ピリポの伝道

使徒の働き8章36節〜40節(新改訳:新約223ページ;新共同訳:新約228ページ)            20090510

ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。)8:27 そこで、彼は立って出かけた。すると、そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピヤ人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、8:28 いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。8:29 御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われた。8:30 そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」と言った。8:31 すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」と言った。そして馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。8:32 彼が読んでいた聖書の個所には、こう書いてあった。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。8:33 彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」8:34 宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」8:35 ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。8:36 道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。」8:37 [本節欠如]8:38 そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。8:39 水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。8:40 それからピリポはアゾトに現われ、すべての町々を通って福音を宣べ伝え、カイザリヤに行った。

キリスト教会は伝道ということばをしばしば使いますが、伝道とは何でしょう。誰かから「伝道って何ですか」と質問されたら、皆さんは何と答えるでしょうか。声に出さなくて結構ですが、答えを考えてください。実は、今日の箇所は伝道が何かを学ぶために適した箇所の一つです。ですから、自分の答えと比較しながらこの箇所を学んでください。この箇所によると、伝道には三つの重要点があることが分かります。一つ目は、クリスチャンを伝道に遣わすのは神だということです。二つ目は、伝道の中心は唯一の救い主であるイエスについて教えることだということです。三つ目は、イエスが定めた聖礼典(洗礼や聖餐式)を実践することです。

T.神はピリポをエチオピヤ人の宦官のところに遣わしました(26節〜31節)。

ピリポは使徒ペテロや使徒ヨハネといっしょにサマリヤ地域で伝道しました。その後ペテロとヨハネはエルサレムに帰りました(使徒8:5,14,25)。ところが、ピリポは主の使いによってエルサレムからガザに向かう道に遣わされました。ガザはエルサレムの西南に位置し、地中海に面した地域で、シリヤのダマスコを経由して、中近東とエジプトを結ぶ国際幹線道路が通っていました。ピリポはそこでエチオピヤ人の宦官に出会いました。ピリポはその人のために遣わされました。このように、神はひとりの人のために信者を遣わすことがあります。一度に大勢の人を集める伝道の方が注目されやすいですが、神は人間ひとりひとりの救いを望んでいるので、ひとりの人への伝道も大勢への伝道に劣らず重要であることを忘れないようにしましょう。また、神は私たちをも誰かのところに遣わすことを忘れないようにしましょう。

ピリポが出会った人はエチオピヤ人と呼ばれていますが、現在のエチオピヤではなく、現在のエジプト南部からスーダン北部にかけて存在していたヌビア王国のことのようです。この時代、肌の黒い人々は一般的にエチオピヤ人と呼ばれていました。ピリポが出会った人は女王カンダケの財産全部を管理している高官でした。カンダケは女王の個人名ではなく、ヌビア王国の女王の称号です。エジプトの王がパロ(ファラオ)、ローマ帝国の皇帝がカイザル(カエサル)と呼ばれたのと同じことです。この高官は何かのきっかけでユダヤ人(イスラエル人)が信じていた天地万物の神を信じるようになっていました。そして、神を礼拝するためにエルサレムに来ました。馬車を使ったとはいえ、長旅をして、礼拝するために多くの時間と費用を費やすことを惜しまなかったのですから、この人は熱心な信者でした。

宦官は国に帰る途中で、ピリポが近寄った時にイザヤ書53章を読んでいました。ピリポはこの機会を逃さないで、宦官と会話するきっかけを作るために「読んでいる内容がわかりますか」と話しかけました。すると、宦官は「教えてくれる人がいなければ、どうして分かるでしょう。」と正直に答えました。宦官は真の神を信じていましたが、まだイエスのことを知りませんでした。イザヤ53章がイエスのあがないを預言していることや、イエスが十字架で死んだこととイザヤ53章との関連を分かっていませんでした。イエスを信じる信仰の恵みとして無償で罪が赦されることをまだ知りませんでした。今の時代に置き換えれば、この人は運転手付きの車で旅行するほど社会的な身分や地位のある人でしたが、そういうプライドに捕われず、「馬車に乗って教えてください」とピリポにお願いしました。この人は謙虚な人でした。

U.ピリポは宦官にイエスやイエスがしたことを教えました(32節〜35節)。

ピリポが近寄った時にこの人が読んでいたイザヤ書53章7節から9節には以下のように書かれています。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」宦官は「預言者イザヤはだれについて、こう言っているのですか。イザヤ自身についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。どうか教えてください。」とピリポに尋ねました。イザヤはその箇所で、イエスがすべての人の罪を償うために身代わりとして神の罰を受けること、その務めを果たすためのイエスの強い意志を預言しています。ピリポはそれらのことを宦官に教えました。

