真理に従わない罪をお赦しください

ヨハネの福音書18章33節〜38節(新改訳:新約202ページ、新共同訳:新約205ページ)     20090322

そこで、ピラトはもう一度官邸にはいって、イエスを呼んで言った。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」18:34 イエスは答えられた。「あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか。」18:35 ピラトは答えた。「私はユダヤ人ではないでしょう。あなたの同国人と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのです。あなたは何をしたのですか。」18:36 イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」18:37 そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。18:38 ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。」

私たちは今日も総督ピラトによるイエスの裁判を傍聴しますが、今日の箇所は先週よりも前の場面です。先週も話したように、ユダヤ人指導者階級はローマ帝国の法律の下では宗教的な理由でイエスを死刑にできないことを知っていたので、イエスを政治犯として告訴しました。彼らは自分たちを支配しているローマ帝国を嫌っていましたが、ローマ帝国の愛国者を装い、「イエスはユダヤ人の王と自称して、ローマ帝国に反逆を起こそうとしている」という趣旨の訴えを起こしました(マタイ23:2)。ピラトは訴えが事実かどうかを確かめるためにイエスの取り調べを始めました。被告の言い分を慎重に聞こうとしているので、この直前に行なわれたユダヤ人法廷でのイエスの裁判に比べると、ローマ帝国の法廷はかなり公平です。私たち人間の目から見れば、これはピラトがイエスを取り調べている場面です。間違いなく、その場にいた人々の100%がそう見ていました。しかし神の人類救済計画から見れば、これはイエスがローマ政府の高官ピラトに救いのチャンスを与えている伝道の場面です。

神はしばしばこのような不思議な方法で伝道します。それは神が一人の人の滅びも望んでいないからです(ヨハネ3:16;1テモテ2:4)。それでも救われない人がいるのは、その人々が真理である神のことばを受け入れないからです。信じないからです。拒絶するからです。ピラトはその一例です。ピラトはイエスから神の国や救いについて直に聞くチャンスを得たのに、イエスの招きを拒否して、イエスを信じないことを選びました。そして、「真理とは何ですか」と言って話題を変え、罪の赦しや永遠の命についてそれ以上聞くつもりがないことを表明しました。聖書に書かれていることは神のことばであり、真理です(ヨハネ17:17)。聖書がイエスについて教えていることは真理です。イエスが聖書を通して私たちに教えていることは真理です。聖書のことばを聞く時、読む時、学ぶ時、私たちはどのような態度を取って来たでしょうか。今日はピラトの態度について学びながら、私たちも神の教えより自分やこの世の価値基準を優先させる罪をしばしば犯していることを悔い改めて、その赦しをイエスに願いましょう。

イエスがイスラエル(ユダヤ人)の正統な王家の子孫であることは事実です(マタイ2:2)。イエスの行なった奇跡を見た民衆だけでなく、弟子たちさえイエスがイスラエル王国を再興してくれるのではないかと期待していたことも事実です。けれども、イエスには地上の国の王になる意志はまったくありませんでした。むしろ、人々がイエスを王にしようとした時、イエスはそのような誤った計画に巻き込まれないようにしました。(ヨハネ6:15)。イエスはローマ帝国がユダヤ人から徴税することの正当性を認めました(マタイ22:15‐21)。イエスを捕らえに来た役人たちの一人にペテロが剣を抜いて打ちかかった時、イエスはそれを止めさせました(マタイ26:52)。この世の国の王になるつもりだったら、止めないで、戦わせました(ヨハネ18:36)。イエスはローマ帝国の権威もユダヤ自治政府の権威も認めました。イエスは神としての権威を用いることを差し控えて、この世の事柄に関しては一人のユダヤ人としてローマ政府やユダヤ自治政府に従いました。それは第4の戒めを守るためでした。

神がこの世の国に与えた役割は地上の平和を築くことです。そのため、神は悪人を罰する権威をこの世の国に与えました(ローマ13:1-13)。政府が明らかに神の教えに背くことを命令する場合を除いて、神は信者が政府に従うことを求めています。一方、神が教会に与えた役割は魂の平和を築くことでした。そのため、神は宣教と聖礼典執行の権威を教会に与えました(マタイ16:19;28:19,20)。この世の国と教会がそれぞれの役割を正しく果たし、それぞれの権威を正しく用いることが理想的です。しかし、人間は罪深いので、この世の国が教会の役割と権威を侵害し、教会がこの世の国の役割と権威を侵害することがしばしば起こります。それは罪です。イエスはその罪を犯しませんでした。この世の国と神の国(教会)の役割と権威を正しく分けました。この世の政府の役割と権威を侵害しないで、神の国について宣べ伝えました。罪を悔い改める人には罪の赦しを宣言し、永遠の命を約束しました。イエスはこの世の政府を打倒しようと一度も考えませんでしたが、この世の政府が宣教活動を禁止しても妨害しても中止するつもりはありませんでした。なぜなら、政府にその権威はないし、そのような場合は政府よりも神に従うべきだからです(使徒4:14‐20)。

