「――アシスト王。C大2年、13番。藤真健司」
朝から降っていた雨はすっかり上がり、代々木第2体育館の、螺旋状に上へ伸びた天井の採光窓からは、夕暮れの眩しい光が射し込んでいる。
6月初めの日曜日。関東大学バスケットボール選手権大会――春のトーナメントと呼ばれる大会は、最終日の決勝戦と順位決定戦を終えて、表彰式に移っていた。
藤真たちの所属するC大の成績は、5位。昨年の1部リーグ7位という結果から考えれば、まずまず及第点といったところである。
「――すげえよな、藤真って。2年になったばかりで、いきなりアシスト王かよ」
素朴な驚きを込めて囁かれる言葉。観客席だけでなく、フロアに整列している各大学の選手たちの間からも、同様の感想が漏れているようだ。
5位決定戦は2試合前に行われたので、既にC大の選手たちはお仕着せのワイシャツとチノパンに着替えている。藤真が前に進み出て、淡々とした様子で記念杯などを受け取った。
「――藤真、機嫌悪そう……」
感嘆の眼差しがあちこちから注がれる中、人もまばらになってきた観客席に座っている、ベンチ入りしていないC大のバスケット部員たちがぼそぼそと言葉を交わす。
「ブロック決勝のとき、N体大に延長で負けたからな。……タイトル取っても、準決勝に残れなかったの、やっぱりめちゃくちゃ悔しいんだろうなあ」
「N体大、大会中ずっと調子悪そうだったのに、何だかんだいっても結局勝っちまうしさ。ここぞって場面に、憎たらしいくらい決めてくるんだよな、あのガッコ」
式が進み、各大学の総合成績が発表され始める。
「そう言えば、うちの個人成績ってどうなってんの?」
「4年の石塚さんがリバウンドで2位、山尾さんが得点4位、小沢さんは3ポイント3位。昨日まで花形がリバウンド10位に入ってたけど、今日の試合でJ大のセンターに抜かれた。まあ出てた時間が短かったからしようがないな。あと、驚いたことに仙道が得点7位に入った」
「おいおい、マジかよ」
フロアでは、いよいよ優勝したN体大の名がアナウンスされた。決勝戦を終えたばかりのため、まだユニフォームを着けているN体大の列から、エースである主将が堂々と前へ出る。
「あーあ、またあの『エッサッサ』、見ちゃうわけね」
「エッサッサ」とは、N体大が勝ったときに、表彰式のあとでN体大応援団が披露する踊りである。白い短パンだけを履いた裸の集団が繰り広げるその光景は、見る者にかなりのインパクトを与えるので、興味がなくても思わず目をやってしまうのだ。
「――いいよ、もう。そろそろ外出てようぜ。表彰式も終わりそうだし」
ややうんざりした表情を浮かべた2年生が、振り返って皆を促す。何人かが即座に頷いて、荷物をまとめた彼らは席を立ち始めた。
トーナメントの表彰式を終えたC大部員たちは、代々木第2体育館をあとにして、新宿にある、いつもよく利用する居酒屋に向かった。
普段から賑やかなC大だが、順位決定戦では負けなしだったこともあり、打ち上げのこの飲み会は初めから明るい雰囲気に包まれていた。現役部員のほかに、OBたちも多数加わって更に盛り上がりを見せている。
2年の花形透も、卒業したばかりの先輩にいいように絡まれていた。初めての公式戦で、長くはないがそこそこのプレイタイムを与えられ、大活躍というわけには行かないけれどもかなりいい感触で大会を終えることができた。
「やっぱりお前は、俺が見込んでただけのことはあるぜ!」と、すっかり酔っ払ったOBに思い切り小突かれ、隣にいた4年生にも手加減なしにヘッドロックの真似をされ、試合の疲れが次第に出始めた花形は、トイレに行く振りをして、ほうほうの体で先輩たちの包囲網から逃げ出した。
(悪い人たちじゃないんだけど……。限度ってものがないんだよな……)
そう言えば藤真はどうしただろう。リバウンドランキングに入らなかった花形でさえ、先輩たちにしつこく捕まっていたのである。アシスト王を取ってしまった藤真を、お祭り好きのC大OBが放っておくはずもない。
見回すまでもなく、真っ先に目に付いたひときわ賑やかな集団の真ん中に、藤真はいた。
表彰式では不機嫌のようだった彼も、ここではかなりはしゃいでいる様子だった。
藤真はとても酒が強いし、部内一と言われた酒豪を巧みに盛り潰してしまったという武勇伝も持っている。助け舟を出さなくても心配ないだろうとは思ったが、さすがにしばらくしたらあの輪の中から引っ張り出してやった方が良いかもしれない。
座はとっくに崩れて無礼講になりかかっている。手頃なところに見付けた空席に腰を下ろし、思わず一つため息を吐き出したとき、
「花形さん、1杯どうですか」
屈託のない口調で、一年後輩の仙道彰が、ビール瓶を片手に持って花形の隣に座った。
「――ああ、サンキュ」
「今日はどうもお疲れ様でした」