「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。」とは、敵に捕らえられてから十字架上で死ぬまでのイエスの態度や姿を預言したものでした。いけにえや食肉にされるためにほふり場に連れて行かれる時でも、羊毛を取るために毛を刈られる時でも羊はおとなしいようですが、それはまさに敵の前でのイエスの態度でした。イエスには死刑にされるような罪はありませんでした。私たちと違って、真の神でもあるイエスには生まれながらの罪深い性質も、思いやことばや行いによる罪も、まったくありませんでした。イエスの敵たちはねたみからイエスを殺したのです。イエスがすべての人の罪を背負って十字架上で神の罰を受けることは神の計画だったので、イエスは抵抗しないで敵に捕らえられました。神としての力を使って敵を滅ぼそうと思えばできましたが、そうしませんでした。イエスはユダヤ人の宗教裁判とローマから派遣された総督ピラトの下での裁判と、二度の裁判を受けました。その時に多くの偽証が出されましたが、イエスはいっさい反論しませんでした。それには総督ピラトも驚いて、なんとか釈放しようと努力しました。

けれども、イザヤが「彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」と預言したように、イエスの敵たちが民衆を扇動して「イエスを十字架につけろ」と騒ぎ出したので、弱気な総督は自分の身と地位を守るためにユダヤ人たちの要求を認めて、イエスを十字架に架けました。これは「殺してはいけない」という第5の戒めを破る罪でしたが、神はイエスの死が人間の祝福となるように変えてくれました。イエスがすべての人の罪を背負って死んだので、神はすべての人の罪に対する怒りを取り除きました。ですから、イエスを信じる人は誰でも神の恵みによってすべての罪を赦されます。また罪が洗い流されることを目に見える形で示すために、イエスは洗礼の礼典を定めました。疑いなく、ピリポはイエスの受難だけでなく、イエスの復活、イエスが定めた洗礼、イエスが与える罪の赦しや永遠の命についても宦官に話しました(35節)。

V.ピリポは高官に洗礼を授けました。(36節〜40節)

ですから、水のある場所に来た時に、宦官は「水があります。私が洗礼を受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。」とピリポに言いました。宦官はイエスの身代わりの死によってすべての罪が償われたこと、洗礼によって罪が洗い流されて霊的に生まれ変われることを信じました。これはピリポの話術の結果ではありません。ピリポが語った聖書のことばを通して聖霊が働いた結果です。洗礼を拒む理由はありません。ピリポは喜んで洗礼を授けました。宦官は洗礼によって神の子供に生まれ変わりました。「洗礼そのものに意味はなく、洗礼はイエスを信じた人が形式的の受ける儀式に過ぎない」と主張するキリスト教会もありますが、聖書は洗礼を「神が人の罪を洗い流すために制定した聖なる礼典(儀式)」と教えています(使徒2:38;22:17;テトス3:5)。イエスがニコデモに教えたように、洗礼は天国に入れるように罪人を洗いきよめる“水と御霊による生まれ変わりの洗い”です(ヨハネ3:1-5)。決して、意味のない形式的な儀式ではありません。洗礼は子どもの罪も大人の罪も、イスラエル人の罪も異邦人の罪も、すべての人の罪を洗い流すために制定されました(使徒2:38,39)。

おそらく、この高官には特別な悩みがありました。それはこの人が宦官だったことです。昔、女王や王妃に仕える男の役人は、女王や王妃と間違いを犯さないように、性器を切り取られました。その人々は宦官と呼ばれました。この高官も真の神を信じていましたが、旧約聖書の律法によれば、主の集会に加わることはできませんでした。なぜなら、こうがんのつぶれた者や陰茎を切り取られた者は主の集会(神の民の集会)に加わることを禁じられていたからです(申命記23:1)。この高官もエルサレムのユダヤ人信者の集会に加えてもらうことはできませんでした。しかし、イエスはこの高官を含めたすべての人の代理として旧約の律法を完全に守り、儀式に関する律法の役目を終わらせました。その結果、この宦官は申命記23章1節の束縛や呪いから解放されました。その上、信仰の恵みとしてイエスの義が与えられるので、聖なるキリスト教会の一員になることができます。宦官の心は喜びで満たされました。それはこの世のものが与えることのできない喜びでした。最近、生まれながらの性別に対する違和感から性転換手術を受ける人が話題になります。聖書がそのような手術を許容するとは思いませんが、そのような手術を受けた人に対してもイエスによる罪の赦しを差し伸べるべきことは、この宦官の話から明らかです。

洗礼を受けた後、この宦官は喜びならが国へ帰って行きました。もちろん、この高官は救われた喜びをエチオピヤで多くの人に語り聞かせたことでしょう。私たち現代のクリスチャンも、いつでも、どこででも、イエス・キリストの福音を他の人々と分かち合います。神は人を強制的に信者にしないので、私たちが伝道した人全員がイエスを信じることはないでしょう。けれども、結果は心配しないで、神から委ねられた伝道という大切な任務を続けましょう。すべての人の罪の償いを成し遂げて、三日目に死人の中からよみがえったイエスについて、イエスを信じる信仰を通して与えられる罪の赦しと永遠の命について宣べ伝え続けましょう。