双璧

国立代々木競技場第1体育館は満員の観客で埋め尽くされていた。
ギガキャッツのポイントガード、牧紳一は、ベンチに座って場内をゆっくりと見渡した。
実業団に入ってから、最初の何年かはこうして体育館の観客席を見上げるとき、常に「彼」の姿を探していたものだった。
しかしいつの頃からか、それもやめてしまった。来るはずのない者をあてもなく待つほど、牧は失望することに慣れていなかったのだ。
思えば「彼」は、バスケットボールをやめてから、一度も牧の試合を観に来たことはなかった。それでも今日ばかりは、たぶんここに来ることはないその姿を求めて、観客席に視線を注がずにはいられなかった。
今日のゲームが、牧にとって現役最後の試合となる。
これは誰にも告げていない、牧の胸だけに止めている引退の決意だった。
バスケットボール日本リーグ、プレイオフ決勝。
過去2年のチャンピオンチームであるギガキャッツが、日本リーグ3連覇を賭けて戦っているのは、昨年2位のレッドサンダースだった。
プレイオフに入ってからのレッドサンダースは、初優勝の機会を昨年あと一歩のところで逃した悔しさを原動力に、粘り強いディフェンスと緻密なフォーメーションを武器として圧倒的な強さで勝ち上がってきた。決勝の第1戦ではその強さを存分に発揮し、ギガキャッツを14点差でねじ伏せさえしたのだ。
だが、ギガキャッツも黙ってはいなかった。日本を代表する名ガードと称えられる牧が、28得点6アシスト11リバウンドという活躍で第2戦を勝利に導き、王者の貫禄を示したのである。
そして、1勝1敗で迎えた決勝第3戦。
第2戦から1日空いていたが、疲労と緊張はピークに達していた。ギガキャッツの3連覇は、主将でありエースガードである牧の肩に掛かっていると誰もが思い、大きな期待を寄せている。負けるわけにはいかなかった。これが最後の試合になるのならばなおさらに。
大きなため息が牧の口から漏れた。皆が自分に寄せる信頼と期待が、ひどく重く感じられるようになったのは、いったいいつからだろう。そんな疑問が頭の片隅を過ぎったのを打ち消すように、両手で軽く頬を叩いたとき。
牧は息を飲んだ。
「彼」が、いた。
一度確かめただけでは分からないようなはるか後方の席から、彼は牧を見つめていた。
藤真健司。
高校時代から好敵手として、牧と並び称されたポイントガード。
別の大学に進学してからも、それぞれが主将として関東1部リーグのチームを率い、何度も優勝を競い合った。
ポイントガードという同じポジションにありながら、藤真は牧とは全くタイプの異なる選手だった。鮮やかなシュートと的確なパスを持ち味とするスピード感に溢れた彼のプレイは、ライバルという言葉だけでは表し切れない強い感情を牧に抱かせたのだった。
あれは、自分とは全く違った才能を有する者に対する、強烈なまでの憧れだったと、今なら分かる。
場内のライトが絞られた。テンポの良い音楽に乗って、両チームの選手紹介が始まろうとしていた。
「――ギガキャッツの選手をご紹介いたします!」
大きな声援に包まれて、牧はスポットライトの中へ歩き出した。
「4番、牧紳一!」
軽く腕を上げると、場内の拍手が一層大きくなった。
藤真の姿を観客席に見出してから、牧は落ち着きと自信とを取り戻していた。それだけではなく、かつて試合の中で味わったことのない、心地好い高揚感が身体の奥から湧きあがってくるのを知った。
藤真の視線を背中に感じながら、牧はティップオフで高く上がったボールに意識を集中した。

やがて、代々木第1体育館を大歓声が揺さ振った。
試合終了のブザーも、割れんばかりの歓声にかき消されてしまったようだった。実況中継のアナウンサーが興奮した様子で叫んでいる。
