「花形ー、洗濯機、もう止まってるぞー」
バスケットボール部の先輩に声を掛けられ、食堂で少し遅めの朝食を取っていた花形は、慌てて立ち上がった。
「すいません。すぐ出しますんで」
ゴールデンウィークに入ったばかりの休日は、朝からよく晴れて洗濯物を干すのに最適な天気だった。C大の男子体育寮の洗濯室前には、洗濯機の順番を待つ寮生たちが何人か集まっている。男所帯の一般的なイメージとは逆に、寮生の半分ほどは、意外とまめで綺麗好きのようで、階上の部屋からは掃除機を掛ける音もちらほらと聞こえてきている。
花形は洗濯機の蓋を開け、足下に置いておいたプラスチック製の手提げカゴに脱水の終わった洗濯物を移した。
朝食を終え、カゴを抱えて階段を上っていると、藤真と同室であるバスケットボール部キャプテンの山尾が声を掛けてきた。
「お、花形、朝早くから洗濯か」
おはようございます、と会釈をしてから、花形は笑って付け加える。
「朝早くって言っても、もう9時ですよ、山尾さん」
「……〝まだ〟9時だろ。なんでそんなにまめまめしいのかねー。俺なんか、腹が空いてなきゃ絶対、目も覚めねえもんな」
ジャージの上から胃の辺りを叩き、山尾は実際まだ眠そうな表情でぶつぶつと呟く。
「まあ、今日は練習も休みだし、俺は飯食ったらまた寝るけど」
そこへ、同じように洗濯物の入ったカゴを持ったバレーボール部員が通り掛かる。
「なんだ、お前もまめまめしい組か?」
軽く目を見開いて尋ねる山尾に、
「まめまめしい組って何だよ」
と返しながら、その部員はすぐに目尻を下げてにやけた。
「ふっふっふ、俺はこれからカノジョとデートなんだよーん」
だから早く用事を済ませて出掛けるのさ、と、躍り出しそうな足取りで階段を駆け下りていく背中を、山尾と花形は半ば呆れて見送った。
「……なんだ、ありゃ」
「はあ……何なんでしょうね」
「人の恋路だから、別に構わないけどさあ……」
山尾が寝癖の付いた頭をぽりぽりと掻き、ふと思いが及んだというように花形の方を向いた。
「ひょっとしてお前も、カノジョとデートです、なんていうわけじゃないだろうな」
「――まさか!」
俺、彼女なんかいませんよ、と力いっぱい否定する花形を、山尾は憐れみを込めたような表情でちらりと見やり、ふーっと長いため息を付いた。
「分かった、分かった。お前、そう簡単にカノジョなんて作れるはずないもんな。当たり前のことをうっかり訊いた俺が悪かった」
一人で納得したように、じゃあな、と言って山尾が階段を下りようとする。
「ちょっと山尾さん、そりゃないですよ」
情けない声で、花形は訳知り顔のキャプテンを呼び止めた。
「確かに俺、全然もてないですけど……。そんなにはっきり言われたら、やっぱりショックで――」
「あー、違う違う」
面倒くさそうに振り返り、それでもどこかキャプテンらしい思いやりのある口調で、山尾は続けた。
「俺は、お前がもてないって言ってるんじゃないよ。ただ、簡単にカノジョ作れるはずがないって言ってんの」
「……? あの、だからそれがもてないってことなんじゃ……」
「ふうん、やっぱ、あんまり自覚ないわけね」
「は……?」
訳が分からず、花形はきょとんと山尾を見下ろす。
そこへ、たたた、と軽やかな足音がしたかと思うと、半階分上の階段の手すり越しに、藤真がひょいと首を突き出した。
「ああもう、やっと見付けた。山尾さん! 掃除機掛けますから、荷物どけてくださいってば!」
口うるさい母親に叱られたガキ大将のように、山尾がうへえ、と顔をしかめる。
「こいつもまめなんだよな……」
「何ぶつぶつ言ってるんですか。今日こそは片付けてください! 足の踏み場もないんですよ」