にこっと笑った仙道に、花形も笑みを向けた。
「そっちこそ、お疲れ様。で、仙道、悪いんだけど、ビールよりもウーロン茶をもらっていいかな」
「お安い御用ですよ。ウーロン茶でいいんですね」
「悪いな」
仙道は近くにいた店員に声を掛け、ウーロン茶を二つ注文する。
「俺も、実は酔い醒ましが欲しかったんです。OBの先輩たちと一緒じゃあ、ソフトドリンクなんか端から飲ませてもらえないし」
先程までOBの集団に捕まって散々飲まされていた仙道である。アルコールには弱くない方だと聞いているが、さすがに目元の辺りが赤くなっている。
今大会の仙道の活躍は、関東大学リーグで最も有望なルーキーとして入学前から注目を集めていた彼に相応しい、堂々たるものだった。そんな一年生部員をOBたちが見逃すわけがない。親愛の情と賞賛の念が高じるあまり酒を勧めてしまうという、体育会にありがちの展開になっていたことは想像に難くなかった。
「飲み会の流れってだいたい分かってきましたけど、OBの人たちのノリって、また一段とすごいですよね」
「確かにな。でも、そのノリにももうすぐ慣れてくるぞ」
実感のこもった諦めを滲ませて、花形は長く息を吐き出した。
「人間、諦めが肝心なときもある。慣れてしまった方がかえって楽になると思うぞ、たぶん」
「コワイ話ですね、それ」
際限を知らぬかのように賑やかに盛り上がるチームメイトたちを、ある種の感動を持ってしみじみと眺めながら、花形と仙道は顔を見合わせ――先にぷっと噴き出したのは仙道だった。
「笑ってる場合じゃないぞ、仙道。ほんとにコワイ話なんだからな」
「ええ、全く」
深刻そうに頷いて見せたものの、楽しくて仕方ないといった様子で仙道はくすくすと笑い続けた。そして、店員が運んできたウーロン茶を少し飲んだあと、独り言のように呟いた。
「やっぱり、C大に来て良かったな……」
それを聞き取った花形は、はっとして仙道の顔を見返した。
仙道に対しては、C大以外の大学からも推薦入学の誘いがあったのは有名な話だ。
海南大附属高校出身の牧を擁するT大がそうだし、2部リーグだが着実に実力を付けてきたD大などは、彼のポイントガードとしての才能を見込んで熱心な勧誘をしていたという。
しかし仙道が最終的に選んだのはC大だった。
その選択は、周囲の者にとっては意外な決断だっただろう。実際、5月の京王線杯のとき、T大の牧が仙道に声を掛けていたのを、花形は偶然目にしたことがあった。
――どうしてうちの大学に来なかったんだ、と。
同じ神奈川県出身で、インターハイ準優勝の経歴を持つ牧は、仙道の実力を高く評価していたに違いない。何気無い口調にも、隠し切れない残念そうな響きが混じっていたように思えたのだ。
「……仙道。何で、C大に入ろうと思った?」
飲み会の気安い空気と軽い酔いが、素面だったら投げ掛けにくい質問を、ごく自然に花形の口に上らせていた。
少し驚いたように目を上げた仙道が、立てた前髪にゆっくりと手を伸ばした。
「C大にした理由――ですか?」
牧に同じことを訊かれたときには、にっこり笑って答えをはぐらかした彼が、わずかに俯いて考え込む仕草を見せる。
「そうですねえ。例えば、D大に行ってポイントガードをやるっていう道もあったんですよね。ガードの仕事も面白いなって思ったことは確かにあったし」
いつもの飄々とした調子で仙道が言った。
「でも俺、本当はフォワードがいちばん性に合ってるんですよ」
「ああ……それは、そうかもな」
フォワードが性に合っているという言葉は、たぶん仙道の本音なのだろう。高校のときの仙道は、ポイントガードもそれは器用にこなしていたが、自分が何とかしなければという張り詰めた空気をまとっていてどこか窮屈そうに見えたものだ。
その彼が、C大に来てからは実にのびのびとプレイしている。水を得た魚、とでも言ったらいいのか、藤真の巧みなゲームメイクに任せて、実に楽しそうに点を取りに行っているのだ。
「うまいガード、か」
でも――と花形は続けた。
「ガードを基準にするなら、T大でも良かったんじゃないか? あの牧がいるんだから……」
仙道が、今初めて気が付いたというような、意外そうな表情を見せた。
「そう言われると――ほんとにそうですね。花形さん、鋭いところ突くなあ」
「おいおい」
深刻さのないあっさりとした答えは、花形の苦笑を誘った。
「それじゃあ、C大を選んだ理由にならないじゃないか」
「ああ、そうか。すいません」
悪びれたふうもなく首筋を掻くと、仙道は少しの間、言葉を探すように黙った。
「うーん、強いて言えば……。一目惚れって、あるでしょう? あれと一緒ですよ」
「――なに、なに、なに? そこって女の話してんの?」
ちょうど仙道の言葉を聞き付けて、完全に酔いの回った2年生部員が無邪気に口を挟んだ。
