あなたのひとり子をわたしに捧げなさい

創世記22章1節〜22節(新改訳:旧約30ページ、新共同訳:旧約31ページ)      2009/03/01

これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」22:3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。22:4 三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。22:5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言った。22:6 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。22:7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」22:8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。22:9 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。22:10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。22:11 そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」22:12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶに引っかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。22:14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。

最近のことは分かりませんが、私が子供の頃の学校授業といえば、先生が教科書を基にして説明する形式が一般的で、時々は体験学習の時間がありました。社会科なら工場見学や遠足、理科なら実験、家庭科なら簡単な裁縫や料理などです。先生の話を聞くだけの授業に比べ、体験学習は印象深いので、覚えたことが長く記憶に残ります。神がご自身の計画を人間に教える場合も、語って教えるだけでなく、体験学習によって教えることがありました。今日の箇所は、神がある真理をアブラハムに教えるための体験学習です。ことばで説明されただけの場合に比べ、アブラハムはその真理を深く理解し、決して忘れなかったことでしょう。アブラハムがここで学ぶ真理は私たちにも深い関係があるので、私たちもこの体験学習に参加しましょう。

T.あなたがひとり子をささけなければならないとしてみましょう。

この体験学習の効果を高めるために、皆さんがアブラハムの立場になって、自分のひとり子をいけにえにしなければならないとしてみましょう。アブラハムはメソポタミヤ(現在のイラク)のウルで生まれましたが、神の命令に従って父親や親族といっしょにウルを離れました。父親や親族はハラン(カラン)に定住しましたが、アブラハムは妻と甥のロトとしもべたちとさらに旅を続け、カナンに定住しました。父親や親族を離れてハランを出た時、アブラハムは75歳でした。妻のサラは不妊だったので子どもはいませんでしたが、神は「あなたの子孫を大いに増やす」とアブラハムに約束しました。神の祝福によってサラが息子イサクを産んだのは、アブラハムが100歳の時でした。

この25年間はアブラハムに神への信頼と忍耐を学ばせる期間でした。この間、アブラハムは神の約束を待ち切れないで、そばめによって子供を作ろうとする失敗と罪を犯しました。それらの失敗や罪は賞賛されるべきではありませんが、恵み深い神はそれらをアブラハムの益となるように変えてくれました。アブラハムはそれらの失敗や罪を通して、自分の愚かさに気づき、罪を悔い改め、神に信頼することの大切さを学びました。今日の箇所でイサクの年齢は述べられていませんが、10代前半くらいかもしれません。そうなら、アブラハムは救い主の先祖になるための訓練を少なくても35年以上既に受けていました。

神の訓練はまだまだ続きました。そして今、アブラハムの生涯で最も困難な体験授業を受ける時が来ました。神はアブラハムにこう命じました。「あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」全焼のいけにえは捧げる人の罪を身代わりにほふられ(殺され)、焼き尽されるいけにえです(レビ1:3,4)。つまり、アブラハムはイサクを自分の罪の身代わりにしなければなりませんでした。イサクはアブラハムが年老いてから生まれた一人息子で、アブラハムはイサクを愛していました。その上、イサクが死んだらアブラハムの子孫は増えないし、その子孫の中から救い主が生まれるという神の約束はどうなってしまうのでしょう。試練は「その時は悲しく思われるもの」とヘブル12章11節に書かれていますが、アブラハムもこの試練の意味を理解できず、苦んだことでしょう。私たちなら、アブラハム以上に苦しんだでしょう。心の平安はなかったでしょう。また、仮にアブラハムがイサクをいけにえにしたとしても、その行為によってアブラハムの罪がきよめられることはありませんでした。その後でアブラハムは再び罪を犯したでしょうし、イサクの命にはアブラハムの罪をきよめる価値はありませんでした。聖書によれば、人間の命には自分の罪も他人の罪も償う価値がありません。罪で汚れているからです(詩篇49:7)。ですから、この学習の目的がイサクを捧げさせることではなく、ある真理学ばせることだったことは、アブラハムにとっても私たちにとっても嬉しいことです。

