イエスと人々の対照的な態度

マルコの福音書15章22〜32節(新改訳:新約92ページ、新共同訳:95ページ)

そして、彼らはイエスをゴルゴタの場所(訳すと、「どくろ」の場所)へ連れて行った。15:23 そして彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに与えようとしたが、イエスはお飲みにならなかった。15:24 それから、彼らは、イエスを十字架につけた。そして、だれが何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。15:25 彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。15:26 イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王。」と書いてあった。

15:27 また彼らは、イエスとともにふたりの強盗を、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。15:28 [本節欠如]15:29 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。15:30 十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」15:31 また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「他人は救ったが、自分は救えない。15:32 キリスト、イスラエルの王さま。たった今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。

東京が江戸と呼ばれていた頃、現在の品川区南大井2丁目辺りは鈴が森、荒川区南千住5丁目辺りは小塚原(こづかはら、あるいはこづかっぱら)と呼ばれた処刑場でした。それと同じように、エルサレム郊外にも処刑場がありました。エルサレムは標高800メートルくらいの山の上に建設された都市です。茨城県の筑波山山頂付近の高さに建設されたと考えたら、イメージしやすいかもしれません。エルサレムは城壁に囲まれた都市で、その城壁の外にゴルゴタと呼ばれる丘がありました。ゴルゴタは“どくろ”という意味です。形状が人間の頭の骨に似ていたので、そう呼ばれたようです。今日、私たちは今から約2008年前のゴルコタに思いを馳せます。そして、信仰の目によってイエスとその他の人々の対照的な態度を見ます。

T.人々はイエスをあざけりました

今日の場面はイエスがゴルコタで十字架に架けられるところから始まります。イエスは木曜深夜にゲッセマネの園で捕らえられ、異常な時間に、異常な早さで、ユダヤ人指導者による宗教裁判とローマの法律に基づく裁判の両方にかけられました。ローマの法律による法廷の裁判官を務めた総督ピラトは、ユダヤ人がねたみでイエスを訴えたことに気づいていましたが、群集を巻き込んだユダヤ人の気迫に押されて、無実のイエスの死刑を認めてしまいました。ピラトがイエスの死刑を認めると、ローマ軍の兵士たちはイエスを着せ替え人形のように扱いました。イエスに高貴な人が着る紫色の衣を着せ、いばらの冠をかぶらせ、「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と叫びました。その上、イエスの頭を葦の棒で叩いたり、つばきをかけたり、ひざまずいて拝んで、イエスをからかいました。何とひどいことでしょう。それから、イエスと二人の犯罪人をゴルコタまで歩かせました。既に激しく鞭打たれていたので、イエスのからだは十字架を背負えないほど弱っていました(マルコ15:21)。イザヤが預言したように、イエスには人々が救い主に期待した見栄えはありませんでした(イザヤ53:3)。信仰のない人々の目には、イエスは一人の死にかけた愚か者にしか見えませんでした。

イエスが十字架に架けられたのは金曜日の午前9時頃でした。捕らえられてから10時間経過していなかったかもしれません。手足に大きな釘を打たれるのは痛いです。兵士たちはそのことを十分に知っていました。ですから、少しはイエスに同情したでしょう。いいえ、まったくしませんでした。彼らの関心はイエスの着物をくじ引きで分けることでした。何ということでしょう。道行く人々も頭を振りながらイエスをののしりました。その人々はイエスに向かって、「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」と言いました。この人たちはイエスがしていることの重大性を分かっていませんでした。神としての力を使えば、イエスが自分を救うことは簡単でした。しかし、そんなことをしたらすべての人の罪を償うことはできませんでした。祭司長たちや律法学者たちもイエスをあざけって、「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王さま。たった今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」と言いました。何と愚かで恥ずべき態度でしょう。もしイエスが十字架から降りたら、すべての人が地獄に行かなければならないのに。この世の終わりの日に、イエスが神の栄光を帯びてすべての天使を従えて来る時、この人たちはイエスに何と申し開きするのでしょう。この人たちは自分の言動の愚かをとことん後悔するでしょうが、その時では遅すぎます。

同じ日に二人の犯罪人が十字架に架けられました。一人はイエスの右で、もう一人はイエスの左で十字架に架けられました。この二人は自分が犯した罪の結果として十字架に架けられました。この期に及んでは、この二人もさぞかし神妙にしていたことでしょう。いいえ、そうではありません。22節によると、この二人もイエスをののしりました。何ということでしょう。この二人がイエスにどんな事を言ったのか具体的に書かれていませんが、マタイはこの二人も「同じようにイエスをののしった。」と記録しています。この二人もローマの兵士たち、道行く人々、祭司長たちや律法学者たちといっしょになってイエスをあざけりました。自分たちの罪の身代わりに神の罰を受けてくれている方に対して何とひどい態度でしょう。イエスに対する反応は、この世が始まってから消滅するまでの全時代の人を二つのグループに分けてしまいます。一つのグループはイエスを救い主と信じて、イエスが身代わりに神の罰を受けてくれたことに感謝します。もう一つのグループはイエスに対して無関心であったり、イエスをあざけります。けれども、イエスを信じる人々にも天国に召されるまでは罪深い性質が残っているので、イエスに対して無関心になったり、故意にではないにしてもイエスをあざける態度を取ってしまうことがあります。たとえば、生徒が先生を、子どもが親を、部下が上司を、従業員が経営者を、若者が年上の者を、国民が政府を、信者が群れの監督(牧師)をあざける時、それはイエスをあざけることと同じです。なぜなら、そのような人や地位は神が私たちの肉体や魂の平安を守るために定めたものだからです。神が私たちの上に立てた権威を尊敬しないことは罪ですが、私たち人間は自分の感情を満足させるためにしばしばその罪を犯します。ですから、その罪を悔い改めて、赦しを願いましょう。

