「観に来てたのか」
花形は客席の階段を降りながら、並んで座っている二つの背中に声を掛けた。
「――よう、花形」
振り向いて笑い返したのは、高校時代のチームメイトである高野と永野だった。花形は二人の横に腰を下ろした。
「久し振りだな。元気そうじゃないか、二人とも」
関東大学バスケットボールリーグ戦――開幕したばかりの1部リーグの試合会場、代々木第2体育館である。まだ暑さの厳しい9月の半ば、冷房は効いているが、先程試合を終えて着替えてきたばかりの花形には、やや蒸し暑く感じられる客席だった。
「いい試合だったぜ」
「花形。お前、格好よかったじゃん。藤真のパス、全部決めただろ」
高野と永野が高揚した声で言った。
リーグ第1週、藤真と花形の在籍するC大は、昨年2位のS大と対戦した。昨日の試合では3点差で負けたものの、今日は10点差を付けての勝利を収めたのだ。昨年7位だったC大にとって、この白星は大きい。
まだスタメンではないが、花形は、2年になってから4年生センターの控えとして重要な役割を果たしている。今日の試合でも、流れを変える場面で確実に得点を重ね、チームの勝利に貢献していた。
「しっかし、藤真はすごかったな」
俺ら、後半からしか観てなかったけど、と言いながら高野が指を折る。
「後半だけでも7、8本、アシストしてたんじゃないか?」
2年生ながら、春のトーナメントでスタメンに抜擢され、6月末の新人戦でも主将を務めた藤真は、今大会で最も注目されている選手の一人だった。
苦笑交じりに花形が言った。
「今日の試合、トータルで14本だよ」
日本リーグのアシスト王でさえ一試合の平均アシスト数は6本弱である。控えのいる実業団選手とほぼフルタイムでコートにいる藤真とでは、出場時間に差があり単純な比較はできないが、それを考慮してもなお14本というのは尋常な数字ではない。
本数を聞いて呆気に取られていた高野と永野が、ふと辺りを見回した。
「あれ、ところで藤真は?」
他の大学に通う高野と永野には、こんなときでもなければなかなか会う機会はない。いつもならそういった友人には真っ先に駆け寄ってくるはずの藤真の姿が見えないのに、二人は疑問を感じたらしい。まだロッカールームにいるのか、と問い掛けられた花形は、反対側のアリーナ席を指差して答えた。
「藤真なら、ミーティングしながら試合観てるよ」
現在フロアで行われているのは、昨年リーグ1位のN体大と、2部から昇格してきたM大との対戦だった。N体大は優勝候補の筆頭であるからその試合を見逃すことはできないし、M大は昨年まで2部だったため選手に関するデータが少ない。監督やマネージャーと共に真剣な面持ちで試合を見守る藤真は、ゲームを組み立てるポイントガードの目で、両チームの動きに対して冷静で的確な分析を行っているに違いなかった。
「たぶん、ハーフタイムにはこっちに顔を出しに来るんじゃないかな。試合が終わったら一緒に飯でも食いに行こうって言ってたぜ」
久し振りに顔を合わせたかつてのチームメイトである。そんな話がまとまるのも自然な成り行きだった。
何を食べに行くか、などと呑気な話題に移ろうとしたとき、観客席から感嘆の声が上がった。N体大のガードのパスが、綺麗にインサイドのセンターに通ったのだ。そのままセンターがシュートを決めると、N体大の応援団が大きな声を上げて称えた。
「ふーん、あれがN体大のエースガードってわけか」
高野が、手に持っているリーグ戦のプログラムをめくった。各校の選手紹介に続いて、ポジション別に注目の選手が特集されている。ポイントガードでは、N体大の彼と藤真、それに海南大附属高校出身でT大に進学した牧を加えた3人が、必見の選手として並べられていた。
花形たちは何となくしゃべるのをやめて、試合を観ることにしばし没頭した。その間、何度かN体大ガードの好プレイがあり、会場は再び沸き立った。
だがやがて、高野が興味を削がれたようにアリーナから目を離し、ぼそりと言った。
「――あれなら、藤真のパスの方がうまいぜ」
花形は思わず高野を振り返った。
同じチームで直接パスをもらう立場にある花形は、藤真とN体大のガードとを比較する際にどうしてもプレイヤーとしての主観が入ってしまう。高野たちのように観客として見た場合、どのような評価を下すのか、聞いてみたい気がした。
花形の視線を受けて高野が頷いた。
「スピードと視野の広さだけを取っても、どっちも藤真が上だ。それに何よりも、パスを受ける相手を藤真はよく見てる」
「――どういうことだ?」
「つまりさ」
高野がN体大のガードを目で示した。
「あいつ、さっきシューターにパスしただろ。どうにか決まったから誰も何も言わないけど、あれはパスが良かったんじゃない。シューターがたまたま早めに気付いてタイミング合わせただけだ」
