聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主

イザヤ書 6 章 1 節から 8 節(新改訳:旧約 1041 ページ、新共同訳:旧約 1069 ページ)          20090607

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、 6:2 セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、 6:3 互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」 6:4 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。 6:5 そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」 6:6 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。 6:7 彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」 6:8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

マンションが建設される時、近くにモデルルームも建てられます。モデルルームを見学することによって、購入希望者は完成するマンションの間取りを見ることができます。しかし、モデルルームは将来に私たちの回りから消えるかもしれません。なぜなら、コンピューター画像を特殊なメガネで見ることによって、間取り、段差、調度品、色調などを実感することができるようになるからです。その画像は本物そっくりに見えるそうです。人間にとって、それはコンピューターを駆使した最新技術です。しかし、不可能がない神にとって、それは最新技術ではありません。もし神がそう望むなら、コンピューターや特殊メガネを使わないでも、人間に信じられないような体験をさせることができます。事実、今日学ぶ箇所の中で、神はコンピューターや特殊メガネを使わないで預言者イザヤに幻を見せました。イザヤはその幻の中で実際に神を見て、神の威厳や尊厳、神の恵みを実感し、神と会話しました。

?.イザヤは主(神)の尊厳と威厳を体験しました。

イザヤは高くあげられた王座に座しておられる主(神)を見ました。この時、イザヤの意識は正常で、その幻を見た年をはっきり覚えていました。それはユダのウジヤ王が死んだ年、紀元前 747 年でした。この幻によって、イザヤはまず神の威厳や尊厳を体験しました。王座に座しておられる神の上に天使たち(セラフィム)がいました。はっきりした数は分かりませんが、複数の天使がいました(セラフィムはセラフの複数形)。天使は生きていて、意志を持っていますが、霊ですから、本来その姿は見えません。しかし、神のメッセージを伝えるために、人間のような姿で信者に現われることがしばしばありました(創世記 18:1-22 ; 19:1 ;ヘブル 13:2 )。この幻の中で、それぞれの天使は 6 つの翼を持っていて、二つの翼で顔をおおい、二つの翼で両足をおおい、二つの翼で飛んでいました。

親が幼子に“いないいないばあ”をする姿に似ているので、この天使たちの行動はこっけいに映るかもしれませんが、彼らは大まじめでした。天使も神によって造られましたが、人間より遥かに優れています。神に仕える天使たちは完全にきよく、罪がありません。その天使たちでさえ、顔や足をおおわないで神の御前に立つ資格がないと考えました。神を直接に見ることは恐れ多いと思いました。神に対する深い畏敬の念を抱いて、謙虚な態度を取りました。神はそれほど偉大な方なのです。天使たちがこのような態度を取るなら、私たち人間は神の御前でどのような態度を取るべきでしょう。皆さんが礼拝する時、皆さんは牧師の前ではなく、神の御前にいるのです。皆さんが個人的に祈る時、皆さんは空気や壁ではなく、神に向かっているのです。皆さん心の中にこの天使のような謙虚な思いがあるでしょうか。ちなみに、今は簡素化されていますが、牧師が礼拝の時にガウンを着るのもこの箇所の天使が翼で顔や足をおおったのと同じ理由です。服装を簡素化しても罪ではありませんが、神に対する畏敬の念を簡素化することは罪です。

神の威厳や尊厳は天使たちの交唱にも出ています。天使たちは「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ」と、互いに呼びかわしました。「聖なる」と三回くり返すことによって、天使たちは神の際立ったきよさや権威や力や栄光を表現しました。それだけでなく、三回くり返すことによって父と子と聖霊を賛美しました。神は唯一で、本質は一つですが、父と子と聖霊の三つの別々な神格を持っています。不思議ですが、神はご自身のことを聖書の中でそう啓示しています。この真理を三位一体と言います。三位一体は私たち人間の理解力を超えていますが、神がそう教えているので、私たちクリスチャンは信じます。

きよい天使でさえ神を見る資格がないと考えたのですから、神を見てしまったイザヤはどう思ったでしょう。彼は「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」と叫びました。くちびるの汚れた者とは、思いや行ないでは罪を犯さないという意味ではなく、完全な罪人だという意味です。神の御前にいることの恐れと緊張の中で、そのことばが出てきました。ペテロも同じ体験をしました。神としてのイエスの力を目の当たりにして、恐れを感じ、「主よ。私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから。」と言いました(ルカ 5:8 )。イザヤは神を見てしまったので死ぬと思いました。おそらく、出エジプト記 33 章 20 節がイザヤの心に思い浮かんでいました。神はそこで、「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」とモーセに言いました。

