キリストに似た者とされる

第1ヨハネの手紙3章1,2節(新改訳:新約428ページ;新共同訳:新約443ページ)       090503

私たちが神の子どもと呼ばれるために、・・事実、いま私たちは神の子どもです。・・御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

主イエス・キリストにあって愛する友である皆さん、あなたはいったい誰の子ですか。皆さんのお父さんとお母さんの間に波風を立てるつもりはないのですが、今日は皆さんに「私は、本当は誰の子なのだろうか。」と良く考えていただきたいと思います。また、その反対のことも考えてください。もし他人の子どもから「お父さん」あるいは「お母さん」と呼ばれたら、あなたはどう思いますか。仮にその子を良く知っていて、その子があなたになついていても、生みの親か継父母や養父母など法律上の親子関係が成立していなければ、正式な親子ではありません。その子にはあなたを「お父さん」あるいは「お母さん」と呼ぶ権利も、あなたの財産を相続する権利もありません。以上のことを頭に入れて、もう一度良く考えてください。あなたは一体誰の子ですか。

皆さんは既に気付いていると思いますが、私は皆さんの“この世での親”が誰であるかを質問しているのではありません。むしろ、皆さんの“霊の父”が誰であるかを考えてほしいと思っています。使徒ヨハネがその答えを今日の箇所で教えているので、私たちの霊の父が誰であるか、霊の父が私たちにどのような祝福を与えるかについて学びましょう。

T.私たちは神の子どもとされました

ヨハネが答えを教えているので、私の質問に答えることはむずかしくありません。私たちクリスチャンは神の子どもです。答え以上にむずかしいのは、「いま私たちは神の子どもです。」という真理の背後に「私たちが神の子どもでない時がありました。」という真理があることを認識できるかどうかです。このことが分からなければ、神の子どもにされたことがどれほどすばらしい祝福であるかを正しく理解することはできません。例えば、親がいることのありがたさを本当に分かるのは以下のケースのうちどちらでしょう。日本や欧米の多くの子どものように、親がいて食べ物や衣服が当たり前のように与えられる子どもでしょうか。あるいは、アジアやアフリカの多くの子どものように、病気や戦争で親を亡くし、今日の食べ物もないような子どもでしょうか。私は後者だろうと思います。それと同じように、神の子とされる以前の惨めな状態を認識していなければ、神の子どもとされたことがどれほどすばらしい祝福であるかを認識することはできません。“霊的みなしご”でなくなったことのありがたさを本当には分かりません。

実を言えば、私も聖書を読むまでは、自分のことを「欠点はあるけど、悪い人間ではない。」と思っていました。ところが、聖書によると、私は全本質が汚れた者、生まれつきの罪人、神の敵、神の怒りを受けるべき者、霊的な死人でした。自分ではそう思っていませんでしたが、罪の報いとして地獄に落ちる者でした。おそらく、皆さんも自分が地獄に落ちるほどひどい人間だとは思っていなかったでしょうし、世の中のほとんどの人もそう思っていないと思います。なぜなら人間には、神のきよさと自分を比べて罪を自覚するよりも、自分よりも悪い人と自分を比べて自分を安心させようとする性質があるからです。ですから、自分の罪に気づくのはうとくても、他人の罪はめざとく気づき、非難します。これは福音書に出てくるパリサイ人の考え方とまったく同じです。イエスがこの考え方を“外側はきれいだが内側は真っ黒に汚れた器”と批評したことを忘れないようにしましょう。

アダムとエバが神の戒めを破って以来、すべての人は神の子どもと呼ばれる資格がありません。8節から10節を読むなら、ヨハネは私たちにもっとショックなことを告げます。聖書では、罪ある者は“悪魔から出た者”あるいは“悪魔の子ども”と呼ばれます。つまり、私たち人間は母親の胎にみごもられた瞬間にアダムとエバの罪深い性質を代々受け継いでしまうので、悪魔の子どもとして生まれたことになります。このことが分からなければ、ヨハネが今日の箇所で教えている神の祝福は“絵にかいたもち”で終わってしまいます。その反対に、私たちが私たちの生まれながらの状態を正しく認識するなら、神が私たち人間に神の子どもとなる道を備えてくださったことのすばらしさを実感することができます。