「ギガキャッツ勝利! 昨年のチャンピオンチームはやはり強かった! プレイオフを制したギガキャッツは、日本リーグ3連覇という偉業を達成しました!」
チームメイトたちが牧に駆け寄り、口々にその名を呼びながら抱き付いた。
色鮮やかな紙テープが場内を舞う。監督の胴上げのあと、もみくちゃにされながら牧も胴上げの主役となった。
ヒーローインタビューを終えて観客席を見上げると、そこにもう藤真の姿はなかった。
優勝を喜び合う仲間たちの輪の中から牧は駆け出した。怪訝そうに制止する声を後ろに聞きながら体育館の外へ出ると、辺りには夕暮れが迫っていた。
牧の足は無意識に、第1体育館の隣にある第2体育館へと向かっていた。ここは、大学時代に数え切れないほど試合を行ってきた場所だった。
日中は春の気配を含んでいた風が、寒さを感じさせるほどに冷たくなり乾いた音を立てて吹き抜けていく。石畳の道を辿って第2体育館の前に出ると、そこには藤真が一人で佇んでいた。
「――藤真!」
螺旋状の屋根を見上げていた彼が、振り返って目を瞠った。
「牧……」
7年振りの再会だった。
藤真は背広の上に落ち着いた色のハーフコートを着ていた。端整な容貌は学生の頃とほとんど変わらぬまま、勤め人らしい地味な服装に慣れた様子が、牧をはっとさせた。
藤真がバスケットに関わらずに過ごした、7年という長い時間のことを、牧は思った。
大学時代、関東の名門校でエースガードとして活躍し、何度もアシスト王に輝いた藤真。
牧だけでなく周囲の誰もが、藤真は実業団に入って大学卒業後もバスケットを続けるものだと信じて疑わなかった。しかし彼は、その道を選択せずに、バスケットボールとは全く縁のない企業へ普通に就職したのだった。
「……優勝、おめでとう」
藤真が口を開いた。
「いい試合だったよ」
何を答えればいいのか、牧はすぐには思い付かなかった。
「お前が俺の試合を観に来たのは、今日が初めてだな……」
そう呟いてしまってから唇を噛んだ。こんなふうに言ったら、藤真が来るのをずっと待っていたのだと白状しているようなものだ。
牧の言葉をどう取ったのか、藤真は屈託なく微笑して言った。
「確かに会場には来たことがなかったけど、テレビでよくギガキャッツの試合を観ていたよ」
牧にとっては意外な答えだった。
「それは嬉しいが……」
口ごもって牧は更に尋ねた。なぜ今日に限って観戦に来たのかと。
藤真が少しためらうように足下に視線を落とした。
「今日の第3戦は――どうしても直に観なければいけない気がしたんだ。なぜだかは分からないけれど」
一昨日のプレイオフ第2戦。牧のプレイを衛星放送で観ていたらそんな衝動に駆られて、忙しい仕事の合間を縫ってとうとう代々木まで来てしまったのだと微笑む。
牧は思わず、今まで誰にも告げていない決意を、初めて藤真に打ち明けた。
「俺は――今シーズンを最後に、現役を引退しようと思っている」
藤真は静かに、そうか、とだけ呟き、頷いた。
たぶん、他の人間にこの決意を告げたならば真っ先に言われるだろうこと――まだ限界じゃない。まだ29歳じゃないか。大きな故障もなく、順調に行けばあと5年はプレイできるというのに、なぜ絶頂にある今、引退をしようなどと考えるのか――。
こういう質問を、藤真はただの一つも牧へ向けなかった。
今日の牧のプレイを観ただけで、藤真は全てを理解したのだ。
頂点に立ち続けることの重圧を。
王者と呼ばれることの孤独を。
そして――牧がもはやその孤独に耐えられなくなっていることを。
「どうして……バスケットを続けなかった?」
