キリストの現われを熱心に待ちましょう

第1コリント人への手紙(新改訳:新約聖書の290ページ)                      20081130

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。1:4 私は、キリスト・イエスによってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも神に感謝しています。 1:5 というのは、あなたがたは、ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされたからです。 1:6 それは、キリストについてのあかしが、あなたがたの中で確かになったからで、 1:7 その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、また、熱心に私たちの主イエス・キリストの現われを待っています。 1:8 主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。 1:9 神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。

人は色々なことを楽しみに待ちます。それはクリスチャンも同じです。皆さんも喜びならが何かを待ったことがあるでしょう。例えば、婚約してからは結婚する日を楽しみに待ったでしょう。結婚してからは子供が生まれる日を楽しみに待ったでしょう。私は子供の頃に修学旅行の日を楽しみに待ちました。田舎育ちだったので、修学旅行が近づくと、バスで町まで行って、旅行に持って行くおやつを買うことも楽しみでした。また、私たちはもうすぐクリスマスを祝います。クリスマスはキリストが一度目にこの世に現われた日です。その日、キリストはベツレヘムの馬小屋で処女マリヤから生まれ、ひっそりとこの世に現われました。クリスチャンは喜びながら、そして楽しみながらクリスマスイブやクリスマスの日を待ちます。

しかし、毎年のクリスマスは私たちが目指す最終地点ではありません。むしろ、最終地点を教える標識の一つです。今日学ぶ箇所で、パウロは私たちの最終地点を教えています。そして、喜びながら、楽しみながらその最終地点を目指しましょう、と私たちを励ましています。私たちクリスチャンが喜び楽しみながら目指す最終地点はキリストが二度目に現われる日(再臨の日)です。

T.私たちはキリストとの交わりに入れられました

パウロは10節で、あなたがたはキリストとの交わりに入れられました、とコリントの信者や私たちに語っています。入れられたとは、神が私たちをキリストとの交わりに召してくださった、招き入れてくださった、という意味です。どのようにしてでしょうか。もちろん、福音を通して働く聖霊によって召してくださったのです。「あなたがたは・・・キリストとの交わりに入れられました」と言う時、私たちがその交わりに含まれていなかった時があることをパウロは暗示しています。それはすべてのクリスチャンに当てはまります。神を信じない人々と同様に、私たちも信仰に導かれる以前はキリストとの交わり、言い換えれば、神との交わりに含まれていませんでした。パウロがエペソやローマの信者に語ったように、キリストとの交わりに入れられる以前の私たちは霊的な死人、悪魔の奴隷、神の怒りを受けるべき者、神の敵でした(エペソ2:1‐3;ローマ5:10)。

そして、そのような状態から自分自身を救い出せる人はいませんでした。もしそのままの状態だったなら、主人である悪魔といっしょに地獄で永遠の苦しみを受けます。しかし神は人間を愛しているので、人間が悪魔といっしょに永遠に滅びることを望んでいません。ですから神は、最初の両親が悪魔に誘惑されて罪を犯した直後に、すべての人を永遠の死から救い出す救い主を遣わす約束を与えました(創世記3:15)。これは条件的な約束ではなく、恵みの約束なので、人間の度重なる背信にもかかわらず、取り消されませんでした。旧約聖書の中で預言されているように、救い主イエスはアブラハムやダビデ王の子孫として、ユダヤのベツレヘムで、処女から生まれました(ミカ5:2;イザヤ7:14)。そして、およそ30歳の時に公の宣教活動を始め、すべての人の代表として神の戒めに従ったきよい生活をし、多くの人々に罪の赦しや永遠の命について教え、33歳の時にすべての人の罪を償うために十字架の上で自分の命を神に捧げました。

キリストが身代わりに死んだので、神は全時代の人の数え切れない罪に対する怒りを鎮めました。キリストの死はすべての人の罪を完全に償いました。不足は残っていません。それはキリストの復活によって立証されました。けれども、すべての人が自動的に救われるのではありません。キリストがすべての人のために獲得した罪の赦しを、神はキリストを救い主と信じる信仰を通して一人一人の人間に無償の贈り物として与えます。ですから、人が救われるためには誰かがその人にキリストのことを教えてあげなければなりません。信仰はキリストについて聞くことから始まります(ローマ10:17)。キリストについての福音を通して聖霊が働いて、人の心に信仰を芽生えさせるのです。信仰は決して「私はキリストを信じます」という人の決心に基づくものではありません。聖霊の働きがなければ、人は「私はキリストを信じます。キリストは私の主であり、救い主です」と告白することは決してできません(1コリント12:3後半)。

信仰は私たちをキリストに結び付けます。それはぶどうの木と枝の関係のようです(ヨハネ15:5)。信仰によってキリストに結び付けられた私たちは霊的な命を得ます。霊的に死んだ状態から生き返ります。キリストとの交わりに入れられた私たちは神との交わりにも入れられました。神の養子とされ、神の家族の一員として迎え入れられました。ですから、キリストを通して神からの祝福をいただくことができます。キリストに結び付けられる以前の私たちは霊的に貧しい者で、神の目からご覧になって良いものを一つも持っていませんでした。その貧しい状態が信仰の恵みとして完全に変えられました。

