| このページは、山に関する事柄を中心に気になったことや興味があることを少し学問的な視点から考え、調べたことを掲載しています。 テーマなどは管理者が調べたものをただ羅列しているだけなので、掲載した順番に意図はありません。 |
| 山歩(さんぽ) とは |
私にとっての山歩の一番の魅力は、自然とのふれあいや地域の歴史について学ぶことであると考えています。 春夏秋冬と季節に変化があるように、山にも季節による変化があり、同じ山であっても季節によってまったく違った山になります。それが山の自然です。 一般的に、山登りはきつくて体力がないと登れない、急変する天候や山岳事故報道の恐怖などから敬遠されがちでありますが、専門的な知識や技術を修得することで楽しい山歩に変えられるのではないだろうかと考え始めるようになりました。自然が変化するように人間も自然の変化に対応できうる能力や自然を知ることが必要なのではないでしょうか。私の場合、歴史に興味があるあめ、地域の歴史など(自分が興味関心のある植物や動物などでもよいのです)を理解することで、ただ登るだけではない違った山歩ができるのではないでしょうか。 このHPの名前は、「山歩」(やまあるき)を音読みして「さんぽ」と読みます。きついつらい山登りというイメージを払拭することがねらいで、山を通じて多くのことを学ぶ楽しさからいつも「ハッピー」な気持ちで楽しんでいる人ということを意味しています。 |
| ● 山と文学 |
| 平成18年2月14日作成 |
| 文学の主流は小説が占め、山岳小説という分野や呼称は19世紀には一般に衆知されるようなるが、山岳小説の歴史は浅く、第二次世界大戦前の日本では、深田久弥氏が『G・S・T倶楽部』で旧制高等学校の雰囲気を背景にした明るく健康的な青春小説に書いてある程度で山岳小説とは呼びにくいものがある。 <参考> 志賀直哉『暗夜行路』(大山)、太宰治『富獄百景』(富士山)、大佛次郎『旅路』(針ノ木峠)、夏目漱石『二百十日』(阿蘇山を舞台にするも山を単なる背景にしかしていない。) |
| そのような状況にあって、深田氏は、「山の」と銘打たなければ成立しないような文学は、一流の文学ではないと「山岳小説」や「山岳文学」の存在理由が極めて薄弱なものであることを指摘しています。 |
| 「山の好きな人は、山に関するものなら何でも読みたいのは事実だ。僕なども文学的価値としては二流以下のものでも、山のことがらが書いてあるとつい興に乗つて読んでしまふ。そして、一種のひいき目から、その価値を高くみがちだ。おそらく山の文学を愛する人は凡てこのひいき目を持ってゐるに違ひない。いやひいき目というよりは寧ろ甘く溺れるやうな傾向さへあると思ふ。僕は敢えていふが、かういふ傾向が山岳文学愛好者たちを狭い範囲で自己満足させ、従ってすぐれた文学を産み出させなくしてしまふのではないか。・・・・・いやしくも文学と銘打つなら文学としていかなる批判にも耐へねばならぬ。ただ山岳家たちの我身びいきな愛着の補助によってのみ価値あるやうな文学は、本当の文学ではない。さういふ文学をむやみに尊重するのは、山岳家の精神の低いことを自ら広告してゐるやうなものである。むしろ文学なぞにソッポを向いてひたすら山を登つている人を、僕は尊敬したくなる。」 (深田久弥氏著『山の文学』昭和十年(1935)より) |
| 山岳小説とは、アルピニストとアルピニズムを中心にした小説を呼ぶと定義づけられるが、この定義を余り厳密に限定していくと、この分野の小説は簡単に行き詰まってしまうことになる。小説を書く立場から言えば、話の内容がパターン化され人間そのものが多様に描くドラマは成立しにくいものになるのだという。 |
| 第二次世界大戦後になると、山岳小説(井上靖『氷壁』(昭和三十一年)など)が多数書かれるようになり、加えて昭和三十年代から登山が大衆化し始めました。 これまで、ごくわずかな作家によって、マイナーな存在にしか過ぎず、特定の読者層しか持たなかったこの分野が、社会的にも解放され、それが一般・登山者自身にあった「登山者善人説」や登山者の舞台である山そのものが「聖域」でなくなってきた。 |
| (資料)徳久球雄氏編『山を読む事典』東京堂出版、昭和五十六年三月発行 |
| ●宗教者の身分的周縁 | |