U.私たちは神の愛を与えられました

それでは、どのようにして悪魔の子どもであった私たちが神の子どもになったのでしょうか。私たちが何か良いことをしからでしょうか。いいえ、違います。私たちは神が与えてくださった愛によって神の子どもと呼ばれるようになりました(1節)。それでは、神は私たちにどのような愛を与えてくださったのでしょうか。この愛について、ヨハネはこの手紙の4章10節で以下のように述べています。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」つまり、人間の罪を償って、人間の罪に対する神の怒りをなだめるために、子なる神イエスはしもべの姿でこの世に遣わされ、十字架の上で犠牲となりました。イエスが十字架の上で犠牲となったことこそ、すべての人に対する神の愛の表現なのです。パウロも私たちに対する神の愛についてヨハネと同じことをローマ書5章8節で述べています。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

神の愛はそれだけではありません。イエスが私たち人間の罪を償うために身代わりに死んでくれたことや、イエスを救い主と信じる者は誰でも罪が赦されることを教える教えを福音と言いますが、聖霊なる神が福音を通して私たちの心にイエスやイエスが成し遂げた信じる信仰を造り出します。聖霊が信仰を造り出さなければ、誰もイエスを信じることはできません(1コリント12:3)。そして、聖霊が造り出した信仰を通して、私たちは罪の赦しや永遠の命などの祝福を神からいただきます。罪を赦された人は神の子どもに生まれ変わります。パウロはローマ書8章14節と15節で以下のように述べています。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『(神を)アバ、父』と呼びます。」イエスを信じる信仰の恵みとして罪を赦され、神の子どもに生まれ変わった人は、神との親子関係が成立したので、神を父(アバ)と呼ぶ権利を持っています。神もその人を子どもとして受け入れます。さらに、その人は天にある神の資産を受け継ぐ権利も与えられます(ローマ8:17)。パウロはそのことをガラテヤ人への手紙4章4節から7節でも書いています。

V.私たちは終わりの日にキリストに似た者とされます

私たちは信仰の恵みとして罪を赦されます。けれども、この赦しは化学変化ではありません。つまり、イエスを信じた瞬間に私たちのからだを構成する細胞が化学変化を起こして、汚れのないからだになるというのではありません。むしろ、それは裁判所での無罪の宣告です。つまり、私たちの罪深い本質は変わっていませんが、イエスが私たちの罪を身代わりに償ったので、神は私たちに無罪を宣告して、きよい者とみなしてくれます。ですから、この世で生きている間は、クリスチャンは罪深い性質も持ち続けます。パウロでさえ、心の中に神の教えを喜ぶ思いと神の教えに敵対する思いがあることを告白しています。パウロはそのような自分を“みじめな人間”と呼んで、イエスだけがそのような自分を救うことができると述べています(ローマ7:15‐24)。ですから、イエスを信じて、すべての罪が赦されたとしても、老化現象がストップする訳ではないし、病気にならない訳ではありません。この世では、クリスチャンも必ず一度は死にます。老化したり、病気になったり、一度は死ぬという点において、イエスを信じていない人と差はありません。

けれども、私たちクリスチャンとクリスチャンでない人との間には大きな違いがあります。それは死後のよみがえりです。イエスは十字架の上で死んで、墓に葬られましたが、三日目に死の力を滅ぼして生き返りました。生き返ったイエスのからだには肉や骨がありましたが、死ぬ前のからだとはまったく違っていました。生き返ったイエスのからだは老いることも、病気になることも、二度と死ぬこともありませんでした。それはあまりにもすばらしく、聖書の著者たちでさえ完全に表現することはできませんでした。パウロはよみがえり後のイエスのからだを“栄光のからだ”と呼んでいます(ピリピ3:21)。ヨハネは「後の状態はまだ明らかにされていません」という表現や「私たちはキリストに似た者にされる」という表現を使って、今の私たちのからだとよみがえり後のからだの違いを暗示しています。

私たちがキリストに似た者とされるのは、キリストが現れる時です。もちろん、それはキリストの二度目の現われです。その日はこの世が終わる日です。神が維持を止めるので宇宙のバランスが崩れ、燃え尽きる日です。その日、キリストはすべての信者を天国に連れて行くために、そして信じなかったすべての者を地獄での永遠の苦しみに入れるために戻ってきます。その日、私たちは神と人間の二つの性質を持つイエスのありのままの姿を見ます。そして、神の子どもとしてイエスや天使といっしょに永遠の祝福と幸福の中で生き続けます。