イエスはよみがえりました

マルコ16章1節〜8節(新改訳:新約94ページ;新共同訳:新約97ページ)         

さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。16:2 そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。16:3 彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。16:4 ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。16:5 それで、墓の中にはいったところ、真白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。16:6 青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。16:7 ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」16:8 女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。                                   

今日私たちは「イースター(復活祭)おめでとうございます。」と挨拶します。けれども、私たちにとってイースターは本当におめでたいでしょうか。私たちはくり返して自分自身にそう問いかけてみなければなりません。イースターの意味を知らずに、あるいは意味を知っていてもそれを確信していなければ、「イースターおめでとうございます」は形式的な挨拶に過ぎません。そのような挨拶は神様を喜ばせません。私たち人間も心のこもった挨拶をされたら嬉しいでしょう。神も同じです。しかし、イースターの意味を知ることは簡単ですが、確信することは簡単ではありません。イエスの直弟子にとってもそうでした。

T.イエスのよみがえりは弟子たちにとっても信じがたいことでした

今日の箇所を正しく理解するには、他の福音書と合わせて判断することと、この時代のユダヤ人の一日の始まりと私たちの一日の始まりの差を知ることが重要です。私たちの一日は午前0時から始まりますが、聖書の時代のユダヤ人の一日は日没から始まりました。イエスは木曜深夜に捕らえられ、二つの裁判を経て、金曜日の午前9時頃に十字架にかけられました。イエスは十字架の上で苦しみながらも、七つの重要なことばを語りました。そして、午後3時頃に息を引き取りました。十字架に架けられる前に激しく鞭打たれ、かなり衰弱していたので、同じ時に十字架にかけられた他の二人よりも早く亡くなりました。イエスが死んだのはユダヤ人(イスラエル人)がエジプトでの奴隷状態から神によって救出されたことを記念する過越祭の時ですが、彼らの暦は月の動きに基づいていたので、私たちの暦に合わせると、過越祭は3月中旬から4月中旬頃を移動します。仮にこの時の過越祭が4月中旬だったとしても、イエスが死んでから日没まで4時間ありませんでした。

ユダヤ人の暦では日没以後は安息日(土曜日)になって、仕事をすることができませんでした。死体を葬ることもできませんでした。ですから、アリマタヤのヨセフという弟子がイエスの遺体の引き取りを総督に願い出て、自分の所有する新しい墓にニコデモといっしょに納めました。十分な準備をしている時間はなく、あわただしく納めました。葬儀はありませんでした(ヨハネ19:38‐42)。イエスの直弟子たちは敵を恐れ、逃げてしまっていたので、イエスの埋葬に参加しませんでした。ただ、数名の女性信者がイエスの遺体が納められるのを見ていました。それは、その時にできなかったことを後でするためでした。イエスの墓の場所を確かめた後、彼女たちはイエスの遺体に塗るための香料と香油を買い求めました。そして、安息日は律法に従って休みました(ルカ23:54‐56)。マルコはこの時間の流れを省略して、要点だけを書きました。

私たちの暦の土曜夕方でユダヤ人の安息日(土曜日)は終わり、週の初めの日(日曜)になりますが、夜は暗くて何もできません。それで、この女性たちはその夜を家で過ごし、翌朝早くイエスの墓に出発しました。その時を待ち切れなかったという気持ちが読み取れます。墓に向かう女性たちには一つの心配がありました。それは墓の入り口の石を動かしてくれる人がいるかどうかということでした。なぜなら、イエスの墓は洞窟状で、獣などが入り込むのを防ぐための入り口の石は大の男が少なくても二人いなければ動かないような大きな石だったからです。イエスの遺体に塗る香料や香油を買ったこと、墓の場所を確かめたこと、できるだけ早く墓に行ったことなど、この女性たちの行動にはイエスに対する愛が溢れています。人間的な見方をすれば、逃げてしまった直弟子に比べて遥かに立派です。しかし、直弟子たちと同様に、この女性たちも「わたしは十字架に架けられて死ぬが三日目によみがえる」というイエスの教えを確信していませんでした。愚かですが、死人が生き返ることは人間にとってそれほど理解しがたいことなのです。イエスの生き返りを確信していなかったので、彼たちの心に喜びはありませんでした。安息日は魂の平安を得る日として神が人間のために制定したのですが、この女性たちや直弟子たちの心は悲しみや嘆きでいっぱいでした。

