主(神)の栄光が現わされる

2008/12/07

イザヤ40章1節〜8節                       

「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」とあなたがたの神は仰せられる。40:2 「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」40:3 荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。40:4 すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。40:5 このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。」40:6 「呼ばわれ。」と言う者の声がする。私は、「何と呼ばわりましょう。」と答えた。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。40:7 主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。40:8 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」

1985年だったと思いますが、茨城県つくば市で万国科学博覧会がありました。期間中の有料入場者総数は目標の2,000万人を超え、興行的に成功した万博の一つでした。一般の人々だけでなく、身分の高い人もこの博覧会を訪れました。私の記憶違いでなければ、昭和天皇もご覧になりました。陛下はお召し列車(皇族専用列車)で常磐線の万博中央駅(現ひたち野うしく駅)まで来られ、そこでお車に乗り換えて会場まで行かれたそうです。見学後はお車で水戸線の下館駅まで行かれ、そこからお召し列車でお帰りになられたそうです。このルートが選ばれたのは、お召し列車からお車、お車からお召し列車への乗り換えの際に階段を使わなくて済むからだったそうです。

また、陛下のお車が通過する街道のでこぼこは事前に修復され、街道沿いの見苦しい看板は一時的に撤去され、通行の邪魔になりそうな木の枝は切り落とされ、下館駅の駅舎はきれいに塗装されたそうです。偉い方がお越しになる時にはそのような事前準備が行なわれます。このことを心に留めることは今日の箇所を学ぶ上で参考になります。神がお越しになる時、私たち人間はどのような事前準備をすべきでしょうか。イザヤはその答えをこの箇所で教えています。

T.高ぶる心が低くされることによって主の栄光が現わされます

もうすぐクリスマスです。クリスマスは、人間の罪の身代わりとして死ぬために、子なる神が人間のからだを取ってこの世に現われた日を記念する祝いです。宇都宮教会では11月23日の礼拝前に、足利教会では30日の礼拝後に、クリスマスの飾り付けが行われました。同じ飾り付けではありませんが、どちらも大変きれいにできました。このような飾り付けもクリスマスを迎える準備の一つですが、一番大切な準備ではありません。今日の旧約聖書(イザヤ40:1-8)、使徒書(2ペテロ3:8-14)、福音書(マルコ1:1-8)によると、一番大切な準備は心を整えることです。

イザヤは紀元前700年頃の預言者で、イスラエル分裂後の南王国(首都はエルサレム)で活動しました。ミカも同じ時期に南王国で活動しました。その頃、北王国(首都はサマリヤ)ではアモスとホセアが活動しました。ですから、イザヤが直接に語りかけたのは南王国の民であるユダヤ人(イスラエル人)とその子孫たちです。イザヤは3節と4節で、「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。」と書いています。

旧約時代のイスラエル人は神に選ばれた特別な民族でした。神は彼らに特別な保護と祝福を与えました。国を与え、人口を増やし、敵の侵略から守りました。彼らが神に忠実な間、特にダビデ王の後年やソロモン王の時代、国は大きくなり、繁栄し、民は平和に暮らすことができました。しかし、彼らはだんだんと神から離れ、偶像礼拝をするようになりました。それは神が第1の戒めで禁じている罪です。神は預言者を遣わして、悔い改めるように何度も勧めましたが、彼らは聞き入れませんでした。神が私たち選民を滅ぼすはずがない、と彼らは主に対して高ぶりました。それで、神はバビロニヤ帝国の軍隊を使ってエルサレムの町と神殿を廃墟にしました。神殿は神がイスラエル人の中に住み、彼らといっしょにいることを示す建物でした。神殿が廃墟になったことは、神がイスラエル人の中から出ていったこと、彼らといっしょにいないことを意味しました。これはイスラエル人にとって大きなショックでしたが、悔い改めさせるために必要なことでした。

罪に対する神の対応は今も同じです。罪を悔い改めないで神に対して高ぶる者は低くされます(ルカ18:14)。例外はありません。クリスチャンも特別扱いされません。神は聖書を通して、信者を通して、時には試練を通して、罪を認めて悔い改める機会を人間に与えます。罪を悔い改めないことは、神の指摘は間違っている、神にへりくだる必要はないという態度を取ることです。神に対して高ぶり、神を侮辱することです。逆に、罪を悔い改めることは神の指摘が正しいことを認めることであり、神の前で身を低くし、神をあがめることです。私たちが悔い改める時、神の栄光が現わされます。

U.低くされた心が高くされることによって主の栄光が現わされます

高ぶるのとは逆に、人間の心は激しく落ち込むこともあります。特に、明らかな罪を犯して、神は赦してくれないのではないかと思う時、二度と神に愛してもらえないのではないかと思う時、人間の心は怯え、絶望します。罪について真剣に考える人ほどその傾向は強いはずです。バビロニヤへ捕虜として連れて行かれたユダヤ人たちも、試練によって高ぶった心を打ち砕かれ、低くされました。自分たちの罪が招いた結果によって絶望していました。帰国できるとは思っていなかったでしょうし、神殿を再建できるとも思っていなかったでしょう。もしその人々がイザヤの書き残した40章1節と2節を聞いたら、神の約束によってどんなに元気づけられ、慰められたことでしょう。

