エゼキエル書34章11節〜16節、23節、24節 (私たちの王)

まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。34:12 牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。34:13 わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う。34:14 わたしは良い牧場で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らのおりとなる。彼らはその良いおりに伏し、イスラエルの山々の肥えた牧場で草をはむ。34:15 わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。――神である主の御告げ。――34:16 わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。34:23 わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。34:24 主であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる。主であるわたしがこう告げる。

少し前にアメリカで大統領選挙がありました。教会は政治について議論する場ではないので、候補者だった二人の議員、彼らの公約、選挙結果について論評するつもりはありませんが、国民が支配者に期待することは、昔も今も、東洋の国でも西洋の国でも変わっていないことがこの選挙からも分かります。いつの時代でも、国民は自分たちに幸福をもたらす支配者を望みます。賄賂で支配者に取り入ることは良くありませんが、自分たちに幸福をもたらす支配者を望むことは罪ではありません。

旧約時代のイスラエル人は救い主が生まれる民族として神に選ばれたので、この民を治める王たちは信仰深く、不正を行なわない立派な王であるはずでした。ところが、現実はそうではありませんでした。王たちの不信仰が原因で民も不信仰になり、王国は北と南に分裂し、北は紀元前722年にアッシリア帝国によって、南は紀元前586年にバビロニヤ帝国によって滅ぼされ、多くの人々が捕虜として連れ去られました。外国に散らされました。

この世の支配者たちを定めるのも神ですが、すべての人は生まれながら罪に汚れているので、善良な支配者でも完璧ではありません。ダビデやソロモンは人間的な見方で言えば立派な王ですが、この二人でさえ、自分が犯した罪によって自分自身や身内や国民に多くの苦しみをもたらしました。聖書によると、たった一人を除いて、完璧な支配者は存在しません。今日の箇所はその支配者(王)について教えています。この王は私たちの期待を決して裏切りません。この王は私たちに永遠の幸福をもたらします。今日、私たちはそのすばらしい王について学びます。

T.羊飼いである王を神が起こします

神は11節で、「わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする」と語っています。これは23節や24節と合わせて理解すべきで、神が直接に支配するのではありません。もしそうなら、人は恐れを感じます。シナイ山の麓で神の声を聞いた時、イスラエル人は恐ろしさのあまり、「神が私たちに直接語りかけないで、あなたが聞いて、私たちに伝えてください」とモーセに願いました。モーセは良い忠実な指導者でしたが、民数記や申命記を読めば完璧でなかったことが分かります。しかし、エジプト脱出からモアブの野に到着するまでの40年間、モーセは神の指示と助けによってイスラエル人を導く務めを果たすことができました。イスラエルが王国になってからはダビデ王やソロモン王が有名な支配者です。この人たちも完璧ではありませんでしたが、神の指示と助けによってイスラエル人を導きました。

23節にダビデという名前がありますが、これはダビデ王ではありません。ダビデ王は預言者エゼキエルの時代より400年以上前に死んでいます。これはダビデ王の子孫として生まれるメシヤ(救い主)、イエス・キリストのことです。イエスは父なる神や聖霊なる神といっしょに、唯一の神として天地万物が造られる前から存在していました。イエスと父と聖霊は一つの神で、本質も権威も栄光も同等ですが、三つの異なる神格として存在し、活動します。また、子なる神であるイエスは、すべての人の罪を償うために神のしもべとして活動します。神は24節で、イエスのことを「わたしのしもべ」と呼んでいます。

イエスはダビデ王の子孫ですが、イスラエル王国を再興するための王ではありません。イエスは神の国の王です。イエスを救い主と信じるすべての人々の王です。イエスは王ですが、同時に牧者、羊飼いです。もちろん、良い忠実な羊飼いです。34章1節から読めば、そのことは分かります。イエスは自分の利益や栄誉のために国や国民を利用しません。反対に、国民の永遠の幸福のために自分の命を捨てます。私たちはそのことを新約聖書から分かります。次のアメリカ大統領が決定した時、支持者たちは喜びを爆発させました。皆さんはその様子をニュースで見たでしょうか。では、皆さんは今日の箇所を聞いてどのような反応をするでしょうか。神は23節と24節で、エゼキエルの時代の信者だけでなく、私たちを含むすべての信者に、王となる方の名前を宣言しています。イエスは私たちの王です。日本の総理大臣やアメリカの大統領が、私たちに直接および間接に及ぼす支配力は一時的ですが、イエスは私たちを永遠に支配します。ですから、イエスが完璧ですばらしい王であることは私たちにとって永遠の祝福です。私たちはそのことを喜びましょう。

U.その王は信者の世話をします

イエスは良い忠実な羊飼いであり王ですが、信者をどのように世話するのでしょうか。エゼキエルはそれについて詳しく教えています。この箇所はまるで良い金鉱のようです。エゼキエルが使っている動詞に注目すれば、聖書の素人でさえも大きな金塊(神の約束や祝福)を簡単に見つけることができます。そして、その金塊はその人の魂を豊かにします。つまり、その人の魂を慰め、励まし、喜びや希望で満たします。では、それらの動詞を見て行きましょう。