U.私たちはキリストにあって豊かな者とされました

パウロは5節で以下のように述べています。「あなたがたは、ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされたからです。」聖書には「〜にあって」という表現が良く出て来ます。聖書の言葉使いに慣れていない方は、分かるような気もするし、分からないような気もするでしょう。キリストにあってとは、信仰によってキリストに結び付けられて、キリストに属する者にされて、またはキリストによって、などの意味が含まれています。キリストを信じる信仰に導かれた者は、ことばにおいても、知識においても、豊かな者とされます。ここでも、信仰に導かれる以前のコリント市民の状態が暗示されています。その頃の彼らは、ことばにおいても、知識においても、豊かではありませんでした。私たちもそうです。

ところで、日本には「目に物を言わす」や「以心伝心」ということばがあります。目で気持ちを伝える、ことばで言わなくても考えていることが伝わる、という文化があります。寡黙であることが美徳とされる文化があります。しかし、これは全世界で共通することではありません。考えていることをことばではっきりと伝えることが美徳の文化もあるのです。コリントはペロポネソス半島の根本にあった町で、陸運と海運の要所で、経済的に裕福な町でした。対岸のギリシャ本土にはアテネがありました。コリントもギリシャの町の一つでしたから、哲学や雄弁が好まれる町でした。雄弁は男性の社会的地位に影響を及ぼすほどでした。そのような社会では、知識が少なくて話がへたな男性は低く見られました。ですから、雄弁家になるために家庭教師を雇うこともめずらしくありませんでした。

けれども、パウロがここで言っていることばや知識は人間のことばや知識ではありません。このことばや知識の源は神です。神が教えなければ知ることのできないことばや知識です。6節は5節のことばと知識を説明しています。コリントの信者がことばや知識において豊かにされたのは、パウロたちが行なったキリストについてあかしがコリントの信者の中で確かなものとなったからです。パウロたちが語ったキリストについての教えがコリントの信者の中で確かなものとなったからです。コリントの信者はキリストが神の子であることを確信しました。救い主であることを確信しました。キリストが身代わりに死んでくれたので、キリストを信じる信仰の恵みとして罪が赦されることを確信しました。信仰の恵みとして永遠の命が与えられることを確信しました。これらは哲学などの学問から学べるものではありません。つまり、コリントの信者は人に語るための一番大切なメッセージを手に入れました。永遠の命のメッセージを手に入れました。彼らは未信者の雄弁家よりもすばらしい話を語ることができました。これが「ことばや知識において豊かにされた」という意味です。

V.キリストはこの世の終わりの日に必ず戻って来ます

キリストについてのあかしが確かになったことは、コリントの信者に更なる祝福をもたらしました。コリントの信者はどんな賜物にも欠けるところがなくなりました。パウロはここで賜物の具体例を挙げていませんが、神や隣人への愛、人徳、献身、思いやり、忍耐などのことを言っているかもしれません。もちろん、コリントの信者は完璧ではありませんでした。それは1章10節以下を読めば明らかです。しかし、キリストを信じる以前に比べれば、あらゆる面で成長したのでしょう。聖霊は人の心に信仰を生まれさせるだけでなく、その信仰を成長させます。霊的に生まれ変わった人を霊的な大人へと成長させます。その結果、クリスチャンは神や隣人への愛をことばや行動で現わすことができるようになります。人の徳を高めることばを話すことができるようになります。神のことばを正しく語る人は人の徳を高めます(1コリント14:3)。また、信仰が成熟すればするほど、クリスチャンは神に喜んで、進んで仕えるようになります。隣人を思いやることができるようになります。試練や困難に直面しても、それに耐えることができるようになります。

そればかりではありません。キリストについて確信したので、コリントの信者はイエス・キリストの現われを熱心に待っていました。初めに話したように、これはキリストの二度目の現われです。一度目は、すべての人の罪の身代わりとなるために低い姿でこの世に現われました。けれども、二度目の現われは違います。本日の旧約聖書の朗読で、イザヤは「ああ、あなたが天を裂いて降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。」と書いていました。その通りになります。その日、人々が気を失うほどの天変地異が起こります。神が維持を止めるので、宇宙のバランスが狂うからです(ルカ21:25,26)。その時、イエスは神の権威と栄光を帯びて、すべての天使を従えて、雲に乗ってこの世に来ます。天使の数は数え切れません。死んだ人も生きている人もすべてがキリストの前に集められます。キリストは天使たちを使って人間を信者と不信者に分けます。

自分の思いやことばや行ないの責任を取らなければならないとしたら、その日は恐ろしい日です。私たちクリスチャンでさえ心やことばや行ないによって毎日多くの罪を犯しているからです。しかし、幸いなことに、キリストを救い主と信じる人はキリストのきよさ(義)に覆われています。ですから、罪のない者とみなされます。パウロが8節で言っているように、イエス・キリストの日に責められるところのない者です。これは神からの恵みの贈り物です。私たちは何とすばらしい恵みをいただいているのでしょう。私たちがその恵みを失わないように、キリストは聖書や聖礼典(洗礼と聖餐式)を通して私たちの信仰を最後まで堅く保ってくれます。聖霊の働きによって私たちの信仰を保ってくれます。ですから、聖書を学び続け、聖礼典に与り続けましょう。そして、コリントの信者のようにキリストの再臨を熱心に待ちましょう。