ダニエル書7章9、10、13、14節 (ダニエルの見た最後の審判の幻)

私が見ていると、幾つかの御座が備えられ、年を経た方が座に着かれた。その衣は雪のように白く、頭の毛は混じりけのない羊の毛のようであった。御座は火の炎、その車輪は燃える火で、7:10 火の流れがこの方の前から流れ出ていた。幾千のものがこの方に仕え、幾万のものがその前に立っていた。さばく方が座に着き、幾つかの文書が開かれた。7:13 私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。7:14 この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。

私は実際の法廷を見たことがないので、法廷が始まるまでの過程はテレビで見たことから想像しなければなりません。正確には分かりませんが、刑事事件の法廷が開かれる場合、原告と検事、被告と弁護士、法廷関係者、許可される場合には傍聴者などが先に入廷しているようです。そして、最後に判事(裁判官)が入廷して、席に着き、裁判が始まるようです。そのような場面を思い浮かべることは、ダニエルが見た最後の審判の幻を理解する助けになります。今日の箇所は、この世の終わりの日に開かれる審判で判事が席に着いた場面から始まります。今日、私たちはダニエルといっしょに、最後の日に開かれる審判の様子とそこで下される判決について学びます。

T.判事の様子

判事が入廷する時、そこにいるすべての人は判事に注目するでしょう。判事はその法廷で一番権威がある人だからです。もしその法廷の中で判事に敬意を払わない人がいるとすれば、事件を起こしたのに、それを悔い改める気持ちのない場合の被告だけかもしれません。一般的には、被告でさえ判事に敬意を払うはずです。また、そこにいる人々は原告側も被告側も傍聴者も、判事の姿だけでなく、判事が下す判決に注目するはずです。そのため、判事の一言々々を聞き逃さないようにするはずです。

この幻の中で預言者ダニエルは傍聴席から審判を見ている人のようですが、「見ている」という翻訳は弱すぎるかもしれません。ダニエルは何気なく眺めているのではありません。そこでどんなことが起こるのかを見逃さないように、記憶するように、しっかり見ています。ダニエルが見ていると、いくつかのイスが用意されました。それらのイスに座る人の名前は書かれていませんが、一人だけ明らかです。それはその審判の判事に当たる方です。ダニエルはその方を“年を経た方”と呼んでいます。さて、これはどういう意味でしょう。

皆さんが“年を経た方”ということばから想像するのは、おそらく“年をとった人”、平たく言えば“年寄り”でしょう。しかし、“年を経た方”は年寄りの意味ではありません。最後の審判のことは新約聖書にも書かれているので、その時の判事が誰であるかは分かります。それは神です。つまり、“年を経た方”というのは年寄りではなく、“永遠の昔から存在していた方”という意味です。ダニエルは“年を経た方”ということばによって神が永遠であることを強調しています。

 

“年を経た方”の様子は近づきがたいほど威厳に満ちています。その衣は雪のようにしろく、髪は混じりけのない羊の毛のようです。イザヤ書1章18節を参考にすれば、その意味は分かります。神はそこで、イスラエル人の罪をきよめることを、「あなたがたは雪のように白くなる。羊の毛のようになる。」と語っています。最後の審判を行なう方は完全にきよい方、罪のない方であることを、ダニエルの見た幻は教えています。この判事の御座は火の炎、その車輪は燃える炎で、火の流れがこの方の前から流れ出ていました。この幻が終わりの日の裁判であることを考えれば、火の炎や火の流れは正しい判決を行なおうとする判事の意思を描写していると考えられます。つまり、“年を経た方”は信者を救い、敵を滅ぼすための燃えるような意思を持っています。この判事は判決を下すに当たって迷いません。

ダニエルは“年を経た方”の威厳をもう一つのことばで表現しています。最高裁判所の大法廷の場合でも、判事たちを補佐する法廷職員の数はそれほど多くないと思います。数えることのできる人数だと思います。それに比べて、最後の審判で判事に仕える人はどのくらいでしょう。「幾千ものもの、幾万ものもの」が“年を経た方”に仕えています。日本語の聖書は分かりにくいですが、これは天使のことです。数えきれない天使が神に仕えています。この数だけでも、私たち人間は圧倒されてしまいます。この審判には、この世の初めから終わりまでのすべての人、死んだ人も生きている人もすべて集められますが、おしゃべりをする余裕のある人は一人もいません。全員が緊張しながら判決を待ちます。

U.判決文

さて、いよいよ“年を経た方”が判決を下します。この方が席に着くと、幾つかの文書が開かれました。正確には分かりませんが、一冊でないことは確かです。旧約聖書も新約聖書も、救われる者の名前が記録されている書物の存在を教えています。天国に書物があるかどうか分かりませんが、そのような表現が使われています。戒めを授かるためにモーセがシナイ山の頂上にいる間、麓で待っていたイスラエル人たちは金の小牛の像を造って、拝み始めました。金の小牛はエジプト人が拝んでいた偶像です。エジプトの奴隷生活から救い出されて三ヶ月くらいしか経っていないのに、エジプトで神の偉大な力を見たのに、イスラエル人は神が禁じている偶像礼拝をしました。このことは神の激しい怒りを引き起こしました。神がイスラエル人を滅ぼすことをモーセに告げると、モーセはイスラエル人の赦しを嘆願して、「もし、彼らの罪をお赦しくださらないのなら、私の名前をあなたの書物から消し去ってください。」と神に言いました。それは、あなたが民を滅ぼすなら、私を救われる人々から除いてくださいという意味です。神はモーセの願いを聞いて、その場でイスラエル人を滅ぼすことはしませんでしたが、罪を犯す者は誰であってもその書物から名前が消し去られることを、はっきりとモーセに告げました(出エジプト32:32,33)。