「少しくらい散らかってたって、死にゃしないって。適当によけて掃除機掛けとけよ」
「――分かりました」
藤真のよく通る声がすっと低くなる。長い付き合いの花形は、こういう声を出すときの藤真の恐ろしさを嫌というほど知っていた。慌てて山尾に耳打ちする。
「山尾さん、悪いこと言いませんから、自分で片付けた方が――」
まだ状況が把握できず、なんで、と訊き返す山尾に、藤真のきっぱりとした言葉が向けられた。
「分かりました。山尾さんの荷物は全て処分します」
「処分って、お前……」
間の抜けた表情を浮かべた山尾の顔色が、すっかり青ざめていくのにそう時間は掛からなかった。
「おい、もしかしてそれ、全部捨てちまうってことか?」
「もしかしなくても、そうです」
なまじ美しく整った容貌であるだけに、静かに怒りを秘めた藤真の顔というのは、どんな巨漢の激昂よりもはるかに迫力がある。
「俺は、ゴキブリの湧く部屋で暮らす趣味はありません。そういうことで御了承ください」
「え、おい。藤真、待てって」
山尾がおろおろと引止めに掛かる。
「この間買ったばっかりのバッシュもあるんだぜ。そんな殺生な……」
見かねて花形も、容赦なく踵を返しかけている藤真の背に向かって言った。
「藤真。山尾さん、自分で片付けてくれるよ。掃除機掛けるのは、もう少しあとでもいいんじゃないか?」
「――俺は、1か月我慢した」
新学期の部屋換えで、藤真が山尾と同室になったのがちょうど1か月前だ。
「山尾さんには、荷物を片付けてくれるように再三頼んでた。これだけ待てばもう充分だと思うけど」
取り付く島もない藤真の言葉に、いつものリーダーシップはどこへやら、すっかりたじたじとなった山尾が、救いを求めるようにしきりに花形へ目配せをする。仕方なく花形は、藤真を宥めるべく口を開いた。
「藤真、今日1日だけ。今日1日待ってくれ。そうしたら明日はもうお前の好きにしていいから」
「やだ。俺はもう1時間だってあんな汚いところにいるの我慢できない」
いったん決めたことは即実行に移す藤真である。それを思い止まらせるにはどうしたら良いものか。花形は少しの間考え込み、言った。
「藤真、お前、洗濯はもう終わったのか?」
藤真が軽く首を傾げた。くせのない細い髪がさらさらと流れる。
「今、やってるところ。たぶんあと5分くらいで終わる」
「じゃあ、こうしよう」
花形は一つの提案をした。
「これから洗濯物を干したら、新宿まで出掛けよう。お前、欲しいCDがあるって言ってただろう、この間」
「それは……そうだけど……」
「な、だから、新宿に出て、軽く昼飯を済ませて、CD屋に行って欲しいやつ買ってさ。スポーツ用品もちょっと見て回って、帰りに、この間見付けたお好み焼き屋で夕飯食おうよ」
花形が咄嗟に立てた予定に、興味を引かれている様子は窺えるものの、藤真はまだ納得していないように口を噤んでいる。
「藤真。構わないだろ、それで」
少し口調を強めて、花形は根気よく繰り返す。
「そうすればお前は部屋にいなくていいんだし。1か月待ったのなら、あと1日だけ待つのもそんなに違わないだろう?」
藤真が不承不承といった感じで、ようやく頷く。
「分かった……。今日1日だけ、な」
明らかにほっとした顔をした山尾を、藤真はひたと見据えた。
「山尾さん、じゃあ、片付けをお願いします。俺が帰ってきたときには、綺麗な部屋になってること、期待してていいですね?」
「……う。も、もちろん!」
山尾が引きつった笑みを浮かべながら答えたとき、階下から藤真を呼ぶ声が聞こえてきた。
「おーい、藤真ぁ。お前の洗濯終わったぞー」
「すぐ行きます」
