机の上に積み上げられたチョコレートの山に、C大2年の花形透は途方に暮れていた。
2月14日。言わずと知れたバレンタインデーだった。
この時期、大学は後期試験が終わって長い春休みに入っているし、バスケットボール部の練習も明後日まで休みである。彼女のいる幸せな寮生のようにデートに繰り出すこともない。しかし、それも特に残念だという気はなく、今日は一日中寮にいて、のんびりと洗濯と掃除でもしようかと考えていた花形だったのだが。
――お前も、出掛けた方がいいと思うけど。
今朝早く、パジャマ代わりのジャージ姿で眠い目をこすりながら寮の食堂に入っていった花形に、すっかり身支度を整えて味噌汁を啜っていた藤真が、ちらりと視線を寄越して言った言葉だった。それが今更ながら花形の身に沁みた。
大学1年だった去年、藤真はバレンタインで痛い目を見ている。2月14日は授業も練習もないから、高校のときと違って、校門で待ち伏せされて取り囲まれるといった心配はない――そう思ってすっかり安心していたのに、実際には、藤真が入っているC大の体育会の寮までわざわざチョコレートを持ってくる女の子たちの何と多かったことか。
そのたびに寮の玄関まで呼び出され、寮生たちの羨望と嫉妬を一身に浴びながらチョコを受け取っていた藤真は、夕方にはぐったりと疲れ切って、うわ言のように呟いたのだった。
――俺、来年は絶対……絶対に、寮になんかいないからな……。
この固い決意に沿って、藤真は今年、ちょうどバレンタインに重なったC大法学部の入学試験監督のアルバイトに応募したのである。
「花形はどうする? 一緒に申し込んでおこうか?」
確か、11月の初め頃だったと思う。藤真に真剣な声でそう聞かれて、花形は正直言って面食らった。チョコなんて、1年のときはほんの数個、同じ学部の女子学生(それもちゃんと他に恋人がいる)にもらった程度なのだ。秋のリーグ戦でアシスト王を獲得し、更に人気が急上昇、今度のバレンタインはいったいどんな騒ぎになることかと囁かれている藤真とは、そもそも立場が違うのである。
「俺には、そんな必要ないよ」
苦笑を漏らしながら答えると、藤真は呆れたように眉をしかめた。
「何言ってんだよ。お前のファンって結構いるんだぞ。お前に自覚がないだけで……」
そんなやり取りを経て、今日。
花形は、他でもない自分が、去年の藤真と全く同じ目に遇うとは夢にも思わなかった。
それはもう、落ち着いて部屋の掃除などできたものではなかった。何人もの女の子が寮を訪れ、そのたびに玄関横の管理室にいる日直の1年生が花形の部屋まで呼びに来る。廊下や食堂にいる寮生たちにやっかみ交じりの冷やかしを浴びせられ、いちいち花形を呼びに行かされることに耐え切れなくなった日直の1年生に「花形さん! もうそのままここにいてください!」と、遂には泣き付かれる始末。
怒濤のような一日が過ぎて、花形に残されたのは、深い深い疲労感と無邪気にも華やかなチョコレートの山だった。
もはやため息を付く気力も失せ、机に突っ伏していたとき、部屋のドアがノックされた。
「おーい、花形。生きてるか?」
コートとマフラーを着けたままの藤真が、ひょいと顔を覗かせた。バイトを終えて、寮に帰ってきたばかりらしい。
「藤真……」
「――かなり参ってるみたいだな」
チョコの山を見て、くすくすと藤真が笑う。我ながら情けない姿だと思いつつ、花形は嘆息した。
「去年のお前の気持ちが、ほんとよく分かった……」
「だから、俺の忠告を真面目に聞いてりゃ良かったのに」
得たりとばかりに晴れやかに微笑む藤真が、少々恨めしく思える。
そんなことを言ったって、去年と今年でここまで状況が一変するとは誰も思わないじゃないか――そう言い掛けて、花形は藤真の手元に目を留めた。
チョコレートがぎっしり詰まっている大きな紙袋。花形が女の子の応対にてんてこ舞いだった間、藤真宛てのチョコも続々と届けられていた。ただ、本人が不在だったので、残念そうなため息と共に、それらのほとんどが管理室に預けられていったのだ。
「それ、管理室にあった分だろ? すごい量だな」
藤真が軽く肩を竦める。
「まだあと少しあるらしい。いったん部屋に戻って、もう一回管理室に取りに行かないと」
チョコの大群を前にして、途方に暮れる気持ちはきっと花形と同じなのだろうが、そこは経験の差か(あるいは諦めの境地なのか)、藤真の表情に動揺の色はない。
「――藤真。ちょっと、聞いていいか?」
対して、パニック寸前の花形はチョコを凝視しながら尋ねた。
「いったい、どうしたらいいんだ、これ……」
上から下まで、全てチョコ、チョコ、チョコ。人間、こんなにチョコレートを食べられるものなのだろうか?
