この道の者からクリスチャンへ

使徒の働き11章19節から26節(新改訳:新約230ページ;新共同訳:新約235ページ)       20090517

さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。11:20 ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。11:21 そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。11:22 この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。11:23 彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。11:24 彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。11:25 バルナバはサウロを捜しにタルソヘ行き、11:26 彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。

今週も伝道について学びますが、その前に国語の勉強をしましょう。一つで結構ですから、正反対のことを意味する熟語の組み合わせを考えてください。皆さんひとりひとりの答えを聞くなら、色々な組み合わせが出てくるはずです。では、もう少し質問の幅を狭くします。今日の箇所の特徴を示す正反対な熟語の組み合わせを考えてください。皆さんはどんな組み合わせを考えるでしょう。この質問でも全員の答えが一致することはないでしょう。実を言えば、私は皆さんの答えが一致することを期待していません。この質問をしたのは皆さんに考えていただきたかったからです。

私がこの箇所を読んで思い浮かべる熟語は逆境です。逆境の反対は順境です。ある国語辞典によると、逆境は物事がうまく行かず、苦労の多い境遇です。順境は物事がすべてうまく行っている、めぐまれた境遇です。今日の箇所は使徒の働きの7章に記録されているステパノの殉教と関連があります。ステパノは信仰のために命を失いました。ステパノは自分に石を投げつけている人々のために、「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」と祈りながら天に召されました。ステパノの祈りは、自分を十字架につけたローマ兵の罪の赦しを神に願ったイエスの祈りを思い起こさせます(ルカ23:34)。最後まで信仰の道を歩み切ったステパノは立派ですが、ステパノに特別な祝福を与えて(使徒7:56)、試練に耐える力を備えたのは聖霊です。皆さんもご存知だと思いますが、クリスチャンに生まれ変わる前のパウロ(サウロ)はステパノの石打に関わりました(使徒7:58;8:1-4;9:1-18)。ステパノの死はそれだけで終わらないで、エルサレムに住んでいたイエスの弟子たちに対する迫害へと拡大しました。この迫害によってイエスの弟子たちはエルサレムから追い散らされました。人間の目から見れば、これは逆境です。嬉しくない境遇です。しかし、神のこの逆境を伝道にとっての良い機会に変えました。キリスト教信仰を広めるチャンスに変えました。

T.追い散らされた弟子たちによってギリシャ人にもイエスのことが伝えられました

9章2節に書かれているように、この頃のイエスの弟子たちは“道の者”と呼ばれていました。おそらく、この名称はヨハネの福音書14章6節のイエスのことばから来ています。イエスはそこで、わたしは道であり、わたしを通してでなければ誰も父(神)のみもとに来ることはできませんと言っています。それで、イエスの弟子たちは道の者と呼ばれるようになりました。19節によると、迫害によって散らされた弟子たちはフェニキヤ、キプロス、アンテオケと進んで行きましたが、ユダヤ人以外の人には伝道しませんでした。

ところが、散らされた弟子たちの中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシャ人にも主イエスのことを宣べ伝えました。聖書の解釈で注意が必要なものの一つに“〜人”という表現があります。初期のエルサレム教会に異邦人の信者がいたとは考えにくいので、20節のキプロス人やクレネ人は2章9節や10節と同じように、キプロスやクレネに国籍があるか住んでいるユダヤ人と考えた方が良いように思います。そのユダヤ人信者たちはアンテオケに来てから異邦人であるギリシャ人に主イエスのことを宣べ伝えました。これはすばらしいことです。イエスはすべての人の罪を償い、すべての人のために救いを獲得しましたから、そのことはすべての民族に伝えられるべきです。日本にも色々な国の人が住んでいます。日本語が通じるならば、日本人以外の人にも積極的に福音を伝えましょう。

私たちが見逃してはいけないのは、この散らされた人々が一般の信者だということです。エルサレム教会の指導者だった使徒たちはエルサレムに残っていました(使徒8:1)。イエスは天に上る前に、「全世界に出て行き、すべての造られた者(すべての人)に、福音を伝えなさい。」という使命を与えました。これは教会の指導者だけに与えられた使命ではありません。すべての信者に与えられた使命です。初期の信者たちは激しい迫害という逆境の中でもイエスから委ねられた使命を果たしました。私たち人間の感覚では順境の中で伝道したいものですし、その方が良い結果が得られるように思います。けれども、私たちにとっての良い境遇が伝道のためにも良い境遇だとは限りません。それはこの箇所から明らかです。