答えた藤真が、流れるような動作で階段を下りていく。
「――サンキュ、花形。助かった」
ほう、と息を付いて、山尾が視線を寄越した。
「あー、オソロシ、オソロシ。さすが、怒らせるとすげえ迫力な、あいつ」
喉もと過ぎれば、というのか、のんびりと笑う山尾に、花形は老婆心ながら忠告した。
「山尾さん、呑気に構えている余裕はないですよ。誰でもいいですから何人かに手伝ってもらって、早々に片付けちゃった方がいいです。今日1日だけは何とか宥めましたけど、それこそ明日は、藤真、絶対に容赦しませんから」
「うーん、仕方ねえなあ……」
頭を掻きながら、ようやく腹を決めたように、山尾は大きく伸びをした。
「それじゃ、働きますか。コンバースの新作バッシュ、捨てられたら敵わないもんね」
部屋に戻りかけた山尾が、思い出したように振り返った。
「あ、そうそう、花形。さっきのカノジョの話」
花形が簡単に彼女を作れるはずがない、と言った件を再び持ち出した山尾を、花形は軽く首を振って止めた。
「もういいですよ、山尾さん。何だか今の騒ぎで気を削がれたっていうか……」
「いいから聞けって」
にっと笑って、山尾は藤真が下りていった方向に目を向ける。
「俺がああ言ったのは、お前がもてないっていう意味でじゃない。例えば、さ」
お前の好みの女の子ってどんなのだよ、と、唐突と思われる質問を山尾はした。
「好みのって――。そんなの、何で……」
「いいから、どんなのだよ。ちゃんと考えて答えてみろって」
「それは……」
改めて聞かれると、すぐにはイメージが湧いてこない。それでも山尾の再度の問い掛けに、花形は自分が好ましいと思う事柄を頭の中で手繰り寄せた。
「それは――どちらかと言えばまあ気が強いっていうか……負けず嫌いだけど、何事にしてもはっきりしてて、すごく潔くて……。あと……笑った顔が幼なかったりとか……」
いくつかそれらしき項目を拾い集めて、ぽつぽつと挙げていくと、山尾がにやりと笑みを浮かべた。
「花形。それって全部、藤真のことじゃないか?」
「えっ……」
洗濯物のカゴを取り落としそうになり、うろたえる花形を楽しそうに眺めながら、山尾は更に言った。
「別に変な意味じゃなくてさ。藤真くらい鮮やかで、人を強く惹き付ける魅力を持った人間の側にいたら、それ以外の奴なんて全然目に入らなくなるってこと。藤真以上に魅力のある女の子なんてめったにいやしないから、お前がカノジョを作るのもめちゃめちゃ難しいって、俺はそういうことを言いたかったわけ」
思っていることを伝えて気が済んだのか、まだ混乱してカゴを抱え直す余裕もない花形を踊り場に残し、山尾は悠々と階段を上っていく。
「だいじょーぶ、お前ら、ラブラブだからな。カノジョなんかいなくたってシアワセだろ」
「――ちょっ……山尾さん! 何言ってるんですか!」
もう山尾は何も答えず、屈託のない笑い声を立てながら廊下の向こうへ行ってしまう。
「何てこと言うんだか――」
あまりにそぐわない表現に、呆気にとられて花形は呟いた。
「ラブラブって――ラブラブって――」
「おい花形」
「う、わ! 藤真!」
ぎょっと振り返った先に、藤真の整った顔が間近にあった。腕には、洗い終わったばかりの洗濯物のカゴを抱えている。
「何やってんの? 出掛けるんだろ。早く洗濯物干そうぜ」
「あ、ああ……」
山尾の言葉を振り払うように、勢いよく何度も頷いた。
幸い藤真は、同室のキャプテンの問題発言を耳にしてはいなかったようだ。
(全く、山尾さんがおかしなこと言うから……)
花形は、まだ落ち着かない鼓動を必死に押さえつつ、藤真のあとに付いて階段を上り始めた。
(2002.05.14)