神に仕えるサムエル

第1サムエル記3章1〜10節(新改訳:旧約429ページ。新共同訳:旧約433ページ)      20090118

少年サムエルはエリの前で主に仕えていた。そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。 3:2 その日、エリは自分の所で寝ていた。――彼の目はかすんできて、見えなくなっていた。―― 3:3 神のともしびは、まだ消えていず、サムエルは、神の箱の安置されている主の宮で寝ていた。 3:4 そのとき、主はサムエルを呼ばれた。彼は、「はい。ここにおります。」と言って、 3:5 エリのところに走って行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。エリは、「私は呼ばない。帰って、おやすみ。」と言った。それでサムエルは戻って、寝た。3:6 主はもう一度、サムエルを呼ばれた。サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。エリは、「私は呼ばない。わが子よ。帰って、おやすみ。」と言った。3:7 サムエルはまだ、主を知らず、主のことばもまだ、彼に示されていなかった。3:8 主が三度目にサムエルを呼ばれたとき、サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。そこでエリは、主がこの少年を呼んでおられるということを悟った。3:9 それで、エリはサムエルに言った。「行って、おやすみ。今度呼ばれたら、『主よ。お話しください。しもべは聞いております。』と申し上げなさい。」サムエルは行って、自分の所で寝た。3:10 そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル。」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた。

すべての人には色々な特徴があります。もし「あなたは話し上手ですか、それとも、聞き上手ですか。」と聞かれたら、皆さんはどちらでしょう。心の中で考えてみてください。もしかしたら一つの答えはなく、ある時は話し役になって、別の時には聞き役になることもあるでしょう。では、神に対してはどうですか。皆さんは話し役になりますか、それとも聞き役になりますか。これについても、両方の可能性があるかもしれません。しかし、最初の両親が罪に汚れて以来、すべての人は神に対して話し役になりたい傾向を持っています。つまり、神が語ることに耳を傾けたくないし、素直に従いたくありません。逆に、神に対して自分の考えを主張します。自分の欲求や願いを伝えることを優先します。けれども、それは神のしもべとしての正しい態度ではありません。神のしもべは、まず、神が語ることに耳を傾けるべきです。今日の箇所のサムエルはその良い模範です。サムエルのように、私たちも神のことばに耳を傾け、従い、良いしもべとして仕えましょう。

T.母親ハンナの祈りと教育

まず、サムエルの誕生と乳離れする頃までのことについて学びましょう。なぜなら、正式な任務を与える以前から、母親ハンナの祈りと教育方針を通して、神は既にサムエルの人格形成や信仰の成長に深くかかわって、サムエルを忠実なしもべにするための準備を始めていたからです。サムエルは忠実なしもべでしたが、それは一日で成ったことではありません。神が誰かをしもべとして用いる時、その人が気づかないうちから準備を始めます。これは私たち現代のクリスチャンにも当てはまります。

サムエルの母ハンナは長い間不妊でした。日本でも子どもを産まない女性が肩身の狭い思いをし、場合によっては離縁される時代がありました。ハンナの夫は信仰深く、ハンナを愛していたので、ハンナを離縁することはありませんでしたが、別の問題がハンナに肩身の狭い思いをさせました。ハンナの夫には別の妻がいて、その間には子どもがありました。その女性がハンナをいただたせることをしました。ハンナは食事もできないほど苦しみました。夫はハンナにやさしいことをかけましたが、ハンナの心はいやされませんでした。

そのような状況におかれたハンナは、「私に男の子を授けてください。そうしたら、私はその子の一生をあなたにささげます。」と主に誓願を立てました。主がハンナの願いをかなえたので、ハンナはみごもって、男の子を産みました。そして、サムエルと名づけました。ハンナは乳離れするまでサムエルを育てました。モーセも同じような境遇でしたが、この時期に信仰深い母親に育てられることはその人の人生に大きな影響を与えます。具体的なことは書かれていませんが、モーセの母もサムエルの母も自分の子に肉体のための食べ物だけでなく、信仰のための食べ物も与えました。神のことを話して聞かせたり、その子のそばで祈ったりしました。神を信じる親は子どものからだの成長だけでなく、信仰の成長についても責任を負っています。この教会にも子どもをいっしょに連れて来る方がいますが、それはモーセやサムエルの母親と同じように神から委ねられた親の務めを果たしていることになります。重要な務めを果たしています。

U.祭司エリの下での訓練

サムエルが乳離れした頃、ハンナは神への誓願を果たすためにサムエルを祭司エリのところに連れて行きました。ハンナは子育てを放棄したのでも、冷たい母親になったのでもありません。毎年1回、ハンナは夫とともに主にいけにえをささげるためにエリが祭司を務めるシロの幕屋に行きましたが、その時にはサムエルのために手作りの上着を持って行きました。育て方は変わりましたが、サムエルに対するハンナの愛情に変わりはありませんでした。ハンナの愛情はサムエルに正しく伝わりました。ですから、親と離れて暮らしてもサムエルの心はすさみませんでした。サムエルは順調に成長して、主にも、人にも愛される少年になりました(2:16)。神(主)と人に愛されるという表現は少年時代のイエスにも使われています(ルカ2:52)。この表現は、幼子サムエルが祭司エリの下で忠実に仕えていただけでなく、喜んで仕えていたことを教えています。訓練といっても、まだ子どもでしたから、祭司の身の回りの世話など、下働きのようなことが中心だったでしょう。

