復活したイエスの教え

ルカの福音書24章36〜49節(新改訳:新約156ページ;新共同訳:161ページ)           20090426

これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真中に立たれた。24:37 彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。24:38 すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。24:39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」24:40 [本節欠如]24:41 それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか。」と言われた。24:42 それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、24:43 イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。24:44 さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」24:45 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、24:46 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。24:48 あなたがたは、これらのことの証人です。24:49 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」

イエスは十字架の上で自分の命を神にささげ、すべての人の罪を償いました。すべての人の罪を身代わりに背負って、神の罰を受けました。神はイエスの命をすべての人の罪を償う十分な代金として受け入れ、すべての人の罪に対する怒りを静めました。そして、それを証明するためにイエスは三日目によみがえりました。けれども、イエスには別の務めが残っていました。それはよみがえりを弟子たちに確信させ、そのことを全世界の人々に伝える役割を与え、その役割を果たすための力を装備させることでした。私たちも聖書を通してイエスのよみがえりを確信し、イエスから重要な務めを委ねられたことを認識し、その務めを果たすための力を装備してもらいましょう。

T.イエスは弟子たちに復活を確信させました

今日の箇所はイエスがよみがえった日の夜の出来事です。この日の早朝によみがえったイエスは、既にマグダラのマリヤに、ペテロに、そしてエマオに向かっていた二人の弟子に姿を現わしていました。疑いなく、今日の箇所の集まりの話題もイエスのからだが墓からなくなっていたこと、数名の弟子がよみがえったイエスの姿を見たことでした。しかし、死んだ人間が生き返ることは人間の理解力を超えているので、弟子たちはこの時点でさえイエスの復活を完全には確信していませんでした。弟子たちにはまだまだイエスの助けがまだ必要でした。イエスもそれが分かっていたので、本当によみがえったことを確信させるためにこの集まりに姿を現わしました。

この時の現われ方は詳しく書かれていません。しかし、「イエスはドアを手で開けて入ってきたが、弟子たちは話に夢中だったのでイエスがそばに来るまで気付かなかった。だから驚いた。」というニュアンスではないようです。弟子たちは部屋のドアを閉めておきましたが、イエスはそのドアを通り抜けて入って来たというニュアンスです。私たちのからだは閉じたドアにあたれば跳ね返されますが、よみがえったイエスのからだは跳ね返されないで、通り抜けました。ですから、弟子たちはイエスを見た時に「霊を見ているのだ」と思いました。弟子たちの感じ方は、死者の魂はこの世をうろうろすることがあるという考えをユダヤ人たちが持っていたことを示しています。

イエスは驚き恐れている弟子たちに、「なぜ取り乱しているのですか」と言いました。しかし、これは質問ではありません。イエスは弟子たちが取り乱している理由を知っていました。イエスは「わたしのからだが生き返ったことをどうして信じないのですか。わたしが教えたことをどうして信じないのですか。」と言っているのです。そして、肉体を持っていることを確信させるために、「わたしの手や足をみなさい。さわってみなさい。霊ならこんな肉や骨はありません。」と続けました。また、焼いた魚を一切れ食べました。本当に不思議なことですが、ドアや壁もよみがえったイエスのからだを封じ込めることができないのに、肉や骨がありました。私たちがこの世の終わりにいただくからだもイエスと同じ栄光のからだです。私たちの今のからだは老いるし、病気になるし、死にますが、栄光のからだは老いることも病気になることも死ぬこともありません。イエスを信じる人にはこのようなすばらしい贈り物が用意されています。

U.イエスは旧約聖書の預言が正しいことを弟子たちに確信させました

44節を見てください。44節は復活したイエスが弟子たちに強調して教えたことの一つです。イエスは「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。」と言いました。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ」とは、イエスが十字架に架けられて死ぬ前のことです。その頃、イエスは自分の身に起こること、自分がしようとしていることを弟子たちに教えました(マタイ16:21;マタイ26:2)。残念ながら、弟子たちはそれを忘れていました。「はい、忘れていました」と言いませんでしたが、彼らがイエスの教えを忘れていたことは彼らの言動から明らかです。聖金曜日から三日目の日曜まで、彼らの心はイエスを失ったという恐れと不安と絶望で満たされていました。また、数名の女性信者が「私たちは主にお会いしました」と言ったのに、主の復活を確信しませんでした。イエスは私たちに対しても「わたしがあなたたちに話したことばはこうです。」と言っています。私たちも弟子たちといっしょにイエスの教えを聞いて、それを思い出しましょう。