イエスの活動の目的は、あくまでも人間の救いを成し遂げ、信仰を通してそれを無償で与えることでした。それによって、人間を罪の呵責や死の恐怖や地獄での永遠の苦しみから救い出すことでした。イエスが神の国を建てようとしたことは事実ですが、イエスの国は時間や国境に束縛されません。既存の国の領土を奪い取るものでもありません。イエスの国はイエスが恵みによって信者を守り、導き、治めることです。イエスの国は目に見えません。この世の国と違って、イエスの国は滅亡しません。この宇宙はやがて消滅しますが、それでもイエスの国は存続します。信仰の恵みとして罪を赦された人は誰でもイエスの国の国民になれます。イエスはその人々の王です。ダビデ王の子孫として生まれる救い主(イエス)が永遠の王国を建てることは旧約聖書にも書かれています(2サムエル7:12,13)。イエスはその意味でユダヤ人の王を名乗りました(マタイ27:11)。ユダヤ人指導者が訴えたような意図はまったくありませんでした。ピラトもそれが分かっていたので、イエスを釈放しようと努めました。

しかし、私たちを驚せると同時に私たちが模範としたいのは、イエスがこのような状況下でも伝道の機会を見逃さず、適切なことばでピラトに伝道したことです。ユダヤ人指導者はイエスを“反逆を企てるユダヤ人の王”として訴えましたが、イエスは反逆の意図がないことをことばと態度でピラトにはっきり示しました。それだけでなく、「あなたはユダヤ人指導者の訴えを信じるのですか。あなた自身は私のことをどう思うのですか。」という意味を込めて34節の質問をしました。ピラトに悔い改めと救いのチャンスを与えました。イエスは何と恵み深く、何と自分の職務に誠実だったのでしょう。それと同時に、34節のイエスのことばは私たちに大切なことを思い起こさせます。すべての人はイエスのことをどう思っているかを問われます。他の人に代弁してもらうことはできません。人を釈放したり、死刑にする権威を持っていることをピラトは自負していましたが、それはこの世での一時的な権威に過ぎません。この世の終わりの裁きで人を天国に入れるか地獄に落とすかの権威を持っているのはイエスです。それは永遠の権威です。その日のイエスの判決の基準は、「あなたは私を救い主と信じていましたか」です。

ピラトは恵まれていました。神でもあるイエスと直に話をすることができました。しかも、それはピラトが自分で計画したことではありません。イエスが計画したことです。ピラトがイエスに近づいたのではなく、イエスがピラトに近づいたのです。何と恵まれたことでしょう。何とありがたいことでしょう。では、私たちはどうでしょう。私たちにはイエスの姿が見えません。イエスの話を直に聞くことはできません。それは損でしょうか。いいえ、そうではありません。私たちは聖書からイエスの生涯について知ることができます。イエスの教えを聞くことができます。牧師や宣教師や教師を教会に備えているのはイエスです。それは信者の信仰を強め、成長させるためです(エペソ4:11‐13)。また、すべての信者に対して、あらゆる国の人々を弟子としなさいと命じました。それはすべての人に悔い改めと救いの機会を与えるためです。

イエスの教えを聞く時、私たちはどのように反応してきたでしょうか。幸いなことに、私たちは信仰に導かれ、信仰の恵みとして罪のない者とみなされました。ところが、天国に入るまでは私たちにも罪深い性質が残っています。そのため、ピラトと同じようにイエスの教えを聞きたくないという態度を取ってしまうこともあるのです。この罪だけでも数え切れないかもしれません。そのような罪もあることを覚えて、悔い改めましょう。そして、イエスに赦しを願いましょう。イエスは私たちよも約2000年前に生きていました。けれども、私たちの罪も身代わりに背負いました。イエスはこの裁判で死刑を宣告されることを承知していましたが、私たちの身代わりとして十字架への道を歩み続けました。私たちの罪を償うために神の罰を受けました。

主イエスよ、私たちも罪人です。私たちがあなたに属する者とされたのは私たちの努力や功績によるのではなく、ただあなたの恵みであることを覚え、感謝致します。私たちがあなたの教えを聞きたくないと思ってしまう時、あなたについて宣べ伝える良い機会を逃がしてしまう時、その罪を赦してください。そして、聖書と主の晩餐によって私たちの弱い信仰を強め、私たちがあなたとあなたの教えをますます愛するようにしてください。