U.イエスはあざけっている人々を含むすべての人の罪の償いを粛々と成し遂げます

ローマ軍の兵士、道行く人々、祭司長たちや律法学者たち、二人の犯罪人、あるいは私たちの態度に比べて、イエスの態度は本当にすばらしいです。ユダヤ人指導者による宗教裁判でも、ローマの法律の下での裁判でも、どんな不利なことを言われても、イエスはだまっていました。ただ、真理についてははっきり答えました。真理とは、イエスが神の子であることやイエスは人間を永遠の死から救い出すためにこの世に来たことなどです。先ほども話しましたが、死刑が宣告された後で激しく鞭打たれたので、イエスのからだは衰弱していましたが、イエスはローマの法廷からゴルゴタへと歩き続けました。歩かないとさらに鞭打たれるからではありません。それは救い主としての務めを成し遂げようとする強い意志の現われでした。からだは弱っても、イエスの意志は弱りませんでした。沿道の人々からも罵声が飛んだことでしょうが、それでも怯むことも萎えることもなく、イエスは黙々と歩み続けました。それも、弟子たちは敵を恐れて逃げてしまっていましたから、誰からの励ましも受けないでです。

十字架に釘付けにされる前には“没薬をまぜたぶどう酒”を与えられるのが習慣でした。それには麻酔の効果がありましたが、イエスは飲みませんでした。イエスは釘付けにされる時に激痛を受けることを知らなかったわけではありません。むしろ、激痛を受けても、はっきりした意識で救い主の務めを全うしようとしたのです。神から委ねられた務めに何と忠実で、責任感があるのでしょう。私たち罪人に対するイエスの愛は何と深いのでしょう。イエスは想像を絶する痛みを感じていましたが、「うーうー」とか「痛い痛い」とわめきませんでした。その反対に、七つの意味深いことばを語りました。イエスが十字架の上で語った最初のことばはルカの福音書23章34節に書かれています。イエスは自分を釘付けにしたローマ兵のために、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです。」と祈りました。まだ公の伝道活動をしていた頃、イエスは弟子たちに「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」と教えましたが、それを実践しました。イエスの言動、つまり教えと実践に矛盾はありません。イエスの言動は何とすばらしいのでしょう。父なる神よ、私たちの言動が少しでも主の言動に近づくように、福音と主の晩餐によって聖霊を豊かにお与えください。

イエスの言動によってすばらしい効果が現われました。イエスをあざけっていた二人の犯罪人の一人の心に変化が現われました。それはルカの福音書23章40節と41節に書かれています。一人の方が「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と悪口を言った時、もう一人は「おまえは神をも恐れないのか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」と悪口を言った人をたしなめ、イエスを弁護しました。奇跡的な変化です。イエスについての悪口を聞く時、私たちもイエスを弁護しましょう。穏やかな心で、しかしはっきりと弁護しましょう。ペテロもそう勧めています(1ペテロ3:15,16)。

悪口を言った人をたしなめた人は、その後で「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」とイエスにお願いしました。この人はイエスが神であることを信じました。イエスに罪を赦す権威があることを確信しました。この人はイエスに罪の赦しを願いました。この人は国家の法律に従って死刑にされた犯罪人です。イエスはこの人をどうしたでしょう。イエスは神としての権威でこの人を十字架刑から救出しませんでしたが、この人を愛し、あわれんで、この人に神の法廷での罪の赦しを宣言しました。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と言って、天国への入国許可を与えました。この世で犯罪をすれば国の法律に従って罰せられますが、たとえ死刑を宣告された人でも、悔い改めるなら神の法廷ではすべての罪を赦していただけます。きよい者とみなされます。イエスがすべての人の罪を償ったからです。私たちもイエスの模範に従って、私たちの信仰をあからさまにあざける人にも福音を伝え続けましょう。もしかしたら、その人が死ぬ直前にイエスを信じて、地獄での永遠の死から救われるかもしれません。神よ、私たちにイエスの模範に従う心と強さを与えてください。私たちの救いのために忠実に務めを果たしたイエスに感謝する心をお与えください。主イエスよ、ゴルゴタの丘であなたが示してくださった私たちに対する愛と憐れみに心から感謝致します。