マタイの福音書10章16-23節(宣教の心の備え)

いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。 ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。10:17 人々には用心しなさい。 彼らはあなたがたを議会に引き渡し、会堂でむち打ちますから。10:18 また、あなたがたは、わたしのゆえに、 総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです。 10:19 人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。 話すべきことは、そのとき示されるからです。10:20 というのは、話すのはあなたがたではなく、 あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。10:21 兄弟は兄弟を死に渡し、 父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。10:22 また、わたしの名のために、 あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。 10:23 彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい。というわけは、 確かなことをあなたがたに告げるのですが、人の子が来るときまでに、あなたがたは決してイスラエルの町々を巡り尽くせないからです。

しばらく前に自衛隊がイラクに派遣されました。終戦の宣言後でしたが、完全に平和ではなく、市民を装った旧大統領派の兵士がいつ、どこから攻撃してくるか分からない状態で、危険を伴う任務でした。私は自衛隊の組織のことを知りませんが、派遣までには以下のような経過があったと思います。国会で派遣が決まり、政府や自衛隊上層部は派遣する場所、派遣する人数や回数を決めました。そして、派遣する隊員に辞令を出し、結団式を行ないました。派遣地や任務が隊員に伝えられました。また、攻撃を受けた時にどのような行動を取るべきかについて指示がありました。派遣される隊員がこのように心の備えをしておくことは必要であり、大切なことでした。

宣教活動に派遣されるクリスチャンも同じです。イエスによると、宣教活動は狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、どこに行くべきか、何をすべきか、危険が迫ったらどのような行動を取るべきかについて、前もって指示を受け、心の備えをしておくことが必要であり、大切です。今日の箇所では、宣教活動に派遣する前に、イエスが12弟子(使徒)に心の備えをさせています。イエスの教えは私たちにも当てはまるので、私たちも宣教活動のために心の備えをしましょう。

T.主が私たちを遣わします。

最初の心の備えは、誰によって派遣されるかを自覚することです。イラクで活動した自衛隊は日本政府によって派遣されました。16節から分かるように、クリスチャンを派遣するのはイエスです。イラクでの自衛隊活動から分かるように、与えられた任務を成し遂げるためには遣わした人の指示に従うことが大切です。日本政府(防衛庁長官、大臣)には自衛隊に指示を出す権威があります。同じように、イエスにはクリスチャンに指示を出す権威があります。

なぜ、イエスにはクリスチャンに指示を出す権威があるのでしょうか。イエスは永遠の昔から神(子なる神)として存在していました。父なる神や聖霊なる神と共に三つの神格を持つ唯一の神で、天地万物の造り主です。旧約聖書では、しばしば“主の使い”として登場します。イエスには人間の肉体を持つ必要はありませんでした。イエスがマリヤの胎の中で肉体を取ったのは、すべての人の罪の身代わりに神の罰を受けて、十字架の上で死ぬためでした。イエスは30歳で公の宣教活動を始め、3年間多くの町や村で神の国について教え、十字架にかかりました。しかし、死んだままではありませんでした。すべての人の罪を完全に償ったことを証明するために、三日目によみがえりました。イエスは私たちの創造主であり、救い主なので、私たちに指示を出す権威があるのです。そして、イエスはその権威を教会に委任しました。

イエスの命はすべての人を永遠の死と悪魔の奴隷状態から買い戻すために十分な代価でした。イエスの時代には奴隷制度がありました。奴隷はお金で売り買いされました。奴隷を買った人は奴隷の主人(主)です。奴隷はいやでも主人のために働かなければなりませんでした。一方、イエスはお金ではなく、自分自身のきよく尊い命によって私たちを永遠の滅びから買い戻しました。私たちはイエスの奴隷ではありません。イエスは私たちを愛しています。私たちを兄弟姉妹として扱います。それと同時に、イエスは私たちの主です。私たちは義務感からではなく、私たちに対するイエスの愛に感謝して、永遠の死から救われたことに感謝して、自由な自発的な心で主に仕えたいと思います。主の栄光を現したいと思います。イエスは私たちの主ですから、私たちを力で従わせることができますが、そうしません。イエスは私たちがすべてのことにおいて喜んで、自分から進んで従うことを望んでいます。宣教活動についてもそうです。

イラクに派遣された自衛隊にとって政府の後ろ盾は大きな支えであり、安心を与えたことでしょう。政府の後ろ盾がなかったら、イラクでの活動はできなかったでしょう。同じように、クリスチャンが伝道する時にはいつでも、イエスの後ろ盾があります。イエスがクリスチャンに力を与え、支え、守ります。それはクリスチャンにとって大きな支えであり、安心を与えます。前にも言いましたが、クリスチャンを伝道に遣わすことは狼の中に羊を送り出すようなものです。羊は狼に対して無力です。しかし、私たち羊の後ろには羊飼いイエスがいます。すべてのものを支配する天の王であるイエスが付いています。ですから、クリスチャンは全世界に出て行って、宣教活動をすることができるのです。


U.蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありましょう。

イラクに派遣された自衛隊は、任務をスムーズに行なうために、また一般住民を装った兵士の攻撃から身を守るために、派遣前に色々な注意事項を学んだはずです。あの頃のニュースを思い浮かべると、派遣された隊員たちは現地の人と仲良くなることにも気をつかっていました。その一方で、銃を持った隊員が道路工事をしている別の隊員をガードしていました。派遣前に十分な情報を知らされていなければ、そのような対応を取ることはできなかったと思います。クリスチャンにもこの時の自衛隊と同じような行動が求められます。クリスチャンは世の人々と仲良くすることを心がけますが、それと同時に、迫害に対して十分に注意しなければなりません。