けれども、人に仕えることを学ぶことはとても大切でした。なぜなら、人に仕えることのできない人が神に仕えることはできないからです。その点で、エリの二人の息子たちは少年サムエルと対照的でした。祭司の息子たちは既に成人していたようです。親が祭司ですから、この二人も祭司でした。ところが、この二人は神の戒めを破る罪を公然と行なっていました。親であり祭司でもあるエリが忠告しても、彼らは従いませんでした。この二人の悪いうわさは当時のイスラエル人の間で広まっていました(2:22−24)。おそらく、この二人は神の教えよりもカナン人の考え方に影響されていました。カナン人の宗教では、神殿売春や男娼は罪ではなく、むしろ神々を喜ばせる行為だったからです。エリの息子たちは「回りの人たちがしているのだからいいじゃないか。聖書の教えよりカナン人の宗教の方がいい。」と考えていたかもしれません。だから、悔い改めませんでした。それで、神はこの二人の心を固めてしまいました(2:25)。この二人は永遠に滅びることになりました。このような人々の近くで生活していると、悪い影響を受けてしまうものですが、少年サムエルはエリの息子たちの真似をしませんでした。エリの息子たちの仲間になりませんでした。少年であっても、サムエルは神のことばに導びかれてしっかり歩んでいました。

V.神による招聘と預言者活動の始まり

神がそのようなサムエルを預言者に就かせる時が来ました。神は寝ているサムエルを呼びました。サムエルはエリに呼ばれたと思って、エリの所に行き、「お呼びになりましたか。」と尋ねました。エリは「呼んでいないから、戻って寝なさい」とサムエルに答えました。サムエルが戻って寝ると、再び神がサムエルを呼びました。サムエルは神に呼ばれていることが分からなかったので、またエリの所に行き、「お呼びになりましたか。」と尋ねました。エリは「呼んでいないから、戻って寝なさい」とサムエルに答えました。サムエルが戻って寝ると、神はまたしてもサムエルを呼びました。サムエルはエリの所に行き、「お呼びになりましたか。」と尋ねました。3回目の時、エリは神がサムエルを呼んでいることを悟りました。それで、「戻って休みなさい。今度呼ばれたら、『主よ、お話しください。しもべは聞いております。』と申し上げなさい。」と伝えました。これはとても適切な助言でした。神に仕える者はいつでもこの態度を持っていなければなりません。

サムエルが戻って寝ると、また呼ばれたので、今度は「お話しください。しもべは聞いております。」と言いました。そこで主は、エリの家に起こることをサムエルに告げました。それはエリの二人の息子に対する罰とその息子たちを十分に戒めなかったエリに対する罰の宣告でした。エリの家の罪は償うことができない点にまで到達してしまったので、神はエリの家を永遠にさばきます。サムエルは神の計画をエリに伝えることをためらいましたが、エリはサムエルを呼んで、主がお告げになったことはどんな事でも隠さないで話して欲しいと言いました。サムエルは神が告げたすべてのことをエリに話しました。悪い知らせであっても、エリは「主のみこころが行なわれますように」と言いました。エリは仮にも祭司だったので、神は祝福でも呪いでも必ず実行することを知っていました。これは終わりの日も同じです。永遠の死を宣告される人々は、悪い知らせと分かっていても、その宣告を聞かなければなりません。そして、エリと同じように、「みこころが行なわれますように。」と言って、神の裁きが正しいことを認めることになります。ですから、私たちはエリの息子たちのようにならないで、神が時間を与えてくださっている間に罪を悔い改めて、赦しを求めましょう。神が猶予を与えてくださっている間なら、イエスが身代わりに死んでくれたお陰で、私たちの数え切れない罪は赦され、永遠の命が与えられます。この恵みの時間を粗末にしないようにしましょう。大切にしましょう。神が私たちの罪を指摘する時に頑固にならないで、「お話しください。しもべは聞いております。」という態度を取りましょう。日常生活の中でも聖書の教えを導きとしましょう。「お話しください。しもべは聞いております。」という態度でいつも聖書を読み、学びましょう。何かの務めをあなたに委ねるために、神は既にあなたを訓練し始めているかもしれません。神のみこころがはっきり示されたなら、サムエルのように神の導きに従いましょう。神が与えてくださった才能を用いて、神が委ねられた務めを忠実に果たしましょう。それが教会のことでも、社会のことでも忠実に果たしましょう。それこそ神に仕えることです。私たちしもべの活動を通して神の栄光がこの世で輝きますように(マタイ5:16)。アーメン。