エゼキエルは民の状態を「雲と暗やみの日に散らされた」と表現しています。第一に、これは彼の時代のイスラエル人です。彼らは国を滅ぼされ、多くは捕虜として連れ去られました。エジプトなどに逃亡した者もいました。それはその人々にとって雲と暗やみの日でした。彼らは悲しみと絶望という雲や暗やみに覆われました。神はその散らされた人々から信者を捜し出し、救い出し、散らされた国々から集め、故郷に連れて行き、良い牧場で彼らを養います。37章によると、捕虜となった人々は絶望のあまり、干からびた骨のようになっていました。預言者エレミヤは「捕虜は70年で終わる、その70年はあなたがたの信仰をきよめ、あなたがたに平安と将来と希望を与える神の計画だ」と伝えましたが、人間は弱いので、そのような時には神の約束よりも試練を見て、絶望し、嘆くのです。そのような人々を励ますために、神は預言者ダニエルやエゼキエルを捕虜に含めました。エゼキエルが伝えた神のことばに信頼する者は、絶望の中ですばらしい慰めと希望と平安を見出すことができました。彼らはすばらしい王の現われを確信することができました。

この箇所は良い金鉱ですから、神の金塊(約束や祝福)はまだまだ出てきます。神は救い主を通して失われた者を捜し、迷い出た者を連れ戻し、傷ついた者を包み、病気の者を力づけます。もうお分かりのように、11節から16節の動詞はすべて神の行動を述べています。神が救い主を通して行なうことです。人間の行動ではありません。散らされた民は自分で神を捜しません。自分で自分を救いません。自分の力で故郷に帰りません。自分で自分を養うのではありません。すべて神がしてくださるのです。

そのことは私たちの救いにも当てはまります。最初の両親であるアダムとエバが神の戒めを破って以来、すべての人は生まれながら罪に汚れています。聖書は罪に汚れたこの世を“悪魔が支配する罪の暗やみ”と呼びます。太陽が照っていても、この世は罪の暗やみに覆われています。私たちはその暗やみで生まれ、その中で生きています。また、罪に汚れた者は悪魔の奴隷です。霊的な死人です。自分で神を捜し、自分で自分を悪魔の奴隷から救い出し、自分の力で神の国に帰り、自分で自分の魂を養える人は一人もいません。これらは全部、神が救い主よって行なうことです。私たちの救いに関して、私たちがしたこと、私たちにできることは一つもありません。だから、罪からの救いや永遠の命は神からの恵みなのです。もし私たちが努力や行ないでそれらを獲得するなら、それらは恵みではなく、当然に受け取る報酬です。

V.その王は民のために命を捨て、正しい裁きを行ないます

支配者の最も重要な役目は善良な国民の命や財産を守り、悪い人々を罰することですが、支配者自身の罪や色々な利害関係が原因で、その務めを完璧に行なうことができません。しかし、イエスは違います。イエスは正しい裁きを行ないます。イエスが正しい裁きを行なうことは17節から22節に書かれています。正しい裁きという場合、私たちは三つの面から見るべきです。一つ目は、イエス自身が正しいという意味です。イエスには一点の汚れもありません。身勝手に判決基準を変えません。差別的な判決を行ないません。二つ目は、判決の基準はすべての時代の人に知らされていて、時代や国によって不公平がないことです。神は人の良心を用いて、聖書を持っていなかった人々にさえ罪を指摘し、悔い改めの機会を与えました。そして、信者の宣教を通して、さらに明確に悔い改めを求めてきました。また、救い主を信じる信仰の恵みとして、すべての罪が赦されることを教えてきました。三つ目は、すべての人は自分の責任を自分で負うことです。他人の罪の責任を取らされることはありません。すべての人は自分が神や神の約束に対してどのような態度を取ったかの責任を問われるのです。

私たちの王は牧者でもあります。これを聞いて、皆さんはイエスのことばを思い出すでしょうか。ヨハネの福音書10章11節で、イエスは自分のことを「わたしは良い牧者です」と言っています。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。今日の福音書朗読は、十字架にかけられるイエスが総督官邸から連れ出される場面でした。その場面は受難節の時によく用いられます。その場面はイエスの苦しみと死についても教えていますが、それと同時に、私たちの王であるイエスが悪魔との最後の戦いをする場面でもあります。十字架は犯罪人を処刑するためのものであり、その上で死ぬことは人間の目には敗北です。その証拠に、多くの人は十字架上のイエスを見てあざけりました。弟子たちさえ逃げてしまいました。悪魔も「これで私の勝ちだ」と喜んだことでしょう。しかし、イエスは三日目によみがえって、悪魔や罪や死の力に対する勝利を宣言しました。

イエスにはそれほどの力がありますが、罪を悔い改める者に対しては限りない恵みを与える慈しみ深い王です。イエスは公約を必ず守り、この世の終わりの日にすべてを支配する王として戻って来ます。イエスはすべての人を裁きますが、イエスを信者は心配する必要ありません。イエスは信者一人一人の名前を知っています。イエスは間違えることなく、ただ恵みによって、信者一人一人を滅びる人々から分けます。そのイエスが私たちの王であることを喜びましょう。この世には色々な困難や苦しみがありますが、この世は一時的です。やがて終わります。しかし、イエスが治める栄光の王国は決して終わりません。