イエスが弟子たちに教えたのは、「わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇に書いてあることは全部成就する」ということでした。「モーセの律法と預言者と詩篇」はヘブライ語の旧約聖書を三分割した部分の呼び名です。「モーセの律法」は創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のことです。これらはモーセによって書かれたのでモーセの五書または単に五書とも呼ばれます。「預言者(預言者の書)」の部分には、ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、ホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書が含まれました。「詩篇(詩歌書)」の部分には、ヨブ記、詩篇、箴言、ルツ記、雅歌、伝道者の書、哀歌、エステル記、ダニエル書、エズラ記、ネヘミヤ記、歴代誌が含まれました。私たちが使っている聖書と並び方は違いますが、まったく同じものが含まれていました。

イエスのことばから分かるように、旧約聖書にはイエスに関する預言が書かれていました。つまり、創世記しか読んだことのない人でも、救い主を知って、信じて、救われることは十分にあり得ます。旧約聖書にはイエスに関するたくさんの預言が書かれています。イエスは「それらの預言は必ず全部成就する」と弟子たちに教えました。書かれた時代も書いた人も違うのに、なぜイエスに関する預言は全部実現するのでしょうか。なぜなら、それらすべては神の計画だからです。聖書に書いてあることは神のことばだからです。

イザヤ53章にはイエスの受ける苦しみが正確に書かれています。イザヤはイエスの受難を目撃したのではないかと思うほど正確です。聖霊なる神が書くべきことを教えたので、イザヤは正確に描写できました。詩篇22篇には十字架上のイエスの口やのどが渇くこと、イエスを十字架に付ける者がイエスの着物をくじ引きにすることが預言されています。その通りになりました。詩篇16詩篇では、救い主は死んで葬られるけれども、よみがえることが預言されています。その通りに、イエスは死んで三日目によみがえりました。

U.イエスは弟子たちに重要な使命を委ねました

この福音書を書いたルカは使徒の働き(使徒行伝、使徒言行録)も書きました。ルカはその1章3節で、「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」と書いています。イエスはその40日間に弟子たちの信仰を強めました。イエスは天に帰るので、弟子たちがイエスの成し遂げたことを広めるためです。弟子たちがイエスの復活を確信しなければ、信仰による罪の赦しを確信しなければ、永遠の命を確信しなければ、それらをあらゆる国の人々に宣べ伝える使命を果たすことは不可能です。

イエスは弟子たちに使命を与えて、後は“知らんふり”ではありません。信仰も、罪の赦しも、永遠の命も神からの贈り物ですが、福音を宣べ伝えようという意思やその実行力、また宣教活動を支える意志も行動力も神からの贈り物です。イエスは弟子たちに大きな使命を与えましたが、それと同時に、その使命を果たすための力を装備させます。イエスが天に上った日から10日目、イエスが49節で約束したように、聖霊が弟子たちの上に下ります。聖霊は父なる神や子なる神イエスと共に唯一の神です。聖霊の助けがなければ、弟子たちはイエスから委ねられた使命を果たすことができません。

使徒の働き2章に記録されているように、聖霊は奇跡的な方法で使徒たちに下ります。使徒たちは習ったことのない外国語でイエスについて話し、奇跡を行なう特別な賜物を与えられます。それは使徒たちが神のしもべであることを人々が分かるためでした。聖霊は今でも与えられます。ただし、聖書や洗礼や聖餐式の福音を通してです。不思議な方法によってではありません。聖霊は今でも人々を信仰に導き、信仰を強め、福音を伝える意思と力を与えます。それは、私たちがイエスを信じる信仰による罪の赦しと永遠の命を宣べ伝えるためです。