U.イエスは本当によみがえったので、イエスのからだは墓の中にありません

けれども、イエスの墓ではこの女性たちの予期していないことが起こっていました。彼女たちが墓に着いた時、入り口の大きな石は既にわきにころがっていました。それはもっと驚く出来事の入り口でした。彼女たちが中に入って見ると、天使がすわっていました。マルコは「真白な衣をまとった青年」と書いていますが、マタイによると主の使い(天使)です。彼女たちの驚き方は、その青年は人間でないことが一目で分かったことを示してします。天使は女性たちに、「驚いてはいけません。」と言いました。天使は神に仕えるきよい霊ですから、恐れる必要はありません。その天使は神からの重要なメッセージを伝えるために遣わされました。そのメッセージをもう一度聞きましょう。「あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ご覧なさい。ここがあの方の納められたところです。

聖書でいうよみがえり(生き返り)は死んだ時に分離した肉体と魂が再びいっしょになることです。魂が別の人に乗り移るのではなく、死ぬ前と同じ人間としてよみがえります。一つの違いは、よみがえった後のからだは栄光のからだなので一点の汚れもなく、病気になることも、死ぬこともありません。人間の理解力を超えていますが、死人のよみがえりこそ神が聖書の中で教えることです。キリスト教の核心です。パウロが第1コリント15章で述べているように、キリストがよみがえらなかったのなら、クリスチャンの信仰は意味がなく、クリスチャンは哀れな者です。しかし、イエス本当によみがえりました。だから、墓の中にいません。だから、イエスの墓は残っていません。だから、クリスチャンはイエスの墓に参りません。

弟子たちがイエスの復活を確信するまでには時間がかかりました。彼らはイエスの死を目撃したのですから、当然かも知れません。だから、イエスは彼らに深い思いやりを示しました。彼らを捨てて置かないで、恐れから解放して復活を確信させるために40日の間地上に留まり、生きている姿を彼らに示します。彼らにはそのような時間が必要でした。私たちにとっても死人の復活は信じがたいことです。だから弟子たちと同じように、イエスがよみがえったことを聖書からくり返して聞かなければなりません。聖書を通して働く聖霊の助けが必要です。自分の理解力によってではなく、聖霊の助けによってイエスの復活を確信しましょう。

ローマ書4章25節は「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」と、イエスの死とよみがえりの意味を簡潔に説明しています。イエスは十字架の上で私たちの罪の代償を払いました。そして私たちが義とされるために、つまり罪のない者とされるためによみがえりました。イエスのよみがえりは神がイエスの命を私たちの罪を償う十分な代償として受け入れられたことの証明です。私たちが罪の赦しを得るために神に払うべきものは何もありません。イエスを救い主と信じる信仰の賜物として、神は信じるすべての人に価なしに罪の赦しを与えます。イエスは私たちを悪魔と罪と死の奴隷状態から解放しました(ヘブル2:14,15)。

8節によれば、女たちは恐ろしさで震え上がり、気も転倒していて、墓から逃げ帰りました。私たちは彼女たちの気持ちを十分理解できます。もし同じ立場だったら、同じようになったでしょう。彼女たちは途中で誰にも何も言いませんでした。それでよかったのです。天使は「弟子たちにイエスのよみがえりを伝えなさい」と命じたからです。彼女たちはそうしました。それはその時彼女たちがすべきことでした。しかし、イエスのよみがえりから50日目、聖霊の特別な力をもらった弟子たちは、敵を恐れずないでイエスのよみがえりを公に伝え始めます。エルサレムから全世界へと広めます。イエスの復活は隠しておくものではありません。すべての人に知らせるべき嬉しい知らせです。私たちもイエスの復活を多くの人に知らせましょう。

イエスは本当に死人の中からよみがえりました。それはイエスを信じる者が永遠の命によみがえる証拠です。墓の中にある私たちの肉体が生き返る証拠です。イエスの復活を信じる者は哀れでも愚かでもありません。永遠の祝福をいただいく幸いな者です。イエスの復活を確信して、そして自分自身の復活を確信して、「イースターおめでとうございます」と言いましょう。今日皆さんといっしょに主の復活を祝うことができることは嬉しいことです。死人の中からよみがえられた主の祝福が続けて皆さんの上にありますように。