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米沢上杉氏 〜上杉神社(米沢城)〜
(山形県米沢市)
| ● 米沢上杉氏の系譜と事歴 | ||
上杉氏は、南北朝・室町・戦国時代と栄華を極めた名門であり、関東管領として関東の執事を行いました。また、上杉氏は分家も多く、扇谷、宅間、犬懸、山内、越後上杉氏などがあります。 上杉氏の祖、藤原重房とは、藤原鎌足の子孫勧修寺高藤の庶流の公家で、建長四年(1252)、藤原重房は式乾門院利子(しきけんもんいんとしこ)に蔵入として仕え、その猶子宗尊親王(後嵯峨天皇の皇子)が鎌倉幕府第六代将軍として鎌倉下向に供奉しました。この功により、丹波国何鹿郡(いかるがぐん)上杉庄(京都府綾部市上杉町)を賜り、上杉氏と称しました。 ちなみに、重房の子頼重の娘、清子は足利貞氏の室に入り、足利尊氏を生んでおり、将軍家足利氏と上杉氏は外戚関係でもあったのです。現在、神奈川県鎌倉市山ノ内の明月院に上杉重房像が安置されています。 上杉謙信の死後、家督相続をめぐって、二人の養子、景勝(坂戸城主長尾政景の二男)と景虎(小田原城主北条氏康の七男)との争乱(御館の乱)が起こり、三年にもわたる争乱に勝利した景勝が謙信の遺領を相続して領国支配の体制に歩み出したのです。 その後、天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐、文禄元年(1592)朝鮮出兵に参陣、慶長三年(1598)一月十日、伏見城で秀吉から会津百二十万石へ移封を命じられます。同年九月に秀吉が逝去すると、翌四年会津に帰ると居城、領国諸城の普請等軍備の拡張を始め、春日山城主堀秀治らが「景勝に謀反の企てあり」と徳川家康に密告。家康は景勝に上洛を命じるが応ぜず、その後会津征伐の途についたのを機に石田三成が挙兵し関ヶ原の合戦(慶長五年(1600))が起きました。景勝は、家康の子結城秀康を頼り上洛し、家康に謝罪し、慶長六年(1601)八月十七日に米沢三十万石に移封を命じられました。 慶長十九年(1614)大坂冬の陣、翌元和元年(1615)大坂夏の陣では、景勝が先鋒を承し、戦功ををあげ、家康の信任を得たのでした。元和九年(1623)三月二十日、米沢城で死去。享年六十九歳。法名は覚上院殿空山宗心大居士。 江戸時代には、上杉治憲(鷹山)が藩校興譲館(こうじょうかん)を開設し、譜代門閥勢力を排除しながら有能な人材を登用し、養蚕・製糸業を奨励して家内工業を起こして藩・藩士の財政難を救い、「成せばなる なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」という名言を後世に残しています。 |
| ● 上杉神社(米沢城) | ||
御祭神は上杉謙信。天正六年(1578)、上杉謙信の遺骸(甲冑を着せて葬ったといわれています。)を城中「不識庵」に仏式により鎮祭しましたが、景勝が会津を経て米沢に移封されたのに伴い謙信の遺骨は米沢城に移されました。その後、慶長十七年(1612)本丸東南隅の堤上に新しい祠堂(御堂、右下写真)が新築され、中央に謙信の遺骨を安置し、左右には善光寺如来と毘沙門天像を奉置しました。 明治四年に仏式の祭礼から神祭に改められ、謙信・鷹山の二柱を祠り、上杉神社と称し、明治九年には、謙信の遺骨は、歴代藩主が眠る上杉家御廟所に移されました。 大正八年、米沢市大火で本殿などがことごとく類焼し、同十二年米沢出身の伊東忠太博士(東京帝国大学)の設計により再建。 例祭は四月二十九日(歿年三月十三日を太陽暦に換算) |
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| 上杉謙信像(上杉神社) | ||
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| 上杉神社 | 上杉謙信の祠堂(御堂)跡 |
| ● 藩政改革の功績 上杉治憲(鷹山) | |||||||||||||
![]() 上杉治憲像(上杉神社) |
上杉鷹山は、宝暦元年(1751)7月20日、高鍋藩主「秋月種美(たねみつ)」の次男として、江戸で生まれました(幼名「直松」)。母の「春姫」は、四代目米沢藩主「上杉綱憲(つなのり)」の孫娘でした。
宝暦十年(1760)に八代目米沢藩主「上杉重定(しげさだ)」の養子となり、元服(成年の儀式)の際に名を「治憲(はるのり)」とします。 翌年の明和4四年(1767)に、家督を継いで弱冠17歳で九代目米沢藩主となった治憲(鷹山)は、傾いた米沢藩を救うため、まず「大検約令」発し、役人の贅沢や無駄を正すことから、藩政改革への第一歩を踏み出します。その後、農政を改革し、教育を進め、産業を発展させていくのですが、最も大きな産業開発は「織物業」で、置賜特産の青芋(あおそ)を原料とした縮織(ちぢみおり) に始まり、これらを基として養蚕(ようさん)・絹織物へと発展していきます。 鷹山という名前にしたのは、52歳からで、文化3年(1806)には、56歳となった鷹山が「養蚕手引」を発行・配布します。 文政5年(1822年)に72歳で死去しますが、生涯を米沢藩の人々のために尽した功績は、初代 上杉謙信と並んで後世に語り継がれています。 |