U.あなたの代わりにほかの神がそのひとり子をささげてくれるとしてみましょう。

たとえ神の命令でも、子供を自分の罪の身代わりにするなど、できればやりたくないでしょう。そうかと言って、自分の嫌なことを他人に代わってもらう訳にも行きません。でも、この箇所を新約聖書と合わせて注意深く学ぶ時、私たちは想像できない喜びと希望と平安を与えられます。私たちは神に罪を赦してもらうために自分の子供をいけにえにする必要がないし、他の人に代わってもらう必要もありません。なぜなら、私たち人間の罪を償うために、神はご自身のひとり子をいけにえにするつもりだったからです。また、その計画を変更するつもりはありませんでした。神はその真理をこの体験学習によってアブラハムに教えたかったのです。

アブラハムは神の命令に従って、翌朝早く、息子と二人のしもべを連れ、いけにえを燃やすたきぎをもって神が指定した場所へ出かけました。そして、三日目に近くまで来ました。アブラハムは二人のしもべに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言いました。アブラハムは神の真意が分からなくても、神がイサクを死人の中からよみがえらせることができると思っていました(ヘブル11:15)。しかし、このしもべたちはアブラハムがしようとしていることを受け入れられるほど信仰的に成熟していなかったのかもしれません。だから見せたくなかったのかもしれません。このような配慮は大切です。アブラハムは息子に対しても配慮しました。イサクが「お父さん、火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」と質問した時、アブラハムは「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」とだけ答えました。「おまえがいけにえなのだ」と本当のことを伝えて、イサクを悲しませたくなかったのでしょう。

準備ができたので、アブラハムがイサクをほふろうとしたその時、主の使いが天からアブラハムに呼びかけました。そして、「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」と言いました。2節、11節、12節を注意してみれば、アブラハムに語りかけた主の使いが天使ではなく、神ご自身であったことが分かります。主の使いは「あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」とアブラハムに言いました。主の使いの行動とことばから明らかなように、神は初めからアブラハムにイサクをほふらせるつもりはありませんでした。この体験学習は終わりました。このような時でもアブラハムは神を信用しました。それは「あなたが神を恐れることがよくわかった。」という神の賞賛から明らかです。この「恐れる」は「こわがる」ではなく、「愛する」、「信頼する」、「敬う」という意味です。アブラハムは神の命令に従うことによってイサクよりも神を愛していることを示しました。それは第1の戒めが求めていることです。

さて、この体験学習について神が解説する時が来ました。アブラハムが目を上げて見ると、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいました。アブラハムはその雄羊を取って、全焼のいけにえにしました。この雄羊はアブラハムの身代わりに死にました。アブラハムが犯した罪の代金として神に捧げられました。この雄羊はアブラハムが自分で用意したものではなく、神が用意したものです。神はご自身がいけにえを備えることをこの体験学習でアブラハムに教えたかったのです。この雄羊はすべての人の罪を償う救い主イエスのモデルです。神は約束通りにイエスをアブラハムの子孫から生まれさせます。アブラハムはそのことを正しく理解しました。ですから、その場所を“アドナイ・イルエ”と名づけました。アドナイ・イルエは「主が備えて下さる」という意味です。もちろん、人間の罪を償ういけにえを神が備えて下さるという意味です。

イエスはアブラハムだけでなく、すべての人の罪を償ういけにえとなります。自分を含むすべての人の罪を償ういけにえを神が備えてくださることを知った時、アブラハムの喜びはどれほど大きかったでしょう。アブラハムの信仰はどれほど強められたでしょう。永遠の命に対するアブラハムの希望はどれほど強められたでしょう。では、私たちはどうでしょう。私たちも罪を赦していただくためにいけにえを用意したり、何かをする必要はありません。神の備えたいけにえであるイエスが既に私たちの罪を完全に償いました。そのために十字架の上で死んでくれました(ヘブル10:10)。そのことを喜びましょう。確信しましょう。イエスのことばを信じて、天国での永遠の命を待ち望みましょう。

神が今日の箇所で命じたことを私たち自身がしけければならないとしたら、この箇所は私たちに苦しみと悲しみだけを与えるでしょう。しかし実際は、私たちを罪の報いである永遠の死から救い出すために神がしてくださることを教えています。新約聖書から明らかなように、イエスは私たちの罪を償うために、身代わりとして十字架の上で死にました。そのことを覚えて読むなら、この箇所は私たちにとって大きな喜びとなり、忘れることのできない箇所になるでしょう。