きが司会のDJたちに届くはずもない。
「ユージさん、これまでの最高記録って確か、4番目の位置、フリースローラインまででしたよね?」
「うん、そうだったね。さあ、この彼は、どこまで頑張ってくれるでしょうか!」
今シーズンのスーパーリーグの試合では、これまでも何度か同様のアトラクションが行われているが、女性タレントが言う通り、今までの挑戦者たちはあまり目立った成功を収めていない。
藤真が誰であるかを知らない彼らが、無意識にシュートが決まらないことを前提としたような発言をするのも仕方のないことではあった。
藤真が、目印のシートが置かれたゴール下の位置に立ち、慣れた仕草でシュートを放った。
ボールは綺麗に、ネットを全く揺らさず、すっとゴールへ入る。
「おお! まずは成功、1,000円ゲットです」
次にチャレンジしますか、との問いに、藤真が軽く頷いた。
「やっぱりあいつ、最後までやる気だ……」
相田の隣にいた花形が眉間を押さえて呻き、ぐったりと椅子に沈み込んだ。ああなった藤真は、もう誰にも止められない。
「では次、2番目の位置からどうぞ!」
ミドルポストからのシュートも難なく成功し、次のハイポストも同様に決まる。
これを見て、ようやくDJの表情に訝しげな気配が漂った。
「す、すごいですね。では次、行きますか?」
無造作に後ろに下がった藤真は、フリースローラインからの試投もあっさりと決めた。
「またもや成功とは――! もしかして君、バスケットの経験者ですか?」
ここに至ってもまだ呑気なその問いに、相田と花形は同時に唸り、頭を抱えた。
(経験者どころか……そこにいるのは、バリバリ現役のアシスト王、学生界トップクラスのポイントガードだってば!)
5番目の位置、斜め左からのミドルシュートは、藤真が最も得意とするシュートだ。外すわけがない。
洗練されたフォームでジャンプシュートを決めた藤真に、いよいよ会場のざわめきが大きくなる。観客の中には学生バスケットに詳しい者も相当数いるらしく、最初は遠慮がちだった拍手がすぐに手放しのものになり、「C大の藤真だぜ、あれ!」「やっぱりさすがよね!」といった興奮気味の歓声が頻繁に混じる。
6番目――正面からの3ポイントシュートも、シュッ、という心地好い音を立ててゴールに吸い込まれた。
ここで賞金の額が一気に跳ね上がった。
DJと女性タレントの顔が、心なしか引きつっている。
女性タレントが「信じられません! 最高記録を塗り替えて、その次も軽々と成功してしまいましたね!」と叫んでいる横で、DJが声を潜めて藤真に尋ねた。
「君……、マジでどこかの選手なの?」
「ええ、まあ……」
藤真はため息混じりに呟いた。
だから遠慮するって、あのタレントさんには一応言ったつもりだったんですけど。
そう弁明しながら、藤真は自分の言った言葉を反芻した。
改めてあのときの状況を考えると、本当はもっとはっきり説明をして、きちんと断ってしまった方が、たぶんお互いのためだったのだろう。
そう思うと、こうして意地を張ってシュートをし続けるのも、ちょっと大人気ない振る舞いのような気がしてくる。
藤真は淡々と告げた。
「とりあえず、そろそろ時間もなくなってきましたし……次で外しましょうか」
DJが驚いたように目を向ける。
「だって君……。ここでチャレンジをやめて、賞金をもらうことも、もちろんできるんだよ?」
「でも、俺が賞金もらうのって、何だか反則でしょう? やっぱり次で外しますから、これで終わりってことで」
「外しますからって……」
DJが面食らった様子で口ごもる。
「じゃ――ホントならシュート決められるの?」
「そうですね……」
藤真は苦笑した。
さすがに、センターサークルからのシュートには自信がないけれど。
ディフェンスもいないところでライン上の3ポイントを外すようでは、エースガードは務まらないのである。
「ばっかだなあ、藤真! あそこで次にチャレンジしないで、賞金もらっとけば良かったのに」
一緒に試合を観ていたチームメイトの一人がぶつぶつと零す。
原宿駅へと向かう歩道橋を上りながら、藤真を囲んで、
「そうだよ、お前がシュートを失敗するなんてさ。まあぶっつけ本番だったし、ちょっと勘が狂ったんだよな?」
「だからさあ、あそこでやめとけば良かったんだよ。そうすりゃ、今日の夕飯は、藤真の奢りでうまいもの食えたかもしれないのに……」
わいわいと騒ぐチームメイトたちの言い分を、藤真は怒るでもなく、笑いながら聞き流している。
花形はそっと藤真の腕を引いた。
「――お前、わざと外しただろ?」
そう小声で確かめると、
「もちろん」
藤真はあっさりと認めた。
「だってあんな賞金、もらえないしね」
やっぱり――。花形は深く息を吐いた。
試合の終わったあと、相田から全てを聞いたDJと女性タレントが、帰ろうとしていた藤真に声を掛けてきて、しきりに詫びていた。藤真はもうアトラクションでの出来事を気にする様子もなく、屈託のない笑みで彼らに言葉を返していたが、花形はそれを少し複雑な気分で見ていたのだ。
春のトーナメントと秋のリーグ戦でアシスト王。
新人戦で敢闘賞。
今年獲得したタイトルを並べただけでも、藤真健司という選手の実力が非凡なものであることは分かる。
あっさりとシュートを成功させる藤真の姿を目の前で見ていながら、その実力を推し量ることができずに素人扱いしてしまったことを、DJと女性タレントはさすがに悪いと感じていたのだろう。
そして、頃合いのところで藤真がわざとシュートを外したことも、充分に承知している。結果として藤真に救われた格好になったのだから、彼らにしてみれば、詫びだけでなく、藤真の寛容さに対しても感謝してしかるべきなのだった。
それにしても、と花形は呟く。
「俺は、お前が本気で最後のシュート決めちまうんじゃないかと、全く気が気じゃなかったよ……」
「信用ないなあ。そんなことしないよ」
涼しい顔をして答えた藤真を、花形は軽く睨んだ。
「嘘を付くな。シュートを見ていれば分かるよ。途中までは絶対に本気だったろう?」
「うーん……」
藤真が考え込むように夜空を見上げた。
「ま、確かにね」
「とにかく、思い止まってくれて良かったよ……」
相田さんにも心配を掛けたしな――。慌てていたせいで、今思えば不躾な頼みをしてしまったものだ。
あとでよく謝っておかなければと思いながら、花形はふと、
「そう言えば藤真、あのDJの人とタレントさんに何か伝えていたよな。何を言ったんだ?」
微笑を浮かべた藤真が、軽く左手を挙げてみせた。
「別に。年明けのオールジャパンを是非観に来てくださいって、そう言っただけ」
そして。
年明けのオールジャパンで、藤真は見事、センターサークルからのシュートを――しかもブザービーターで――決めたのだった。
(2003.05.03)