U.主の御手が散らされた弟子たちとともにあったので、多くの人がイエスを信じました

21節は伝道する時に陥りやすい三つの罪から私たちを救います。それらの罪の一つ目は、自分勝手に結果を決めつけたり、結果を恐れて伝道しないことです。二つ目は、結果がないとがっかりすることです。三つ目は、結果があった時にそれを神の栄光ではなく自分の栄光にしてしまうことです。エルサレムから逃げてきた弟子たちがアンテオケで主イエスのことを宣べ伝えたので、大勢の異邦人がイエスを救い主と信じました。でも、21節を注意深く見てください。「主の御手が彼らとともにあったので、大勢の人が信じて主に立ち返った」と書かれています。主の御手とは神の力のことです。具体的には、弟子たちが語った福音を通して聖霊が働いて、人々の心にイエスを信じる信仰を生まれさせました。ですからパウロもローマ人への手紙1章16節で、「福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」と述べています。

もちろん、弟子たちとともに主の御手があったからといって、彼らのメッセージを聞いた人全部がイエスを信じた訳ではありません。彼らのメッセージによって大勢の人がイエスを信じましたが、信じなかった人々もいました。それは聖霊が働かなかったからではありません。福音が語られる時、聖霊は必ず働きますが、イエスを信じない人は聖霊の招きを拒んでいるのです。聖霊は「イエスを信じて罪を赦してもらい、永遠の滅びから救われなさい」と招きますが、それを拒んでいるのです。神は強制的にではなく、福音宣教を通して人間を救うことを選びました。ですから、人間は福音による聖霊の招きを拒むことができます。ただし、拒んだ責任は自分で負わなければなりません。その人は神の恵みによる罪の赦しを拒むのですから、罪の報いとして地獄で永遠に苦しまなければなりません。神の恵みを拒んだことを地獄に行ってから後悔しても、それでは遅すぎます。アンテオケで大勢の異邦人がイエスを信じたことはエルサレムの教会に知らされました。

V.エルサレムの教会はアンテオケに教師を派遣しました

アンテオケで伝道した人々は一般の信者でしたから、イエスのことを語ることはできでも、信者になった異邦人の信仰を強め、神のことばについての理解を深めるような教えをすることはできませんでした。また、その異邦人信者をまとめて教会として成長させるためにも、イエスについて深く教えることのできる人を派遣する必要がありました。エルサレムの教会もそれが分かりました。それでバルナバを派遣しました。この人は後になってパウロの第一次伝道旅行に同伴するくらいですから、信仰的に成長していて、教える能力もありました。24節には、「彼(バルナバ)はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。」と書かれています。アンテオケについたバルナバが最初にしたことは何でしょうか。彼は神の恵みを見て喜びました。人が信仰に導かれ、救われるのは、神の恵みです。バルナバはそのことが分かっていました。ですから、すばらしい恵みを与えてくださった神に感謝して、神の栄光を現わしました。皆さんが信仰に導かれたことも神の恵みです。ですから、私たちも神に感謝して、神の栄光を現わしましょう。バルナバはその次に、心を堅く保って、常に主にとどまっていなさいとアンテオケの信者を励ましました。私たちも心を堅く保って、たとえ迫害を受けても、イエスを信じる信仰にとどまり続けましょう。

おそらく、信者の数が多かったので、バルナバは助けが必要と感じました。それで、バルナバはサウロを捜しにタルソへ行き、見つけ出して、アンテオケに連れて来きました。このサウロは冒頭に話したステパノの石打ちに関わった人ですが、その後で復活したキリストに出会い、回心して、キリスト教徒になりました(使徒19:1-19)。このサウロは私たちが使徒パウロと呼んでいる人です。迫害者だったパウロがキリスト教徒になり、イエスのことを大勢の人に教えるのですから、神のなさることは不思議です。神の思いは私たち人間の思いより遥かに高いです(イザヤ55:9)。バルナバとサウロはアンテオケの教会で一年間教えました。ですから、アンテオケの信者たちはかなり多くのことを学んだはずです。バルナバとサウロはそこを離れなければなりませんでしたが、信者の中からリーダーが誕生して、アンテオケの教会は活動を続け、すばらしい成長と遂げます。どうしてそれが分かるかと言えば、パウロを三回の伝道旅行に派遣し、資金的に支えたのはこの教会だからです(13:1-3)。このアンテオケでイエスを信じる者たちは“キリスト者”と呼ばれるようになりました。道の者からクリスチャンになりました。

では、私たちLECCや私たちの母教会WELSにとって最近の状態は逆境でしょうか、順境でしょうか。母教会は一年で8億円の経費を削減しなければならないので、土浦教会のスターマン先生とご家族は帰国しなければならなくなりました。人間的な見方をすれば、逆境です。では、今は伝道するのに良くない境遇でしょうか。今日の箇所から見れば、そうとは言えません。神は私たちに将来のことを教えていませんが、今の逆境を伝道の良い機会に変えてくださることは十分にあり得ます。また、時が良くても悪くても、私たちにはイエスのことを宣べ伝える務めが委ねられています(2テモテ4:2)。伝道の結果を自分で決めつけないで、結果がなくても絶望しないで、結果があった場合には神の恵みに感謝しながら、これからも伝道を続けましょう。神が私たちの伝道を祝福してくださいますように。私たちの伝道を通して神の栄光が輝きますように。アーメン。