土の器の中に入っている宝

第 2 コリント人への手紙 4 章 5 節から 12 節(新改訳:新約 319 ページ、新共同訳:新約 329 ページ)     20090614

私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。 4:6 「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。 4:7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。 4:8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。 4:9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。 4:10 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。 4:11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。 4:12 こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。

壺や皿などの焼き物は昔から世界中で行なわれています。日本でも焼き物は盛んで、各地に“〜焼”と呼ばれる焼き物があります。例えば、栃木県には益子焼があります。茨城県には笠間焼があります。ハベン先生やマージさんも焼き物を見たり、集めることが好きでした。確か 1995 年だったと思いますが、まだハベン先生が東京教会の牧師で、私が逗子教会の牧師だった頃、土浦で行なわれた宗教改革記念礼拝後に東京教会と逗子教会の希望者が近くの国民宿舎で 1 泊して、その翌日に益子の陶器市を見に行き、 1 日見て歩き、色々なものを買いました。

壺や皿などの陶磁器には日常生活で使う安価なものもあれば、美術品や骨董品として売買される高価なものもあります。壺は日常生活の中では水や醤油や味噌などを入れるために使われましたが、金貨や銀貨を入れるためも使われたようです。ほんとうかどうか分かりませんが、ある戦国武将が壷に入れた金貨をどこかに隠したとされる埋蔵金が話題になることもあります。その話が本当かどうかは別にして、粘土で作られた安物の壷に金貨がいっぱい入っている状態を想像みてしてください。その場合、壷と中味(金貨)ではどちらが貴重でしょうか。もちろん、中味です。そのことは今日の箇所の教えを理解する助けになります。パウロはこの箇所で、土の器とその中味について話しています。

?.土の器は私たちクリスチャンです。

7 節から分かるように、パウロが土の器と呼んでいるのはクリスチャンのことです。では、土の器とはどういう意味でしょう。土に関係ある話と言えば、創世記 1 章の天地創造です。神は宇宙とその中に存在するものを無から、 6 日間で造りました。人間は 6 日目に造られました。神は人間のからだを土から造りました(創世記 2:7 )。ですから、人間のからだは生きるために土の中の成分を必要とし、死ねば土になります(火葬にしても骨壷に入れなければ土に戻ります)。最初の人間のからだが土から造られたという点から言へば、人間は土の器です。ただし、粘土が火や上薬によって元の状態とは比較できないほどすばらしいものに変わるように、人間のからだも神の全能の力によって土とは比較できないほどすばらしいものに変わりました。しかし、パウロはそのような意味でクリスチャンを土の器と呼んでいるのではありません。

実は、信者が土の器(陶器)と呼ばれるのは新約聖書だけのことではありません。旧約聖書でもそう呼ばれています。イザヤは紀元前 750 〜 700 年頃に活動した預言者ですが、神から教えられて、 100 年以上も未来に起こるエルサレムの滅亡(紀元前 586 年)やイスラエル人のバビロン捕囚(捕虜生活)を預言しました。エルサレムの滅亡はイスラエル人の不信仰の結果でした。神がくり返して悔い改めを勧めたのに、人々がそれを受け入れなかった結果でした。彼ら自身の罪のせいでエルサレムの町や神殿が廃墟になったのに、その時代のイスラエル人は神に不平を言います。けれども神は未来を予知できるので、イザヤを通して、前もってその不平に返答しました。神はこのように返答しました。「ああ。陶器が陶器を作るものに抗議するように、自分を作った者に抗議する者。粘土は、形作る者に、『何を作るのか。』とか、『あなたの作った物には、手がついていない。』などと言うであろうか。」(イザヤ 45:9 )。旧約時代のイスラエル人は神に選ばれた特別な民でした。神の喜ぶ陶器であるはずでした。ところが、神を捨てて、偶像を礼拝しました。失敗作の陶器になりました。それで、神はその失敗作をつぶして、新しい陶器(信仰のイスラエル人)を作ります。これもパウロの使い方と違います。

パウロがこの手紙を送ったコリント教会の信者には色々な問題がありましたが、エルサレム滅亡の頃のイスラエル人のように不信仰ではありませんでした。問題のある人々でしたが、パウロはコリント教会の人々を信仰の兄弟姉妹として扱っていました。問題の多い信者たちだったから土の器と呼んだのではありません。パウロは自分自身を含めたすべてのクリスチャンを土の器と呼んでいるのです。パウロがクリスチャンを土の器と呼んだ意図はその中味との比較です。 4 章 1 節から読めば分かるように、パウロはクリスチャンの伝道活動について述べています。伝道において、クリスチャンは器の役目しかできないのです。器は伝道に不可欠なメッセージを入れて、人々のところに運ぶことしかできません。器には人を回心させ、救いに導く力はありません。器は伝道の主役であってはいけないのです。伝道の主役は土の器に入っている中味なのです。パウロが言う土の器には宝が入っています。すばらしい宝が入っています。

?.土の器の中に入っている宝は主イエス・キリストの福音です。

その宝はイエス・キリストの福音です。福音という語が広い意味で使われる時、マタイの福音書のように使われます。広い意味の福音は神のことばと同じ意味で、律法も含みます。その反対に、狭い意味で使われる場合は人間に対する神の愛や恵みや祝福を告げるメッセージのことで、別の言い方をすれば、神がイエスを通して人間に与える贈り物についてのメッセージです。最初の人間は悪魔に誘惑されて神に背き、その罰として永遠に死ぬことになりました。しかし、神はそのような人間をあわれみ、愛しました。そして、人間を永遠の死から救い出す救い主を遣わす約束を与えました。それが創世記 3 章 15 節です。それ以降も、救い主に関する預言は旧約聖書の中にたくさん書かれています。救い主についての預言は聖書全体を貫く一本の糸のようです。扇の要のようです。その預言がなければ、聖書はバラバラの書物です。