| 平成16年12月に、財務省が富士山八号目より上の土地を浅間神社に譲った旨の報道がなされいました。山と宗教はとても密接な関係があることは周知のとおりです。 そこで、宗教者の社会的周辺、富士山参詣の導者の身分的周縁について簡単に触れてみます。 |
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| 御 師 | 参詣者の道案内を行う者がよく知られていますが、ここでは富士山参詣の御師について触れてみます。 @須走御師(駿河国駿東郡須走(小山町) ・浅間神社の神主は、京都の吉田家。 ・近世初頭:神社に付属するように数人が御師を名乗っています。 ・宝永二年(1705):御師14人、導者宿経営(百姓)31人 ・延享四年(1747):御師側の働きかけにより、小田原藩が17人の御師を認知。5人は新規御師(導者経営の百姓) ・寛政以降:吉田家が須走に進出したことにより吉田家は神職同様の許状を受ける ・明治二年(1869):須走御師が神葬祭に変更するために願書を提出。明治政府は、神祇事務局社中の者は家内に至るまで神葬祭に相改めよ。しかし、御師の者たちは百姓兼帯であれば神葬祭にはできないと命じられる。 ・明治四年(1871):明治政府により御師職は廃止(7月)。しかし、富士山の参詣道(八合目)あるいはその上で石室商売を続け、導者宿としての経営を続けていくため、宗教的な外被が必要であることから、扶桑教(明治八年以降は扶桑教会となる。前身は明治六年の富士一山講社で開祖を長谷川角行に求める。いわゆる冨士講です。)を身につけ、以前と同様な活動を行っていました。現在では、扶桑教は衰え宿屋になっているようです。 A川口御師(甲斐国都留郡郡川口(河口湖町) ・慶長期(1561〜1615):御師12人 ・元禄年間(1688〜1704):御師83人(百姓が御師に転身) ・文化年間(1804〜1818):御師128人 ・天保期(1830〜1844):御師232軒 ・明治四年(1871):明治政府により御師職は廃止(7月)。多くは宿屋経営を行うが衰退していったようです。 |
| 修 験 者 (山 伏) |
神仏習合を体現した宗教者。教養としては天台・真言の密教を持ちますが、山岳での修行により霊力を身につけ、檀家からの依頼により様々な祈祷活動を行います。 明治五年(1872)九月、明治政府により修験廃止(神仏分離)が命じられ、多くは帰農又は僧侶若しくは神主となりました。いくつかの例として次を紹介します。 @ 岩殿山(山梨県大月市)の常楽院・大坊(修験道本山派)は郡内の山伏の支配頭を勤めるなどしておいたが、命により翌六年六月に天台宗の園城寺末の僧侶として帰僧しますが、一部では「修験者は僧侶でない」という認識から、やがて常楽院・大坊は廃寺となり残った者は帰農しました。 A 八槻(福島県棚倉町)の修験者大善院は、近津大明神の別当を勤め、明治維新後は神主としての側面を前面に打ち出すことで修験廃止を乗り切りました。 (参考)岩殿山には岩殿山城跡(山城)があり、急陵な岩を登る山城ですが、尾根ずたいに楽に歩けるハイキングコースにもなっています。 なお、歴史的には、武田勝頼が織田軍に攻められ、甲府を去り、岩殿山城に向かいましたが、城主小山田信茂が織田軍に寝返りしたため入場できず、近くの天目山を望む田野に陣屋を構え、織田軍(滝川一益)に発見され、武田軍は抵抗の末(このとき勝頼主従は50人程度)、最後はに勝頼、信勝、夫人(北条氏政の妹)は自害しました。その地に建立された景徳院には首を洗ったと伝えられる川がそばを流れ、境内には三人のお墓があります。 |
| 陰 陽 師 | 古代以来の天文・暦や占による活動(映画「陰陽師」でも知られるところ)は、明治四年(1871)八月、明治政府により陰陽道は廃止されました。しかし、制度上は廃止されても陰陽道を行っている者はおり、現在では方位鑑定者と名乗っているようです。 なお、陰陽道の組織化は寛政三年(1791)に全国に触れを出しますが組織は進まず、土御門家が幕府に再触れを要請しましたがそれでも十分に組織化されませんでした。 |
| 虚 無 僧 (薦 僧) |