「仙道ぉ、もうカノジョ作ったのかよ?」
酔っ払い特有のしつこさで食い下がる同級生を、花形はさりげなく押し退けて、仙道を振り返った。
「……お前、誤解されてるぞ」
「参ったな。でも他にいい言葉が見付からないんですよ」
花形と協力して、酔った二年生部員を手際よく他の一年生に押し付けたあとで、仙道は肩を竦めた。
「牧さんは確かにすごいですよね。でも俺は、藤真さんのパスの方がずっとわくわくするんです。理屈を言えば、スピードとかタイミングとか、いくらでも説明は付くんでしょうけど。そんなことより、あ、この人いいな、一緒にプレイしたいなっていう直感の方がはるかに強烈だし、俺、そういうの、絶対外れないんです」
不思議なくらい確信に満ちた口調だった。
「高校んときの国体の合宿で、藤真さんとも牧さんとも同じチームでプレイしたことあるんですが――直感が働いたのは」
藤真さんと一緒のときでした、と、仙道は笑った。
そうして屈託のない視線を花形に寄越す。
「花形さんこそ、藤真さんと別のチームになるって、考えたことなかったですか?」
藤真も花形も、スポーツ推薦の選手が大半の体育会では珍しい、一般入試で入学した学生である。難関校のC大に受かるくらいだから、学力的にはどこの大学でも選ぶのが可能だったことを、仙道は知っているのだった。
「他のところなんて……考えたこと、なかったな」
仙道の話を聞いていたはずが、逆に質問を返される形になって、花形は少し戸惑った。
大学でもバスケットを続けようと決めたとき、藤真以外のガードと組むことなど、全く思い付きもしなかった。バスケットをすることと、藤真と一緒にいることは、花形にとって切り離すことのできないものだったのだ。
「そうだな。仙道の言葉を借りれば……俺も、藤真に一目惚れしたのかな……」
「じゃあ、似た者同士ってことですね」
楽しそうに仙道が言った。
「似た者同士、ウーロン茶で乾杯しましょうか。素晴らしいガードに感謝――」
「――おい、そこ」
二人が持ち上げたグラスの真上から、突然大きな声が降ってきた。
「なに二人でまったり語り合ってるんだよ。――ああ、しかも、ウーロン茶なんか飲んでやがる」
まさに今、杯を捧げようとした本人が、腕を組んで冷ややかに花形と仙道を見下ろしている。
「よくあの集団から抜け出してこられましたね、藤真さん」
仙道は全く動じない。
「藤真さんもいかがです? ウーロン茶、酔い醒ましにはちょうどいいですよ」
「――醒まさなきゃならないほど飲んでねえよ」
素っ気なく言って藤真は花形の隣に座ったが、いつもと違って足下がだいぶ危うい。
「お前、かなり飲んだな」
「だから飲んでないって。へーき、へーき。ビールなんて水と一緒……」
しかしそう豪語したそばから、口元を押さえて座布団に突っ伏してしまう。
「おい、吐きそうなのか!?」
「吐かない……。でも気持ち悪……」
「全く、こんな飲み方したことなかったのに……。しようがないな。仙道、悪いが、部の救急箱の中に胃薬あったろう、それと、水をもらってきてくれないか」
「分かりました」
「藤真、ほら、横になるならちゃんとそっちに足伸ばせって。本当に吐き気は大丈夫なんだな?」
肩に手を置きながら顔を覗き込むと、藤真の唇が、何かを呟いたようにかすかに動いた。
「何だ、どうした? 気持ち悪いのか?」
「……ちくしょ…………」
藤真が口にしているのは、悔しさを露にした述懐だった。
「見てろよ……。あんな負け方、もう絶対、しないからな…………」
藤真が必要以上にはしゃいで、普段なら軽くかわせる先輩たちの酌をことさらに全部受けていたのは、これのせいか――。
花形はそっと藤真の肩を揺すった。
「藤真。聞こえてるか?」
低いが、はっきりした声で囁く。
「今回は、悔しい思いをさせたけど……。俺も仙道も、お前がいるからここに来たんだよ。お前のパスをもらうために、ここにいるんだ」
聞こえてるか、と再び呟いてから、花形は強い思いを込めて続けた。
「俺は――もっと実力を付けるよ。きっとお前のパスに相応しいセンターになる。だから、もう少し、待っていてくれないか?」
ふいに、藤真が腕を伸ばして、花形のシャツの袖を引っ張った。
「……俺、気が短いんだぞ。そんなに待ってられるか。早くスタメンになれよ」
「うーん、それはちょっと……。リバウンド王取ったこともある、あの石塚先輩が相手だからな……」
「――んだよ」
青い顔をしているくせに、藤真は強い力で腕を振り回す。
「実力付けるって言ったじゃないか」
「はいはい……」
ため息混じりに藤真の背をぽんと叩いた。もはや気分は、駄駄っ子を宥めるのと同じレベルである。
酔っ払いにこれ以上逆らう愚を避けて、それでも花形は心の中で呟いた。
――約束するよ。きっと。
(2002.03.17)