イエスは将来に激しい迫害の時代が来ることを知っていました。ですから、前もって弟子たちに情報を与え、その時のために心の備えをさせています。イエスは弟子たちに、「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい」と教えました。蛇と言えば、創世記3章を思い起こします。そこには、蛇は野の獣のうちで一番ずる賢いと書かれています。しかし、イエスはクリスチャンに「ずる賢くなりなさい」と言っていません。危険を察知した時、蛇は逃げます。逃げることができなければ、その場で危険から身を守ろうとします。では、「鳩のようにすなおでありなさい」とはどういう意味でしょう。鳩は平和のシンボルにもなっています。鳩は自分から攻撃をしかける動物ではありません。つまり、クリスチャンは自分から争いを起こしません。

イエスの3年間の行動を思い出してみましょう。イエスは木曜深夜に捕らえられ、二つの裁判を経て、金曜の午前9時頃に十字架に架けられました。この間、イエスは精神的にも肉体的にも、ことばで表現できない苦しみを受けました。しかし、イエスが受けた迫害はその時だけではありません。イエスが生まれた時、ヘロデ大王がイエスを殺そうとしたので、神は幼子イエスを両親といっしょにエジプトに逃がしました(マタイ2:13)。公の伝道活動を始めた年にも、故郷の人々から殺されそうになったので、イエスはそこから逃げました(ルカ4:28-30)。ほかにも実例があります(マタイ4:12)。イエスが逃げたのは迫害が怖いからだけではなく、まだ死ぬ時(神が定めた時)が来ていなかったからです。また、イエスは自分から他人を攻撃しませんでした。イエスは蛇のようにさとく、鳩のようにすなおに行動しました。


V.聖霊が話すべきことを示してくれます。

私たちもわざわざ迫害の中に飛び込む必要はありません。23節でイエスが勧めているように、迫害されたら、逃げることも必要です。しかし神がそうなることを認めるなら、クリスチャンは不当な理由で捕らえられ、裁判にかけられます。イエスもそうでした。なぜ、神はそのようなことを止めないのでしょうか。私たちはしばしば神のみこころ(考えや計画)を理解できません。それは、神の考えは私たちの考えよりも深いからです。ですから、神の考えは聖書から教わる以外にありません。あるクリスチャンが捕らえられ、王や総督などの前に立たされる理由は今日の18節からも分かりますが、マタイ28章19節と20節から見えてきます。イエスはすべての人の罪を償いました。神はイエスが獲得した罪の赦しをすべての人に与えたいと望んでいます。神はこの恵みの知らせ(福音)を伝える役目をクリスチャンに委ねました。しかし、王などの支配者に伝道することは簡単ではありません。暗殺などを防ぐ理由で、会える人は限られていました。

私たちから見れば捕らえられることは敗北ですが、神の目にはそうではありません。高い地位の人に伝道するため、神はクリスチャンが捕らえられ、裁判にかけられることをしばしば認めます。そのような信者は地位の高い人に神のことばを語るための宣教師です。たとえば、創世記のヨセフは兄弟の妬みから奴隷としてエジプトに売られました。主人のために誠実に働きましたが、その人の奥さんが悪い人で、誘惑に応じなかったヨセフを牢屋に入れてしまいました。しかし、そこで王に仕える調理官と献酌官と出会ったことがきっかけで、ヨセフは後になって王の夢を解き明かし、神について話をすることができました。

パウロはもともとは迫害者でしたが、復活したキリストに出会って回心し、洗礼を授けられ、罪を洗い流され、クリスチャンに生まれ変わりました。アナニヤという信者は、「あの人はあなたを信じる者を迫害している人です。洗礼を授けることはできません。」と主に言いました。それに対して主は、「王や異邦人に福音を伝える器として、私が彼を選んだのだ。パウロのところに行って、洗礼を授けなさい。」と告げました(使徒9:1-18)。パウロはどのようにして王たちにイエスのことを伝えたでしょう。面会を求めて、時間を作ってもらいましたか。いいえ、神のことばの宣教が理由で、世を騒がす者として捕らえられました。その結果、ローマ軍の千人隊長、総督、ガリラヤの国主ヘロデなど高い地位の人にイエスのことを話しできました。それで終わりではなく、パウロはローマの市民権を持っていたので、ローマ皇帝による裁判を要求しました。そのようにして、神はローマ皇帝にも宣教しました。言い伝えによると、皇帝による判決の結果、パウロは殉教しました。ヨセフもパウロも支配者の前で何を言おうかと迷いませんでした。聖霊の助けによって信じていることをはっきりと語りました。

ルターも福音が理由で命の危険に遭いました。彼は神聖ローマ帝国の国会に呼び出されて、救いはイエスを信じる信仰の恵みであるという告白を撤回するように脅されました。命の危険を感じましたが、彼は何と答えるべきか迷いませんでした。「私が間違っていることが聖書から証明されない限り、私は私の言ったことを撤回できません。」と答えました。幸いなことに、私たちの社会では今のところ激しい迫害はありません。しかし、私たちもこの箇所のイエスの勧めを心に留めておきましょう。蛇のようにさとく、鳩のようにすなおに行動しながら、たとえ迫害があっても耐え忍び、最後まで主に忠実であり続けましょう。