「そりゃ、全部食うのが、男の心意気ってもんだろう?」
薄い茶色の瞳をいたずらっぽく輝かせた藤真が、ぎょっとするような答えを返す。
「全部……。これを、か……?」
花形は絶句した。
何であれ、人から贈られたものは大切にしたい。自分に対して心を込めて贈られたものならなおさらだ。しかし今回に限っては……。花形は頭を抱えたくなった。
「ああもう、馬鹿だな。本気にするなって」
藤真の涼やかな声が、落ち込みかけた気持ちに歯止めを掛ける。
「お前の性格じゃ、自分へのプレゼントを他人へあげちゃうとか、できっこないのは百も承知だよ。だけど、限度ってものもあるだろう?」
藤真がチョコの山を振り返った。
「だからさ、これ全部食べなくても、それぞれをちょっとずつ食べれば、一応気持ちは受け取ったってことで許されるんじゃないか?」
そして、花形が食べ切れなかった分は他のみんなに食べてもらえばいい。そうやっておいしく食べた方が、贈ってくれた人に対しても礼儀に適っているのではないか――藤真は続けた。
そういう考え方もあり得るのか。首を傾げているうちに、花形には思い当たることがあった。
言われてみれば、去年のバレンタインのあと、寮の談話室にチョコレートがふんだんに置いてあって、寮生がみんなで食べていた。あれは藤真が持ち込んだものだったのだろうか。
花形が尋ねると、ああ、と藤真が頷いた。
「高校まではさ、それでもできるだけ自分で食べるようにしてたんだけど。さすがに去年は数が多過ぎて」
それで、やむを得ず前述のような手段を取ったのだという。
もっともプレゼントの数そのものがかなりあったので、少しずつといっても最終的には藤真は結構な量を食べる羽目になったはずだ。それでも、贈ってくれた人の気持ちを考えると、封も開けないまま誰かにあげてしまうというのには抵抗があったのだろう。
花形の四角四面な義理堅さをたしなめる藤真とて、何のことはない、負けず劣らず不器用なほど律儀なのだった。
何だかおかしくなって、花形の肩からようやっと力が抜けた。
「変なこと聞いて悪かった。食べ切れないほどチョコをもらうなんて初めてだったから」
それにしても、と花形は呟いた。
「どうして、こんなことになったんだろう……」
藤真が、驚いたように目を見開いた。
「どうしてって、そんなの、2年になってからのお前を見てれば当然だろ?」
「……なんで?」
花形には思い当たる節がない。一応、去年と違ってベンチ入りはしたし、プレイタイムもそれなりに与えられた。しかしまだスタメンになったわけでも、ましてやタイトルを獲得したわけでもない。
「――あのさ、お前、ほんとに自覚ないの?」
腰に手を当てて、詰問口調の藤真が睨んだ。
「S大戦のダンク、N体大戦のブロックショット、T大戦の3ポイント、それにM大戦のアリウープ! これだけやってりゃ、嫌でも目が向くって」
「そ、そうか?」
藤真の勢いに気圧されて、花形は口ごもった。
「でも、それくらいはどこのセンターでもやってただろう?」
「そういう問題じゃなくて」
藤真が畳み掛ける。
「女っていうのは、格好良い奴には驚くほど敏感だってこと」
今季初めて花形のプレイを目の当たりにしたであろう彼女たちにとって、スタメンかどうかなんてきっと些細なことに違いない。そんなことに関係なく「自分にとってのベストプレイヤー」を見付け出す才能が、彼女たちにはきちんと備わっているのだ――。
「格好良い……俺が、か?」
納得するどころか、花形はますます分からなくなった。藤真のように華のある選手ならともかく、自分などをそんなふうに見てくれる女の子が果たしているのだろうか。その証であるはずの山ほどのチョコを前にしても、花形には実感が湧かなかった。
「……全くもう、お前ほどのセンターが何言ってんだよ」
じれったそうに、藤真は綺麗な髪を乱暴な仕草でかき回した。そして、盛大なため息を漏らしたあと、低い声できっぱりと言った。
「いいか、いちばんそばでお前のプレイを見てる俺が保証する。――俺が女だったら、とっくにお前にチョコやってるよ」
人差し指を花形の胸に突き付け、藤真が笑みを浮かべる。
その笑顔を呆然と見つめているうちに、ようやく花形の気持ちの中で、「格好良い」という言葉が存在感を持ち始めた。
「藤真は……、俺を見て格好良いって、そう思ってくれてるのか?」
遠慮がちに問い掛けると、
「今更、そんなこと聞くな」
即座にぶっきらぼうな言葉が返ってきた。
――格好良いと思ってないなら、5年も一緒にプレイしてねえよ。
コートの上でアシストパスをくれるときの、あの生き生きとした鮮やかな表情を見せて、藤真は誇らしげに笑った。
「お前は、この俺がいちばん信用してるセンターなんだ。人気くらい出てくれなきゃ、俺の立つ瀬がない」
「……どういう理屈だよ、それ」
軽口を笑って受け流しながら、無性に嬉しくなって、花形は目の前にいる最高のポイントガードの髪をくしゃくしゃと撫でた。
どんなチョコレートも、彼のたった一言には敵わないのだ。
~ reprise ~
じゃあな、と言って部屋に戻ろうとした藤真が、ふと思い出したように自分の荷物をごそごそと探ってスーパーのビニール袋を差し出した。
「そうそう、これは俺から愛を込めて」
何、と花形が尋ねると、「塩せんべい」という答えが返ってきた。
「…………お前の愛は塩せんべいか!?」
教訓だ、と藤真が厳かに断言する。
「俺は去年、これで乗り切った。甘いのと塩辛いのを交互に食べれば、何とかなるって」
悲壮な決意ながら、同志を得て心強く思ったのだろうか、藤真はしみじみと花形を見上げた。
「――健闘を祈る。頑張ってチョコ食おうな」
(2000.02.14)