先ほど言ったように、イザヤが活動したのは紀元前700年頃で、エルサレムの町と神殿が破壊される100年以上も前です。エルサレムの町と神殿を滅ぼすバビロニヤ帝国はまだ生まれていませんでした。まだアッシリア帝国が覇権を握っていました。神はその頃既に、イザヤを通して罪の赦しと捕虜からの解放のメッセージを南王国の民に書き残しました。100年後の人々への慰めを書きました。1節は「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」という神のことばで始まっています。同じことばがくり返されるのは強調のためです。絶望した民を慰める神の意志の固さを表します。教えることが真理であることを強調するために、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。」とイエスも同じことばをくり返して使いました。

2節には100年後の人々への神の慰めが具体的に書かれています。神は預言者を通して絶望した人々にやさしく語りかけます。彼らの労苦は終わり、咎は償われ、彼らはすべての罪と引き替えに、二倍のものを主の手から受けました。「終わった」、「償われた」、「受けた」という動詞は預言的完了形が使われています。それは話し手の確信、つまり、2節に書かれていることが実際に起こるのは未来ですが、それは既に成し遂げられた同じであることを伝えます。神は約束を必ず守るので、未来のことも既に起こったと同然なのです。皆さんは2節を不思議に思うでしょうか。しかし、よく考えてください。神が罪を犯したアダムとエバに救い主を約束した時、私たちにも約束しました。十字架上で死んだ時、イエスは私たちの罪の身代わりにも死にました。私たちはまだお母さんのお胎にもいませんでした。いや、私たちの両親さえこの世に存在していませんでした。それなのに、イエスは私たちの罪の赦しと罪の奴隷からの解放を宣言しました。その過去の宣言は世の終わりまで有効です。

イエスが過去に宣言した約束を信じる人は、どん底に落ちた時でも慰めを得ます。ペテロは逮捕されるのが怖くて、3回も「イエスを知らない」と言ってしまいましたが、イエスのことばを思い出して慰められました。自殺したユダと違って、ペテロはイエスによる罪の赦しを信じました。そして、天に召されるまで信者として歩み続けました。私たちも犯した罪のために心が責められ、絶望する時があるかもしれません。そのような時、イエスは「わたしのところに来なさい。わたしがあなたの罪の重荷を取り除いて、安らかにしてあげましょう。」と私たちを招きます。私たちがイエスによる罪の赦しに信頼して、心を安らかにされ、信仰生活を続ける時、神の栄光が現わされます。

V.主ご自身が信者のところに戻って来ることによって主の栄光が現わされます

5節に「このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。」と書かれています。人が罪を悔い改める時、その逆に罪の赦しの約束によって心の平安を得る時、主の栄光が現わされます。しかし、主の栄光が一番良く現わされるのは主ご自身がその姿を現わす時です。出エジプト記を読むと、主の栄光ということばが良く出て来ます。主の栄光とは主の存在を現わす現象で、雲であったり、炎であったり、光であったりしました。罪深い人間が神を直接見るとその瞬間に死んでしまうので、神は雲や炎や光でご自身の存在をイスラエル人に示しました。荒野を放浪していた間、彼らは幕屋という組み立て式の礼拝所を持ち歩きました。幕屋が組み立てられると、雲がそこに降りて来て、民は神の存在を知ることができました。

彼らがカナンに定住後、幕屋は固定式に近くなり、ソロモン王の時代に立派な神殿に取って代わられましたが、基本的な構造も、そこが神の存在を示す場所であることも同じでした。前に話したように、変わったのは民が不信仰になったことでした。その結果、神はエルサレムの町と神殿の廃墟にしたのです。「あなたがたが私を捨てるなら、わたしもあなたがたを捨てます。」という意志を示しました。廃墟になった神殿で神の栄光が現わされることはありませんでした。しかし、イスラエル人は主の栄光を再び見ることができます。まず、捕虜から帰ってきた人たちが神殿を再建して、そこで主を礼拝する時、主の栄光は現わされます。

しかし、イザヤはもっと驚くことを預言しています。すべての者が主の栄光を見る時が来るのです。イエスが最初にこの世に現われた日、イエスの誕生を喜ぶ天使たちの讃美歌によって主の栄光は輝きました。この栄光を見たのはベツレヘム郊外にいた数名の羊飼いでした。イエスの両親が律法の定めに従って幼子イエスを神殿に連れて行った時、シメオンは幼子イエスを見て、この子は神が万民のために備えたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です、と言いました。この時もイエスに気付いたのはシメオンとアンナだけでした。宣教活動が終わりに近づいた頃、イエスはある山の上でペテロとヤコブとヨハネに神として栄光で輝く姿を少し見せました。でも、この世の終わりの日には、望んでも望まなくても、信者も不信者も、死んだ人も生きている人も、すべてが主の栄光を見ます。見た目は十字架の死から復活した時のイエスと同じですが、すべての天使を従え、神としての栄光を帯びています。イエスを信じなかった者は恐れながら、そしてイエスを信じなかったことを後悔しながら栄光に満ちたイエスを見ます。クリスチャンは畏怖を感じながらもイエスの教えが正しかったことを喜びならがイエスを見ます。人間のこの世での命や栄光は枯れて行く草と同じで、短いです。けれども、イエスを信じた者は天国で永遠に生き、イエスの栄光をいつまでも見ることができます。神の約束は永遠に立ちます。つまり、永遠に確実です。