話にならない、と言わんばかりに手を軽く振って、高野は続ける。
「――ありゃあ、チームメイトをちゃんと分かってない証拠だ。あんなぞんざいなパス、藤真なら絶対に出さない」
そう言えば、と懐かしそうに永野が言った。
「藤真って、1年の頃の俺たちには、スピード落としたパスをすごく丁寧にくれてたんだよな」
「――そうだったのか?」
意外な言葉を聞いて、花形は首を傾げた。
高校1年――その頃の自分の記憶といったら、藤真のパスが取れなくて悩んでいたことに尽きる。加減したパスをもらった覚えなどないのだが。
「本当だよ」
永野が肩を竦めた。
「不本意だけど、あの頃の俺たちじゃ、藤真からアシストもらったって失敗するのがオチだっただろう?」
「ただ、言っとくけど、それは1年の時に限る話だからな」
負けず嫌いの高野が、すかさず口を挟む。
「何せ、血の滲むような努力をしてレギュラーになったんだ。スタメンになってからの俺は一味も二味も違ってたぜ」
分かってるさ、と永野が苦笑を漏らしながら鼻息の荒い高野を宥める。
花形は記憶を辿った。既にスタメンの座にありエースとして誰もが認めていた藤真と、1年生の中では有望株として期待されていたものの、まだベンチ入りも果たしていない花形たちとでは、練習で5対5を行う場合にも同じチームになることは少なかった。だが、そんな少ない幸運に恵まれたとき、藤真のパスを受けた者は、いつもよりもはるかに無駄のない動きを見せてシュートを決めていたのだ。
それを思うと、藤真が彼らに合わせたパスを出していたというのも、かなり説得力のある話だった。
「じゃあ、俺って、ものすごく下手だったってことか……」
ため息と共に、花形は呟いた。中学時代、あまりスピードを重視しないチームにいたこともあって、高校に入学して初めて藤真とプレイした際には、その正確で速い動きに花形はただ驚くばかりだった。藤真のパスが取れないのは速さに慣れていないせいもあるのだと、滅入りがちな気持ちを慰めていたことも当時あったのだが、どうやら高野と永野の話を聞いていると、そんなささやかな言い訳も通じない状況だったようだ。
だとすると、――つまるところ、スピードを落としてもらったパスすら取れないくらい花形が下手だったということで。
もっとも昔はどうであれ、今は藤真のパスが取れないで悩むなどということはないのだから、済んだことだと笑い飛ばしてしまえばいいのだろうが、なかなかそうもいかないのが現実だった。
「藤真のパス、俺、全然取れなかったもんな……」
肩をがっくりと落として、花形が大きく息を吐いたとき。
高野と永野が奇妙な表情で互いに顔を見合わせ、まじまじと花形を見返してきた。
「な、何だ?」
びっくりして問い掛けると、
「――そりゃ、取れないだろうよ」
高野が納得したように呟いた。
「だって、藤真、お前に対しては全然手加減してなかったもん」
「え――?」
聞き返す花形の声は、N体大応援団の大声にかき消される。場内が再び静けさを取り戻してから、高野はおもむろに口を開いた。
「藤真はさ、スタメンの3年生に対するのと同じパスを――いや、ひょっとするとそれ以上のすごいパスを、平気で花形に出してたんだよな」
あれは、取ろうと思ったってそうそう取れる代物じゃないぜ。そう言い合って、高野と永野は視線を花形に振り向けた。
「そう……なのか?」
花形は釈然としない。スタメン並のパスを寄越されていたのなら、当時の自分が付いていけなかったのにも理由がある。だがそうなると今度は、取れないと分かっていながら、藤真がなぜ花形に対してだけそんなパスを出したのかが、なおさら疑問に思えた。
「なに不思議そうな顔してるんだよ」
花形の背中を、永野が軽く叩いた。
「簡単なことだろう? それだけ藤真が、お前のこと買ってたってことじゃないか」
「――まさか」
いちばんあり得ない仮定だ。花形は苦笑した。あの時点では、藤真がそこまで自分を評価する根拠が全く見当たらない。
一笑に付した花形に、別段気を悪くしたふうもなく永野は淡々と言った。
「俺たちだってまさかと思っていたさ。――しかし、そのまさかだったんだよ」
「……言っちゃ悪いけど」
今度は高野が口元に人の悪い笑みを浮かべる。
「あの頃の俺は、先輩や俺たちを差し置いて、花形が頭一つ抜きん出るなんて全然思ってなかった。たぶん、当時のスタメンだってみんなそうだったと思うぜ」
でも、と高野がアリーナ席に視線を向けた。
「きっと、藤真にだけはもう分かってたんだよな……」
――花形がここまでの選手になることを。出会って間もない高校1年のときに既に、藤真は見抜いていたのだ。だから。
「現に今、あのときのチームメイトの中で藤真の隣にいるのは花形だけだろう?」
それが何よりの証拠じゃないか。そう言って、永野が笑った。