気が付けば牧は、今までずっと訊きたくて、しかし訊けないでいたことを、急き込んだ口調で藤真に尋ねていた。
引退を決めた今なら、やっと訊ける。そう感じた。
藤真はすぐには答えなかった。
しばらくの間、第2体育館の空へと伸びる螺旋状の屋根をじっと見上げていた。吹き抜ける強い風が、牧のウォームアップスーツの裾をなびかせ、藤真のコートの端をすくい上げた。
「何回、ここで戦ったのかな。牧と」
牧と過ごした時間は、本当に充実していて、楽しくて。
そして、途方もなく苦しかったよ――。
そう言って藤真は寂しそうに笑った。
「怖かったんだ。一緒に戦う時間が素晴らしいほど、それを失うことを考えたら、居ても立ってもいられなくなった……」
「どうして――」
牧には分からなかった。
「どうしてそんなことを考えたんだ。バスケットをやっている限り、お前と俺は戦い続けるじゃないか」
藤真が小さく首を振った。
「俺は――牧とは違う」
揺るぎない闘志と、世界を相手に戦う自信。
牧にあって、藤真にはなかったものだった。牧がバスケットの頂点を目指すとき、それらを持たない藤真は、きっと遠からず牧のライバルではあり得なくなるだろう。
取るに足らぬ選手として牧に忘れられてしまう前に、自分で決着をつけたのだと――藤真はそう続けた。
突然、牧は激しい怒りに駆られた。
「――お前のプレイを、俺が忘れられるはずなんてない!」
あれほど印象的で鮮やかだった彼の一挙一動を。あれほど牧を魅了した小気味の良い動きを。
「藤真。お前は、ずっと俺の隣にいたじゃないか。怯まずに真っ直ぐ、いつも立ち向かってきたじゃないか。なのに!」
たとえ本人であっても、あの鮮烈な彼のバスケットを否定なんてさせない。
言い募る牧を宥めるように、藤真が穏やかに呟いた。
「ありがとう……。それなら俺は、少しは自惚れてもいいのかな……」
「ああ、そうだ。だから――」
牧は声に力を込めた。
「だから――俺はまだ、お前がバスケットをやめたことを許していない」
ゆっくりと藤真が振り返った。
「お前がいたら、きっと――」
牧のバスケットも、きっともっと、違う形のものになったはずだ。
たった一人で頂点を目指す――こんな孤独に苛まれることのない、もっとずっと違うものに。
「――終わってしまった試合に、もしもはあり得ないよ。牧」
藤真は牧の迷いをそっと遮った。
夕闇が二人の上に降りてきていた。
やがて第1体育館の方から、牧を呼ぶ声が聞こえた。チームのスタッフが何人かが、彼の姿を探してやっと見付けたように走ってくる。
スポーツメディアの取材や優勝祝賀会といった、諸々のスケジュールが牧を待ち受けていた。3連覇の立役者である牧がいなければ、どれも成り立たない事柄だった。
「もう……戻った方がいい」
走り寄るギガキャッツのスタッフたちに目をやりながら、藤真が静かに言った。
共に勝利を喜び合う仲間たちのもとへ、牧は帰るべきだった。それでも動こうとしない牧に、藤真は一歩近付いて、試合終了のときのように右手を差し出した。
牧がその手を取ると、藤真は一瞬、強く握り返した。
「本当に今日はいい試合だったよ。――忘れない」
牧の目を真っ直ぐに覗き込んだあと、闇に沈もうとしている第2体育館の螺旋状の屋根を再び仰ぎ見てから、藤真は踵を返した。
決然としたその歩みは、彼がもう二度と牧を振り返らないことを語っていた。

「牧さん、こんなところにいたんですか。早く体育館に戻りましょう。みんなが待っていますよ」
焦った様子で急かすスタッフの一人を軽く腕で止めて、牧は藤真の後姿をじっと見つめた。
きっともう会うことはない、懐かしいその背中を見送って、牧は自分を待つ仲間たちのところへと歩き出した。

(2004.05.02)