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<鷹山と関連の深い農作物>
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| ● 伊達政宗生誕の地(米沢城) | |
![]() 伊達政宗生誕之地(上杉神社) |
伊達政宗(1567-1636)といえば、NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」で一躍有名になりました。政宗は伊達氏十七代目当主で、十六代当主輝宗の嫡男として永禄十年(1567)に米沢城で生まれ、十八歳で家督を相続。母は最上義守の娘、幼名は梵天丸。 十五代当主晴宗は、天文十七年に米沢城に移り、その後、世子輝宗との対立が起こり、永禄六年(1563)に米沢城を輝宗に譲り、杉ノ目城(福島市)に隠退しました。 なお、日本三大ブスと言われる仙台は、実は伊達家が仙台に移ったことにより、それに伴い、山形県置賜郡から人が移り住んだためであるとして、仙台ブスの発祥は置賜だとする謂われもあります。 |
| また、家臣支倉常長(はせくらつねなが)を慶長十八年(1613)にメキシコ・スペイン・ローマ(ローマ教皇にも謁見)に派遣(慶長遣欧使節)しましたが、貿易交渉が失敗したことでも衆知のとおりです。 | |
| 鎌倉幕府の地方機関として、鎌倉府、九州探題、奥州探題、羽州探題、守護が置かれ、鎌倉府(初代鎌倉公方は足利基氏。関東八国、伊豆、甲斐を支配)を補佐するのが関東管領で、貞治二年(1363)三月二十四日、上杉憲顕が任命されました。 歴代関東管領は、上杉憲顕(山内)を初代とし、能憲(宅間)、朝房(犬懸)、憲春(山内)、憲方(山内)、憲孝(山内)、朝宗(犬懸)、憲定(山内)、氏憲(犬懸)、憲基(以下、山内)、憲実(越後上杉からの養子)、憲忠、房顕、顕定(越後上杉からの養子)、憲房、憲政、政虎(越後守護代長尾氏から養子。上杉謙信)となります。 上杉謙信が天正六年(1578)三月九日に春日山城で四十九歳の生涯を終えたことにより関東管領は消滅しました。 |
| ★ 鎌倉散策 〜明月院(別名:あじさい寺)〜 | ||||||||||||
| 臨済宗建長寺派に属する寺。首藤刑部太夫・山ノ内経俊が永暦元年(1160)に平治の乱で、戦死した父・首藤刑部大輔・俊道の菩提供養として、明月院の前身の明月庵を創建。その後、康元元年(1256)、鎌倉幕府五代執権・北条時頼が執権を北条長時に譲って、この地に最明寺が建立し、出家生活をここで送り37歳で死去。後に時頼の子・八代執権・北条時宗が最明寺を前身に蘭渓道隆を開山に禅興寺を創建しました。 康暦二年(1380)、足利氏満から禅興寺中興の命を受け、関東官領・上杉憲方は寺院を拡大し、塔頭も建て、明月庵は明月院と改められ、支院の首位におかれました。上杉憲方の法名は明月院に由来します。足利三代将軍・足利義満の時代に禅興寺は関東十刹の一位となりましたが、明治初年に禅興寺は廃寺となり、明月院だけが残りました。本尊は聖観音菩薩坐像。 戦後に挿し木して植え続けてきたアジサイが実を結び、昭和40年代の初めに「あじさい寺」の名前がつきました。6月の最盛期には境内に青一色の花が咲き誇ります。本堂の名前は「紫陽殿 (しようでん)」、堂内の欄間も四枚 (よひら)の花びらを模しています。アジサイを意味しています。 |
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明月院は、鎌倉の花の寺、歴史のある寺、鎌倉散策として明月院は十分に楽しめるところです。 |
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| <参考資料> | |
| 1 | 花ヶ前盛明著『上杉謙信』 新人物往来社 平成3年11月 |
| 2 | 上杉一族の謎『歴史研究』第469号 新人物往来社 平成12年6月発行 |
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新潟県立歴史博物館開館一周年記念展『よみがえる上杉文化〜上杉謙信とその時代〜』(図録)新潟県立歴史博物館 平成13年10月 |
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