?.イザヤは主の恵みを体験しました。

イザヤが怯えていると、天使のひとりが飛んで来ました。その天使は祭壇から火ばさみで取った燃え盛る炭火を持っていました。そしてその炭火でイザヤの唇に触れて、言いました。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」旧約聖書の時代、イスラエル人たちは神の命令によって、一歳の傷のない二頭の子羊を、全焼のいけにえとして、毎朝と夕に一頭ずつささげなければなりませんでした。定められた日には、それに加えて若い雄牛二頭、雄羊一頭、一歳の傷のない子羊七頭をささげなければなりませんでした(民 28:3 以下)。これらの動物はささげる人の罪の償いとしてささげられました。全焼のいけにえをささげる時、イスラエル人は動物の頭に手を置いてからほふらなければなりませんでした。手を置くのは、ささげる人の罪を動物に背おわせる描写でした。それからその動物は皮をはがれ、細かく切り分けられました。そして、ささげる人々の代わりに、祭司がそれを祭壇の上で焼き尽くさなければなりませんでした(レビ 1:3-9 )。もちろん、どんなに多くの動物がささげられても、それらの血はイスラエル人の罪を取り除くことはできませんでした(ヘブル 10:4,6 )。

神がいけにえを定めたのは、いけにえをささげる行為によって罪がきよめられると教えるためではありませんでした。むしろ、いけにえによって未来の計画を教えるためでした。ヘブル人への手紙 10 章 1 節に、「律法(律法によって定められたこと)には、後に来るすばしいものの影はあっても、その実物はないのです」と書かれています。コロサイ人への手紙 2 章 17 節には、「これら(律法に定められたこと)は、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです」と書かれています。旧約時代のいけにえは、メシヤ(キリスト)がすべての人の罪を背負って死ぬことを、見える方法で人々に教える教材だったのです。つまり、祭壇から取られた燃え盛る炭がイザヤの唇に触れたことは、イエスの身代わりの死のゆえにイザヤのすべての罪が赦され、神の御前で義と認められたことを意味しました。行いや功績によってではなく、神の恵みによって罪が赦されることを、イザヤは特別な体験によって学びました。いつの時代も罪の赦しは神からの無償の贈り物です。

?.イザヤは主の招きに喜んで応えました。

イザヤの体験は稀です。すべての人が幻や天使によって罪の赦しを教えられるのではありません。それでは、誰がイザヤの時代の人々に罪の悔い改めと赦しのメッセージを伝えるのでしょう。イザヤは「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と神が言っておられるのを聞きました。それを聞いたイザヤは、「ここに、私がおります。私を遣わして下さい」と応えました。神の恵みによる罪の赦しはイザヤの心を変えました。イザヤの心から恐れや「自分はふさわしくない者だ」という思いを追い払い、神に仕えたいという思いを生まれさせました。

イザヤと同じく、現代の牧師や宣教師も生まれながら罪深い性質を持っているので、本来は神に仕える者としてふさわしいくありません。公に神のことばを説教する務めは罪の赦しに基づく神の恵みです。罪の赦しが恐れや不安を追い払い、神に仕えたいという思いを生まれさせた結果です。そして、神が教会を通して招いてくださったので、牧師や宣教師たちは神に仕えることができるのです。信者も同じです。罪が赦されたのは行いや功績の結果ではなく、イザヤが死ぬと怯えたほど威厳と尊厳に満ちた方の恵みです。子なる神がマリヤの胎の中で人間の肉体を取ってこの世に現われ、すべての人の罪の身代わりに十字架の上で死んでくださったからです。その方、イエス・キリストは、すべての信者がそれぞれの能力を用いて、福音宣教に積極的に仕えることを望んでいます(マタイ 28:19,20 ;マルコ 16:15 )。それも罪の赦しに基づく特権であり、神からの委任があるからできることです。イエスの身代わりの死によって自分自身のすべての罪が完全に赦されたと信じる人は、イザヤのように福音を伝えるための勇気と意思を与えられます。

私たちは幻を見ませんが、新約聖書を持っています。新約聖書の中で、真の神としてのイエスの尊厳や威厳を見ることができます。聖書の学びの時、そして洗礼や主の晩餐の時、罪の赦しを聞くことができます。イザヤが幻の中で神の御前にいたように、礼拝する時はいつでも、私たちも神の御前にいます(マタイ 18:20 )。私たちが礼拝する神は父と子と聖霊の三つの神格を持っていますが、本質的に唯一です。威厳も尊厳も栄光も同等です。この神はとても恵み深く、慈しみ深い方です。私たちは信仰によって神の子どもです。神は天使が顔と顔を合わせることを畏れ多いと考えたほどきよく、栄光に満ち、権威のある方ですが、私たちを愛する子どもとして取り扱ってくださいます。私たちは天国で、顔と顔を合わせて神を見ます。そのような恵みをいただいたのですから、私たちの礼拝が心の伴なわない、単なる習慣にならないようにしましょう。真の神の御前で、謙虚に罪を悔い改めましょう。神の赦しの約束に信頼して、心の平安を持ちましょう。天使たちが「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全知に満つ。」と賛美したように、歌とことばと祈りで三位一体の神に栄光と感謝と賛美を捧げましょう。そして、イザヤが「ここに、私がおります。私を遣わしてください」と言ったように、福音宣教に喜んで仕える心を、毎週新しくしていただきましょう。