詩篇69篇28節では、神を信じる者と神に敵対する者の名前を同じ書物に書かないでください、とダビデが神に願っています。ヨハネはキリストの12弟子の中で最後まで生き残りましたが、エーゲ海のパトモス島に流刑にされました。ヨハネがその島にいる時に、神は幻によって彼に天国を見せました。それは黙示録に記録されています。黙示録も理解しにくい部分が多いですが、小羊(イエス)の血によって罪をきよめられた者の名前は“いのちの書”から決して消されないと書かれています(3:5)。救われる者の名前が記録された書物があるなら、救われない者の名前が記録された書物があっても不思議ではありません。

それはとにかく、ダニエル書7章1節から読んでくると、“年を経た方”が判決を下そうとしているのは信者ではく、敵対した者たちです。ダニエルは開かれた文書の内容を教えていませんが、裁きが宣告されたことは間違いありません。祝福でも、呪いでも、神は約束したことを必ず実行します。この世の終わりはまだ来ていません。最後の審判はまだ開かれていません。しかし、その日の判決の基準はアダムとエバが堕落した時から同じです。神は罪を犯したアダムとエバに救い主を約束しました。救い主はすべての人の罪を償うために人間の肉体を持ちました。そして、すべての人の罪の身代わりとして十字架の上で神の罰を受けました。救い主が身代わりに死んだので、救い主を信じる人には誰にでも、神は条件なしの贈り物として罪の赦しと永遠の命を与えます。これが判決の基準です。ヨハネの福音書3章17節と18節も同じことを述べています。「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」

V.判決後の世界

ダニエルの幻は別の場面に移ります。この世の支配者は主権を奪われますが、逆に与えられる人もいます。それは“人の子のような方”です。この言い方は、イエスが自分のことを“人の子”と呼んでいることを思い出させます。そうです。ダニエルがここで見ているのはイエスです。イエスは天の雲に乗って来ます。これはヨハネが見た幻と同じです。ヨハネも、イエスは終わりの日に雲に乗って来ると書いています(黙示録1:7)。イエスは“年を経た方”の前に導かれました。もちろん、裁きを受けるためではありません。謙遜な姿で現れたイエスが“年を経た方”の栄光を共有するためです。イエスに主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の人たちがイエスに仕えることになります。イエスの主権は無限です。永遠です。イエスの国は永遠に滅びません。

もちろん、イエスの国とは地上の王国ではありません。イエスは福音を通して人々を信仰に導きます。イエスはそれを神としての全能の力で強制しません。人々は福音によるイエスの招きを拒むことができます。もちろん、イエスの国の国民になりたくない人は、イエスが国民に与える罪の赦しや永遠の命をもらえません。反対に、信じる人には差別なく、恵みの贈り物として、神の国の市民権が与えられます。イエスの国は恵みの王国、または聖なるキリスト教会と呼ばれます。イエスの国は既に存在していますが、この世の終わりの日に栄光の王国(天国)となります。イエスを信じた人々は生き返って、永遠の祝福を体験します。完全にきよい心で神に仕え、天使たちといっしょに神を賛美します。そこでは、信者たちは神の完全な栄光を見ることができます。神は信者たちにすばらしい栄光を与えます。その栄光は全世界の宝よりも価値があります。

マタイの福音書25章31節から46節とダニエルの見た幻を比べて、違いを感じる人がいるかもしれません。マタイ25:31‐46では、イエスは「わたしが終わりの日に信者と不信者をさばく」と教えています。ダニエルの見た幻では、判事は“年を経た方”です。しかし、これは矛盾ではありません。イエスは神と人の二つの性質を持っています。神としてのイエスは、父なる神や聖霊なる神と共に“年を経た方”として最後の審判の席に着きます。しかし、イエスの人間としての性質にも神としての権威が与えられていて、裁きを行ないます。使徒の働き17章31節には、「神は、お立てになったひとりの人(イエス)により義をもってこの世界(すべての人)をさばくために、日を決めておられる」と書かれています。

信者はイエスが天に上った日からイエスの姿を見ることはできませんが、それはイエスが信者のことを忘れてしまったという意味ではありません。イエスは見えない姿でいつも信者といっしょにいます(マタイ18:20;28:20)。天に上った日以来、イエスは最後の審判の準備をしていて、その日が来るのを待っています。その日はこの世が滅びる日でもあります。ルカは「人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。」と書いています。しかし、イエスを信じる者はその日を恐れる必要がありません。この世が滅びてもイエスの王国は決して滅びないからです。既に死んでいた信者もよみがえらされ、生きている信者と共に天国に入ります。私たちの救い主イエスは神から最後の審判を委ねられています。信者のためにすばらしい国を用意しています。楽しみに待ちましょう。