旧約聖書の預言の通り、イエスはイスラエル人のユダ部族のダビデ王の家系から生まれました。イエスはマリヤの胎に宿った時から律法の下に置かれました(ガラテヤ 4:4 )。イエスは父なる神や聖霊なる神と共に永遠の昔から存在する唯一真の神で、人間が守るべき律法(命令、禁止事項)を定めた方なので、本来は律法を守る必要はありませんが、すべての人の身代わりとして律法を守る立場に置かれました。そして、心でも、ことばでも、行ないでも律法を破らないで、完全な生活を送りました。なぜなら、もし一つでも罪を犯せば、すべての人の罪を償ういけにえになることができなかったからです。イエスが一つの罪も犯さなかったので、イエスの命にはすべての人が犯した罪を償う価値がありました。イエスの死はすべての人の罪を完全に、一つの不足もなく償いました。そのことの証明として、神はイエスを三日目に死人の中からよみがえらせました。

イエスが全人類の救い主としての務めをやり遂げたので、私たちは修行や善行や努力によってではなく、神からのプレゼントとして罪の赦しと永遠の命をいただくことができます。神はイエスを救い主と信じる信仰を通してそのプレゼントを私たち人間に与えます。イエスを信じる信仰と言うと、信仰を自分自身の決心や決断の結果と考える人々もいますが、それは間違いです。聖書によれば、大人も子どもも、すべての人は罪によって霊的に死んだ状態です。霊的な死とは心が神から離れ、肉体の死の後で地獄に落ちる状態のことです。肉体的に死んだ人が何もできないように、霊的に死んだ人も何もできません。自分の心の中に信仰を造り出すことなどできません。信仰はキリストの福音を通して聖霊が人の心に生まれさせるものです( 1 コリント 12:3 )。ですから、イエスは天に帰る前に福音宣教という大使命を教会に与えたのです。キリスト教会の伝道はクリスチャンが自分の経験を語ることでも、人道主義や社会正義を語ることでもありません。イエスとイエスが成し遂げたことを宣べ伝えることです。罪の悔い改めとイエスの名による罪の赦しを宣べ伝えることです。それを忠実に行なうことはイエスの栄光だけでなく、父なる神や聖霊の栄光を輝かせることになります。天地創造の時、神は暗闇の中に光を輝かせました。それと同じように、イエスを宣べ伝えることは霊的な暗闇の世界に光を輝かせることなのです。

?.イエスは土の器を見捨てません。

福音宣教は偉大で、すばらしい務めです。しかし、それを果たすことは簡単ではありません。悪魔が邪魔するからです。悪魔は神の計画を邪魔することに喜びを感じます。悪魔の邪魔はアダムとエバの誘惑の時に始まり、ずっと続いています。悪魔は人が福音の輝きを見ないように邪魔します。人間を悪いことに誘惑するのは悪魔の手段の一つです。悪魔は悪いことが楽しいような印象を人間に与えます。それはうそですが、人間は簡単にだまされて、感覚が麻痺して、悪を行なうことが気持ちいいことに感じてしまうのです。それは、エバが悪魔に誘惑された後で善悪の知識の実を見て、食べようとした時の感覚です。「それを食べたら必ず死ぬ」と神が言ったのに、それを食べたら幸福になるようにエバは感じていました。しかし、エバの妄想でした。食べた後のエバの心は喜びや幸福感ではなく、罪悪感と神への恐れでいっぱいになりました。誘惑は甘く感じるが、後でひどい痛みがあることを聖書は次のように教えています。「ぶどう酒が赤く、杯の中で輝き、なめらかにこぼれるとき、それを見てはならない。あとでは、これが蛇のようにかみつき、まむしのように刺す。」(箴言 23:31,32 )。

福音宣教を邪魔するために悪魔が用いるもう一つの手段は迫害です。誘惑とは正反対の方法です。例えば、迫害されることへの恐れを利用して、悪魔はペテロにイエスの弟子であることを三回も否定させました。ペテロは後で悔い改めて、死を恐れないで伝道しましたが( 2 ペテロ 1:13 ‐ 15 )、イエスの裁判の席では伝道に失敗しました(マタイ 27:69 ‐ 74 )。使徒ヤコブ(ヨハネの兄)はヘロデ・アグリッパ 1 世(イエスが生まれた時のヘロデ大王の孫)に殺されました。使徒たちで殉教しなかったのはヨハネだけのようですが、そのヨハネも迫害によってエーゲ海のパトモス島へ流刑にされました。一般の信者たちも迫害されました。迫害者からクリスチャンに生まれ変わったパウロも、イエスを宣べ伝えるために様々な迫害を受けました。今日の箇所には、「四方八方から苦しめられている」、「迫害されている」、「絶えず死に渡されている」などの表現があります。しかし、パウロはそのような苦しみに負けませんでした。それは「窮することはありません」、「行きづまることはありません」、「滅びません」などの表現に出ています。それはパウロ自身の強さではなく、パウロが頼りにしている方、すなわち、イエスの強さでした。パウロはどんな状況に置かれても、イエスが支え、助けてくれることを確信していました。仮に殉教しても永遠の命によみがえることを確信していました。これも信仰の恵みです。現代の私たちクリスチャンも伝道において色々な試練に会うでしょう。そのような時、イエスが私たちを見捨てないことを忘れないようにしましょう。私たちは土の器ですが、イエスによって愛されている器です。