「今の藤真は、学生では間違いなく五指に入るガードだよ。そんな藤真のプレイに付いていけるのは、もう俺たちの中じゃお前だけだって」
あまりにも分に過ぎる評価をされているような居心地の悪さに、花形は憮然と言葉を返した。
「そうは言っても、俺、まだスタメンも取れてないんだぞ」
「――時間の問題だろ」
永野はしかし、いともあっさりと答えを返す。
「お前のところの上級生って、かなりいい線行ってるしな。でもさ、さっきの試合で、お前と藤真で速攻出しただろ? あれ、思わず鳥肌立ったくらいすごいタイミングだった。あそこまで息が合うのは、お前たちだからこそじゃないか?」
静かで真摯な口調だった。いつもならまぜ返す高野までもが、永野の言葉に沈黙で肯定を示している。花形は戸惑った。
「……サンキュ」
何とかそれだけ口にしたものの、どうも決まりが悪くて、照れくささを隠すために呟いた。
「――いくら俺を誉めたって、何も出ないぞ」
高野と永野が小さく笑った。
「何だ、ばれたか。今日の夕飯くらいは奢らせようと思ったのに」
花形の感謝と気恥ずかしさを汲み取って、しかもそれらを冗談に紛らわしてくれる心遣いは、かつてのチームメイトならではの温かいものだ。
3人でしばらく笑い合って、前半残り数分となった試合に目をやる。
ボールを視線で追う花形の耳に、高野の独り言のような声が聞こえた。
――お前たち、ほんとに俺らには手の届かないところまで行っちゃったんだな。
ハーフタイムに入り、観客がざわざわと動き始めた。アリーナ席の藤真が花形たちに向かって手を振る。高野が手を振り返すと、藤真は席を立って階段を上り始めた。
「お、こっち来るかな」
高野と永野が嬉しそうに言い合う傍らで、一人花形は眉を寄せた。――そう、何事もなければ、ここまで来られるはずなのだが。
「何だよ、花形。心配そうな顔して……って、あれ?」
高野が間の抜けた声を上げた。客席の通路まで出たところで、藤真が観客の女の子たちに捕まってしまったのだ。どうやらサインを求められて、差し入れか何かを渡されているらしい。藤真はペンを持ち、かわいらしい包みに頭を軽く下げている。当惑しているようなその様子は妙に微笑ましかった。その騒ぎに気付いた他の観客が、入れ代わり立ち代わり藤真に近寄ってきてまたサインを求めている。
「すげえな、相変わらず」
藤真の人気は高校の頃から絶大だった。高野が呆れ顔で口笛を吹く。
「――まあ、物慣れないのも相変わらずだけどな」
花形の答えは笑いを含んだ。もう何年も前からサインやら握手やらを求められていて、いい加減にスマートなあしらい方を身に付けても良い頃だと思うのだが、藤真ときたら、サインは楷書の名字のみ、愛想笑いもどこかぎこちないといった具合だ。
――いったい俺のどこがそんなに気に入られてるのか、分かんないんだよ。
だからどうしても困惑の方が先に立ってしまうのだ――これは、自分の魅力に全く無頓着な本人の言である。
「あーあ。あれじゃ、こっちには来られないな……」
結局、次々に女の子たちに囲まれてしまって、藤真はほとんど最初の場所を動くことができなかった。やがて、後半開始3分前の笛が鳴る。
はっとしたように3人のいる方を向いた藤真に、花形は「いいから戻れ」と手を振って合図をした。
藤真は何かを考えるふうに俯いた。かと思うと、すぐにぱっと顔を上げ、いきなり大声で呼んだ。
「――高野、永野!」
無邪気に笑って、両手をいっぱいに振る。
「俺、夕飯は焼肉食いたい。うまい店知ってたら教えてくれ!」
くるりと踵を返し、何事もなかったように自分の席へと戻っていく藤真――その涼しげな後ろ姿をただ呆然と見送る花形たちをよそに、一瞬静まり返った観客席からは、やがて堪え切れないような忍び笑いがあちこちで上がった。
3人は同時に深い深いため息を漏らした。あれが、試合中に鋭く指示を出していたのと同じ口から発せられた言葉だとは、あまり信じたくない。気高ささえ感じさせるような表情で、研ぎ澄まされたプレイを披露する藤真を、プログラムの記事は「華麗なエースガード」と評していたが、それが気の毒になるくらいに「華麗」という表現には程遠い発言である。ただ、イメージとは掛け離れた藤真の言動にすっかり慣れてしまっている花形たちにしてみれば、もはや諦めに似た気持ちしか抱きようがない。
「――焼肉屋なんか、この辺にあったか?」
何とか気を取り直したように、永野が言う。
「どうだったかな。新宿まで戻ればあるけど……」
「でも、そこって食い放題? 痩せの大食いっていうの、藤真のためにある言葉だからな。放っといたら、4人分くらい平気で食い尽くすぞ?」
知らず声を潜めて問い返す高野の言葉に、それぞれの脳裏を高校時代の壮絶な食料争奪戦の光景が駆け巡る。
再び、深いため息。
早くも店探しの心配を本気でしなければならなくなった3人であった。
(2000.01.09)