近世の所伝では、鎌倉後期に心地覚心が宋に渡った際、尺八を吹くことを習い、四居士を伴って帰国したのがはじまりと伝える(栗原広太『尺八史考』)が、確実な史料に見えるのは『大内氏掟書』の文明十八年(1486)など諸説があります。近世の研究では、虚無僧(薦僧)=暮露(ぼろぼろ)。 虚無僧は、禅宗の一つ普化宗の僧侶で、留場や尺八を伝授するといった免許状の特権を持っていました。しかし、天保三年(1832)、一月寺(千葉県松戸市)という普化宗の本寺があり、四カ国十四郡、七十ヵ村から留置料として年間合計金百二十両を徴収しており、偽虚無僧が乱暴を働いた折、本当の虚無僧が留めてやるから上納しろという無茶苦茶な論理で徴収していたものです。当然、虚無僧は社会的に支持される理由もなく反発をかっていたようです。 明治四年(1871)十月に明治政府により普化宗が廃止され、虚無僧の特権も無くなることになり、以降、尺八は庶民が自由に扱える楽器になったのです。 |
| 座頭と盲僧 | 盲人で琵琶や三味線を弾き、主に門附け(かどづけ)をして生計を立てていた座頭については、天明の飢饉による影響で、文化・文政期以降は座頭が廻在勧化(かいざいかんげ。村の家々を勧化して銭や米を得る。)をするのに対し村々の対応が厳しくなり、座頭が不作法、押乞(おしごい)、ねだりなどの行為を行うようになりました。 明治四年(1871)十一月に明治政府により盲人の官職〔座頭、勾当(盲人の官の一つ。検校の下で座頭の上位。)、検校(盲人の最上級の官名)〕が廃止されました。 ただし、盲僧の場合は、明治四年に盲人の官職が廃止されましたが、明治八年(1875)に青連院(天台宗の門跡)との関係を活かして天台宗の宗派として再組織化されました。 |
| 資 料 |
(著書) ・細川涼一氏著「ぼろぼろ(暮露)」『中世の身分制と非人』日本エディタースクール出版部 平成6年 10月 ・久留島浩、高埜利彦氏ほか3人「シンポジウム報告近世の身分的周縁」『身分を問い直す』吉川弘文館 平成12年11月 |
| ●出羽三山における即身成仏思想の産物(ミイラ) |
| 山形県は東北地方の中でも山岳信仰が盛んに行われていた地域としてあげられるのは出羽三山です。出羽三山とは、月山(1,980m)、羽黒山(419m)、湯殿山(1,504m)です。それでは、それぞれの山について概観すると、 |
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| @ | 月山(がっさん) | ||
| 『日本三代実録』によると、貞観六年(864)に朝廷は「月山神」(つきのやまかみ)を従三位に叙しています。また、山頂には、農業の神である月読尊(つくよみのみこと)を奉った月山神社があることから、これを音読みしています。 |
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| A | 羽黒山(はぐろやま) | ||
| 祖霊信仰のハヤマ、モリノヤマに由来し、「羽(葉・端)」山と黒森山が合体した山名だといわれています。 |
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| B | 湯殿山(ゆどのやま) | ||
| ご神体の岩から酸化鉄を含んだ真っ赤なお湯が流れ出たのが由来らしいが、湯殿山は山ではなく、月山からどんどん下った谷間にあり、その背後にそびえる仙人岳(1,504m)がいつとはなしにゆどの山と呼ばれるようになったのが実情らしい。 |
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| 東北地方には、25体のミイラがあり、その三分の一が湯殿山の行人だという。それは、羽黒山が観音浄土(現世)、月山が阿弥陀浄土(死後)、湯殿山が大日寂光浄土(未来)という意味を持ち、三山を回ることによって生きながら死後の体験をして生まれ変わるという即身成仏思想が実行されたようです。 |
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| (資料)谷有二氏著『山名の不思議』平凡社 平成15年8月をもとに作成。 | |||
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